02/鷲掴みの出会い
そのマンションの中はやたらと暗かった。
灯が一切ついていないのだ。
節電の類でもなさそうで、エレベーターも機能していなかった。故障しているのなら張り紙くらいはあるだろうに、それもない。
(どう見ても、まともな場所じゃないわよね)
当然、そこに住んでいる人間もまた同様だろう。
そうじゃなければこんなところで暮らしはしないし、そもそもここが人が勝手に暮らしていい場所なのかどうかも怪しかった。
(まさか、こんな時間帯に携帯を灯代わりに使う事になるなんてなぁ……)
鬱々とした気持ちをを抱きながら、春は先のほとんど見えない階段を上って、東雲八咫がいるらしい七階に向かう。
電気がないというだけではなく、どうやらこのマンションはそもそも光を嫌う造りをしているようだ。
外から見た時、窓は確かにあった筈なのだが、階段はもちろんのこと廊下にも日光を通すものが何一つ存在していなかった。
(フェイクの窓だったってことなのかな? だとしたら本当の意味でまともなマンションじゃないって事になりそうだけど……)
ただ、その場合はそういう趣向というだけで話が済むので、不法滞在者の聖地などといった可能性よりはマシな気もする。まあ、どっちにしても変な奴等の巣窟であるという事実が揺らぐ事はなさそうだったが。
(……人がいるのは、五階からか)
ところどころで響く生活音が教えてくれている。
慌ただしい感じはしないし、移動を繰り返しているわけでもないので、今から出かける人もいなさそうだ――と、適当な推理を立てたところで、突然音が途切れた。
五階に上がってすぐに出来事だった。
(……え? な、なに?)
まるで合図を交わしたみたいに、完全な無音が続く。
呼吸のような微音すら排斥された静寂。
耳が痛い。
「……マジでなんなのよ、ここ」
得も知れぬ恐怖に突き動かされるように、春は二段飛ばしで階段を上り七階に急いだ。
自分の足音だけがやけに大きく響く事に、さらなる焦燥を抱きながらもなんとか目的の階に到着する。
そこで、安堵の息が漏れた。
七階はまっとうな光に包まれていた。
照明がついているというただそれだけの事が、これほど救いに感じるというのも稀有な体験だ。出来れば二度と味わいたくはないが、なんにしてもこれで視覚に頼れる。
春は携帯を仕舞い、とりあえずは表札を頼りに東雲八咫の住まいを探すことにした。
(音は相変わらずか。……でも、ここは完全防音って感じよね)
建物の機能としての無音であるのなら、それは自然だ。
少なくとも、ここに住んでいる人間は下の階の奴等よりはマシな筈。
(……だったらいいんだけどなぁ)
希望的観測である。
それを自覚できる程度には春は冷静だったし、異常というものにも多少の耐性があった。
(それにしても、本当に下とは雰囲気が違うわね)
というか、床や壁の材質すら違う気がする。
この階だけ、違う建物の一部を差し込んだような歪さがあるのだ。
(普通に考えたら、莫迦みたいな手間だけど……)
答えなど出ない考えをしている間に、東雲という表札を発見する。
まずはどんな挨拶をしようか、などと考えつつインターホンを鳴らすと、十秒ほど経過したところで、がちゃりとドアが開かれた。
(とりあえずは笑顔よね、笑顔)
第一印象は大事だというセオリーに従いつつ、春はアルカイックスマイルを意識しようとして――しかし、顔を出した人物を前に、そんな意識は綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまう。
「……」
人を見て、息を呑んだのは生まれた初めてだった。
黒よりも深い蒼色の髪。
真珠のように美しい肌。
鮮血のように艶やかな唇。
そしてそれらの完璧な色に相応しい、一部の瑕疵も見いだせない極上の美貌。
凛然であり可憐であり妖艶であり、どこか恐ろしくもある十四、五歳くらいの少女。
ドアを開けて出てきたのは、そのような至高だったのだ。
漆黒の着物を身に纏ったそんな彼女は、アメジストの瞳を真っ直ぐにこちらに向けてくる。
「え、あ、ええと、あの……」
まるで好きな子を前にした思春期の男子みたいだと、自分自身のしどろもどろさに嫌悪を覚えながらも、それでも言葉が上手く出てこない。それどころか、顔を直視することすら儘ならない有様だった。
先程の恐怖を忘れさせるほどの動揺。
(――って、いやいや、相手同性でしょう? あたしそっちの気とかないし!)
だから全然平気だと、何度も自分に言い聞かせて、平静さを連れ戻そうと試みる。
それになんとか成功したところで、春は俯かせていた顔を上げて――
「――え?」
いつのまにか、目の前にいたのは長身の女性だった。
百八十は間違いなくあるだろう。スレンダーな体型。喪服めいたスーツが異様に似合っている。
切れ長の瞳が刃物みたいに攻撃的で、この上ない美人なのに、その一点の所為で親しみからは程遠い印象があって――
「あまり張りがないな。かといって柔らかさにも乏しい。無駄に大きいだけの不出来なつくりか」
――そんな第一印象に更に猛毒をばら撒くように、絶世の美少女と入れ替わりで顔を出してきた長身の女は、何の躊躇いもなく春の胸を鷲掴みにしたあげく、信じがたい感想をのたまいやがったのだった。
「な、な、な……」
すぐには理解が追い付かない。
為す術なく触られた数秒は、その所為だ。
そして、我に返りその手を振り払おうとした時にはもう、女の手は春の胸から離れていた。
「いつまで呆けている。用がないならさっさと消えろ、狗ころ風情が」
辛辣極まりない言葉を吐くだけ吐いて、女はこちらに背を向けて、さっさと部屋に引っ込んでしまう。
そこでようやく、正しい感情がふつふつと全身の血液を昂ぶらせてくれた。
(なんて奴なのっ!?)
これがそこらへんのチンピラとかなら迷わずぶん殴っていたところだ。
だが、相手は客である。これから自分がどう関わるのかもまだよくわかっていないが、それでも仕事の関係者であることには違いない。
(……我慢よ。我慢、我慢、我慢、我慢)
血が滲みそうなほどに拳を握りしめながら、春は必死に大人であることを努めて、長々と息を一つ吐きだしてから彼女の後を追って部屋に足を踏み入れる。
短い廊下を進むと、やけに広いリビングが迎えてくれた。
いかにも高そうな革張りのソファーに、趣味の悪そうな絵画の数々。テーブルには四つほどのノートパソコンが置かれている。
(……ブルジョワめ)
ちょっとした嫉妬を垣間見せつつ、春はソファーに足を組んで座っていた長身の女を見据えた。
「あたしは、市から寄越された三上春というものですが。そういう貴女は、東雲八咫さんでよろしいのでしょうか?」
出来れば彼女の隣にちょこんと座っている少女がそうであればいいのになぁと夢見ながら、でもどうせこっちがそうなんだろうなぁという哀しい確信と共に訪ねる。
「クズの次はグズか。人手不足もいいところだな」
微かに目を細めて、長身の女――東雲八咫は失望の息をもらした。
失望したいのはこっちだと言い返したいところだが、ここも我慢、我慢、我慢――と、頭の中で言い聞かせていると、きぃ、という妙な音がどこかから響く。
音の発生源までは突き止められなかったが、この部屋のどこかから鳴ったのは確かだ。
その反応を、表にだした覚えはないのだが、
「……まあ、耳が使えるのなら問題ないか」
と、八咫は冷めた声で呟き、ソファーから立ちあがった。
それに合わせてどこまでも美しい少女もまた席を立ち、左手にあったドアの奥に消えていく。
「え、ええと、それであたしは、その、なにをすればよいのでしょうか?」
罵倒が飛んでくるのを覚悟しつつ、春は訪ねた。
すると彼女は、テーブルに置かれていた資料のようなものをこちらに向かって投げつけてくる。
(――っ、これ、どんくさい奴だったらどうすんのよ!)
運動神経には程々の自信がある春は、顔面目掛けて飛んできたそれを無事に受け取りつつ、抗議の眼差しを向けるが、当然のようにどこ吹く風だ。
ストレスが順調に蓄積されていくのを感じる。
自分は果たして、最後まで自制心を保てるのだろうか……
(……殴ったら、やっぱりクビなんだろうなぁ)
今日辞める覚悟が出来ていればいっそ清々しい気持ちだっただろうに、タイミングというものは難しいものだ。
内心で中途半端な自分に対する落胆のため息をつきながら、春は資料に眼を通していく。
(ええと、ええとぉ……)
資料は英語で書かれていた。
つまり読めない。
が、そんな事実を八咫に知らしめるのも癪である。なんとか読めそうな単語を探して、頑張って翻訳を続ける。
結果、わかった事といえば、これがなにかの論文であるという可能性だけだった。
「あ、あのぉ、これってその、仕事に関係あるんですか?」
「……脳味噌も足りてないのか」
キッチンにミネラルウォーターを取りに行っていたらしい八咫に訪ねると、憐れむようなトーンでそんな事を言われた。
学が無い事に関して、はちょっと負い目に近いものもあったので、怒りよりも痛みの方が勝ってしまう。
そうして押し黙る春に、八咫は言った。
「指示通りに動け。他に貴様がする事はない。出来る事もな」
「……」
ここは、大人しく頷くべきところなのだろう。
けれど、それはなんだか自分自身の仕事に対してあまりに不誠実な気がして、
「……たしかに、そうなのかもしれないですけど。解っていた方が絶対に上手くやれると思います」
と、春は言いかえした。
微かに八咫の瞳が細められる。
嫌悪を凝縮したような、冷たさ。
それを払拭したのは、鈴のように綺麗な少女の声だった。
「なにも、聞かされて、いないの?」
「え、ええ。その、上司がズボラなものでして」
どこか舌足らずな問いかけに、春は繕うような笑みを返す。
少女の表情は透明だ。無表情と呼ぶにはそれはあまりに心地が良い。
(――って、いけないいけない)
また魅入りそうになった事実に頭を振って、少女の言葉を待つ。
「これから行くのは、異界。私達の、世界ではない、場所」
「異界?」
唐突な台詞に春は眉を顰めるが、その単語自体に抵抗を覚えることはない。
何故ならそれは、もはや公然たるものとしてこの世界を覆っている不条理だからだ。
「だから、音が、大事。視覚だけでは、足り、ない、から」
少女はどこかもどかしそうに、苦しそうに言葉を並べる。
それで、もしかして声帯器官に何か問題を抱えているのかもしれないという想像に到ることになったが、至ったところでこちらに出来る気遣いは浮かんでくれなかった。
「なにか、武器は、もっている?」
「いえ、そういうものはもってないです」
そう答えると、少女は隣の部屋から持ってきたらしいカバンからおもむろに拳銃を取り出した。
いわゆるリボルバーという奴だ。研修で触った事がある。
(……っていうか、これってこういうのが必要な仕事ってことよね)
荒事の類になることは覚悟していたが、正直ここまで危険な内容だとは思っていなかった。行方不明者の件は、仕事とは直接関係なかったからだ。
彼らは市の職員だったから、仕事とは別のところで行方不明になることになったのである。……まあ、そっちの方が怖い気もするが。
「これは、あくまで、気休め。倒すより、こちらに知らせる意味合いで、使って、ほしい。……わかった?」
「……ええ、わかりました」
力無い返事と共にリボルバーを受け取り、それをとりあえずスーツの内ポケットにしまう。
リボルバーにはマニュアルセーフティはないが、トリガーの重さがセーフティとなっている筈ので、このままでも問題ないだろう。
「じゃあ、出発」
独り言のように呟いて、少女は玄関に向かって歩き出す。
その後ろ姿を見ながら、
(この子は、まともそうよね。よかった)
と、この仕事に置いてのちょっとした救いを噛みしめつつ、
(でも、大丈夫なのかな。苛められたりしてないのかな)
ちらりと凄く機嫌の悪そうな表情をしている八咫を見て、ついつい余計な心配を抱いてしまう。
だが、さすがにそれは杞憂で済みそうだった。
長い着物の裾の所為で軽く躓いた少女を、八咫は誰よりも迅速に、かつ労わるように支えて、悪態の一つも見せなかったからだ。
(身内には、優しいタイプなのかしら?)
だとしたら、少しは彼女の事を見直せそうではあるが――
「のろまがさっさと出ろ。低能の間抜けが、不快な面を晒すな」
(……うん、無理ね)
この女とは絶対に上手くやっていけない、という確信をもって、春はその部屋をあとにした。