01/代打、新入り
二十分ほど時間かけて駅まで歩き、そこから出ているバスを利用して美船市役所に向かう。
まだまだ見慣れたとは言い難い、一公務員である三上春の仕事場。
ほどほどに良い給料と、今のところは残業もなく六時には帰宅できるため、大学時代とあまり変わらない生活サイクルで居られるというここの環境は、骨を埋めるには理想的な職場なのだろうし、友人なんかも羨ましいと言ってきたりするのだが、正直春はこの仕事を長く続けるつもりはなかった。
というのも、五月半ばという今現在――つまり、入社から一月半程度しか経っていないにもかかわらず、残っている新入社員がもう春しかいないという現状があったためだ。
これが上司のパワハラとかなら、わかりやすくてよかったのだが……
「四日前から連絡が取れなくなっていた藤林君が、晴れて行方不明者リストに送られることになった。今月に入ってこれで四人目。そのうちの三名が新人というのは何とも言えないが、幸い求人者はそれなりにいるので代役はすぐに用意出来る。よかったな三上君、もうすぐ先輩だ」
投げやりな口調で上司の戸口幹夫が言う。
その彼にお茶を渡しながら、春は「……はぁ」と曖昧に頷くに留まった。
「覇気のない返事だな。つまりお前さんはもう新人じゃないという事なんだぞ。お茶くみなんて誰でも出来る事をする必要がなくなったんだ」
嫌な前フリだ。
「……つまり、いなくなった藤林さんの代役をやれということでしょうか?」
「お前さんは察しが良くていいなぁ。あぁ、その通りだ。本音をいえば、新人にやらせる事ではないと俺も思ってはいるんだがね。残念ながら、他に適任者がいない。というわけで、大事な大事なお仕事だ」
そっちこそと言いたくなるような、まったくもって覇気のない声で言いながら、幹夫はポケットから携帯を取り出して、こちらが提供したお茶を呑みつつ片手でボタンを操作していき、
「はい、メールを送ったから、詳細はそれを見てくれ」
と、春の携帯を震わせた。
そして大きな欠伸を零してから、自分のデスクにつき、かちゃかちゃとキーボードを打ち始める。
それが仕事のための動作である事を願いつつ、春は携帯を取り出した。
(指令書、ね)
大仰な表題のメールを開くと、そこには一つの住所とそこに住んでいるのであろう人物の名前が記されていた。それだけしか記載されてはいなかった。
「……あの、私はそこでなにをすれば?」
「行けば判るさ」
「はぁ……」
詳細とは一体なんだったのか、こちらに目も向けない上司のいい加減さを改めて感じつつ、春は内心でため息を一つ吐いて、
「では、行ってきます」
やや不満を滲ませつつそう告げ、自分のデスクに置いたバッグを手に取った。
取ったところで、
「――あぁ、そうだ、上手く補佐しろとまではいわないが、トラブルは起こすなよ! 絶対にだぞ!」
と、思い出したように上司が今日一番の張りのある声で言ってくる。
「起こしませんよ!」
なんだか問題児扱いされているような物言いに怒りを隠しきれず大きな声を返しつつ、春は職場を後にした。
§
携帯で美船市のマップを開いて、記された住所に向かう。
高菜区奈々羽南五番町三十八番地。市役所から直線で二キロほどの距離にある住宅街だ。
あまり縁がない場所なので、足を運ぶのは今日が初めてだった。
(東雲八咫、どんな人なんだろう?)
これから会う難しい名前を頭に入れながら、春は考える。
幹夫のあの忠告からして神経質な人物なのかもしれないし、頑固な職人気質の人間なのかもしれない。いずれにしても、対応には注意を払う必要はありそうだった。
(っていうか、そういうのは得意じゃないんだけどなぁ)
もちろん社会人なので、目上の人に対する敬語とか作法は……まあ、そこまで眉を顰められるほど酷いものじゃないとは思っているけれど、所詮は学生気分が抜け切れていない新人だ。なにかしらやらかす恐れは多分にある。
それでも春に任せるというのは、実際はそこまで難しい相手でもないのか、それとも本当に彼女が適任だからなのか。
(前者だったらいいんだけど……)
淡い希望を抱きつつ、春は表通りから裏路地に舵を切る。
こういった狭く暗い場所は、いつの時代も危険を孕んでいるものだ。
現に今も、耳を済ませば複数の不穏が聞こえてくる。
不良同士の喧嘩、中毒者の奇声、一方的なリンチの打撃音。
一般的な女性が足を踏み入れるのは、どう考えても愚かな場所といえるだろう。だが、そんなものは一切気にせずに春は奥に踏み入っていく。
前方を注意することもなく、携帯をずっと見つめながら、脇のゴミ箱を避け、曲がり角から急に横切ってきた黒猫に道を譲り、
「こっちじゃないな」
と、呟きながら少しだけ脇道を通って、やがて大通りに出た。
(あとは、ここを右に曲がって、ええと……二つ目の信号を左か)
地図を見るのはあんまり得意じゃない。
昔は携帯が音声で案内してくれたって話だけど、今の携帯にそんな高度な真似はできないのだ。まあ、正確にいうと、そういう機能をもった携帯を作れる会社が、この美船市関係にはないという事なのだが。
(……二十年前って、どんな時代だったんだろう?)
そんな、どうでもいい事をとりとめもなく想像しながら、春は目的の住所の前に辿りついた。
古臭さを感じさせる、ところどころ塗装の剥げたマンション。
どことなく、足を踏み入れにくい空気が漂っている。
それは春の仕事への姿勢が連れてきた気後れか、或いは本能が感じ取ったサインなのか……哀しいかな判別する手段はないし、引き下がるという選択もない。
(管理人は不在みたいね)
警備員などの存在も見当たらなかった。セキュリティーはかなりガバガバなようだ。
まあ、面倒な手続きが一つ減ってくれたのはありがたい。
春は深呼吸を一度して心を落ち着かせてから、マンションの中へと足を踏み入れた。