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祈りの国  作者: 識島果
第2章 神殿の名の下に
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第5話 奇妙な声

 それからのキイラはといえば、実によく食べた。レイガンに言われた通り、まずは弱り切ってしまった気力を取り戻し、瘦せぎすの体に力をつけることに専念しようとしたのだ。というのも、レイガンの提案を受け入れた次の日にさっそく彼の元を訪ねたキイラだったが、取りつく島もなく追い返されたからだ。

「まずは健康になることだ」

 レイガンは繰り返した。

「ひび割れやせた土地に種を蒔いたところで、実を結ぶことはないだろう。水捌けの悪い軟弱な地盤の上に城を築いたところで、すぐに傾いて崩れ落ちるだろう」

「ひび割れた土地とか、軟弱な地盤って、わたしのこと?」

 キイラはむっとしながら言った。確かに自分の腕や脚は幾分痩せているかもしれないが、それはあくまでも「同年代の子どもたちと比べれば」ということであって、自分がレイガンの言うほど不健康であるとは思えない。

「わたし、熱を出したこともほとんどないよ」

「きみがこれまでの短い人生で何度風邪を引いたかについてはそれほど興味がない。きみが一昨日から何度くしゃみをしたかについても同様だ」

 レイガンはキイラのほうをろくに見もせずに、軽い調子で言った。

「私が言っているのは『心身ともに健康であれ』ということだ。まず、きみはあの日からろくに食事もしていないし、眠れてもいない」

 見透かしたようなレイガンの言葉に、キイラは唇を噛んだ。

 炎に包まれたポウスリーの姿が目の奥に焼きついていた。それに伴って思い出される黄金色の残像が、頭の中の暗い場所でちかちかと瞬いては、キイラの眠りを妨げた。キイラは目の下にできているはずの隈を擦り、俯いた。

「それが悪いことだと言いたいわけじゃない。寧ろ、当然のことだ」

 レイガンはほほえみ、声を和らげた。

「キイラ、きみはまだ不安定だ。情緒の安定していないものが魔術を扱うということは、乳飲み子にナイフを与えるのと同じくらい危険なことなんだ」

「だけど、わたしの村を焼いたフタル人は、今もイベルタを彷徨いているのよ」

 キイラは唸った。

「太陽の照らす道の下を!」

「きみの焦りは分かっている」

 レイガンはあくまで穏やかに言った。

「そのうえで、待てと言っているんだ。まずは、飯を食べろ。そして、よく眠るんだ。街を歩いて、景色を見るのもいい」

 話はそれで終わりだった。こうなるとレイガンは頑なで、宥めてもすかしても効果はなく、キイラはすぐに彼の考えを変えることはほとんど不可能であることに気づいた。自分の望み通りにするには、レイガンの言葉に従うのが一番の近道であるということにも。

 そうと気持ちを切り替えれば、調子を取り戻すのは意外にもそれほど難しいことではなかった。ことあるごとにキイラを街へと連れ出したユタの助けもあった。手が届かないほどに遠ざかり、最早永遠に元通りになることはないかと思われたキイラの五感は、いっそ拍子抜けするほどの急速さで彼女の元へと帰ってきたのだ。規則正しい生活を心がけ、三食をきちんととるうち、キイラの体を覆っていた薄膜は解けていった。神殿の食事はけっして豪勢ではなく、寧ろ質素すぎるほどだったが、野菜や果実は常に新鮮で、自然の大地の滋味があった。その見えない力は血流に乗ってキイラの全身を巡り、活力を与えた。

 活力が満ちれば、出歩く気にもなる。毎日歩いていろいろと見て回ると、新鮮な情報の洪水が彼女の気分を紛らわせた。眠れるようになれば、春のトラヴィアのうつくしさを楽しむ心の余裕もあらわれた。飴色がかったやわらかな陽光のベールに包まれる赤茶の屋根の連なり、滲むような瑞々しい街路樹の若葉、一斉に北を向いてほころんだハクモクレンの蕾、軒先を彩るアネモネやクロッカス……。

 胸の奥には、なにか昏くひややかな靄のようなものが常にわだかまっていたが、キイラはそれを心の小部屋へと意図して押し込め、鍵を掛けてしまった。その中身を直視してしまったら、自分は一歩も進めなくなってしまうのではないかという恐怖があった。


 その日は、前日の夜から降り続く憂鬱な雨のせいで、キイラはユタの部屋に篭っていた。ユタは陽が落ちてもまだ本殿で研究の続きをしており——神殿つき魔術師の殆どがそうであるように、彼女もまた優秀な研究者であった——キイラはひとりぼっちだった。部屋の上部にぽつりと拵えられたはめ殺しの明かり取りに、タ、タ、タ、と雨粒が叩きつけるのをキイラは聴いた。ユタの部屋を含むこの西棟の居住室の窓は、すべて小さい。嵌っているのも高価な硝子ではなく、薄く切った雪花石膏アラバスターであった。そのために、魔術師たちの部屋はいつでも薄暗く、ひんやりとしている。

 キイラは、ユタの机の上に几帳面に重ねられた古い写本の一冊を手に取り、なんとはなしにめくった。それは図録の豊富な儀式魔術の指南書だったが、今のキイラには高度すぎ、内容の二十分の一も理解することができなかった。キイラはひとつ嘆息し、本の上に突っ伏した。

「全然、分からない……」

「そんなに修業を始めたいのか?」

 突然耳馴れぬ声が間近に聞こえ、キイラは飛び起きた。弾かれたように立ち上がり、辺りを見回すが、狭い部屋の中にはキイラ以外の誰もいない。キイラは気味の悪さに喉を鳴らした。幻聴なのか? いや、確かに耳元で聞こえた——嗄れた男の声が!

「そんなに驚かないでくれ」

 ぎょっとするほど近くで、また男の声がした。今度は下から。下から?

 勿論そこには誰もいない。ならば、魔術やまじないの類か。

「なにもおまえに話しかけるのは初めてではないだろう。ここだ、おれはここだ」

 どこか狭い部屋に反響するような、くぐもった奇妙な響き。キイラははっとして胸元を押さえた。ここからだ。声はキイラの胸の辺りから発されているようだった。ふと思い当たり、キイラは首に掛かった鎖を摘まみ、服の下からあの指環を引っ張り出した。

「やあ、ようやっと気づいたな」

 がさがさした声が惚けたような調子で言った。キイラは零れんばかりに目を瞠り、ぽっかりと口を開けた。

「指環が……」

「指環が喋るのはおかしいか?」

「おかしいというか、なんというか、その……」

 キイラは激しい混乱に見舞われながら、信じられない思いで指環を見つめた。指環の石は、薄暗い室内にあってなお、蜂蜜のような澄んだ輝きを放っていた。しかしよくその奥を覗き込んでみれば、微かに、なにか瞳の煌めきに似た光——有機的なちらつきのようなもの——が認められた。それはよく見なくては分からないほどの微細なものではあったが、無機物にはけっして存在しえない確かな意思の反映であり、これがこの石を生命たらしめていた。

 本当に、指環が喋っている。キイラは思わず尋ねた。

「あんたは……悪魔?」

「悪魔」

 指環は面白そうに繰り返した。

「どうだろう。そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

「はっきりして! 大事なことだわ」

「どうして大事なのだ」

「どうしてってそれは、あんたがもし悪魔だったら、それなりの対処をしなくちゃならないからよ」

「対処とは?」

「そ……そうね、まず、誰かに相談して……」

 そう説明しながら、キイラは途方に暮れてしまった。誰かって誰だろう。ユタ? レイガン? それとも、神官の誰か? 相談して、どうしてもらうつもりなのだろう。そもそも、悪魔なんて本当に存在するのだろうか。実際には、わたしの頭がすっかりいかれてしまって、突拍子もない幻聴と妄想に取り憑かれているのかもしれない。

「とにかく、あんたの——」

 ふと、能天気なまでの唐突さで生まれ出でた疑問を、キイラは考えもせず口に出した。

「名前は?」

 指環はあっさりと答えた。

「おれに名前などない。遠い昔にはあったのかもしれないが、とうに無くしてしまった。好きに呼んでくれ」

 名前がない! このとき、意思に関与しないところにあるキイラの無意識が、彼女にこう呟かせた。

「カド……」

 唇から放たれたその響きは、キイラ自身の耳に飛び込み、鼓膜を震わせた。ちかりと頭の奥で鳶色が瞬く。まったく突然に、身体から切り離したはずの傷つきやすい部分がずきりと痛み、キイラを怯ませた。指環が怪訝そうに問い返した。

「カド? なんだそれは」

「悪魔って意味よ」

 どうしてそんな嘘を吐いたのかはキイラ自身にも判別つかなかったが、ともかく指環は納得したようだった。カド、と指環は確かめるように繰り返した。

「あんたのことを、カドって呼ぶわ」

「響きは悪くないな」

 カドが呑気に呟いた。

「おまえは……」

「おまえ呼ばわりしないで」

 たった今まで相手を「あんた」呼ばわりしていたことを棚に上げ、キイラはぴしゃりと言った。暫し考えるような間があって、カドが渋々といったように「きみ」と言い直した。

「きみはどうして魔術師になりたい?」

「喋らないで」

「そんなことを言わないでくれ。おれはずっと待っていたのだぞ。きみが話し相手になってくれるのを」

「ずっと待ってた?」

「おれは一度きみに話しかけたではないか。あの夜に……」

 そういえば、先程そんなことを言っていたような気がする。

「覚えてないわ」

「きみは取り乱していたからな」

「その前は?」

 キイラは不機嫌に呟いた。

「その前?」

「本当は喋れるのに、ただの指環のふりしてずっと黙ってたってわけ?」

「そういうわけではない。知覚はしていた。思考もしていた。ただ、目覚めていなかった」

「寝てたってこと? 普通の人間は、寝てるときは知覚も思考もしないわ」

「そんなことはないはずだ。人間だって、寝ているときも周囲の物音を理解したり、色々なことを考えているだろう」

「あんたに人間の何が分かるのよ」

 カドが気圧されたように黙り込んでしまったので、キイラは奇妙な罪悪感を覚えた。この得体の知れない喋る無機物が、善なるものか悪なるものかはまだ分からなかった。しかし、少なくとも、彼は鋭い言葉によって傷つけることのできるなにかを持っているように思えた。

「どうして魔術師になりたいかって言ったね」

 キイラは声をやわらげた。

「フタルの抵抗者たちと戦うために」

「復讐のため?」

 カドがしずかに尋ねた。キイラは頷いてみせた。指環は返事をしなかったので、キイラは少し沈黙し、それからぽつりと続けた。

「わたしには、もうそれしか残っていないから」

「キイラ」

「なんだか疲れちゃった。早めに寝ようかな。それに、指環に向かって話しかけるのって、冷静に考えると馬鹿みたいだわ」

 カドの言葉を遮り、キイラは口早に言った。

「それに、寝たら元通りかも。これは夢なのよ。あんたは喋る指環なんかじゃないし、わたしは幻聴なんか聞こえやしない健康体なの。わたしは明日の朝爽やかな気分で目を覚まして、レイガンのところへ話をしに行くわ。いい加減魔術を教えてもらえるようにね」

「指環じゃない。カドだ」

 間髪入れずに訂正したカドに、キイラは目を瞬いた。

「その名前、気に入ったの」

「短くて覚えやすい」

 キイラは肩を竦め、そう、と返事をした。その日は、カドは以降口をきかなかった。

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