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祈りの国  作者: 識島果
第5章 まつろわぬ者
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第43話 王の布令

 鈍色の雪がちらついている。

 〈灰の山脈〉の北側ほどではないが、この時期になればトラヴィアの都にも少しは降る。整然と並んだ赤茶の屋根屋根や、葉を落とした街路樹の梢に雪がうっすらと降り積もるさまは、都一帯に銀粉を塗したようで美しい。常であれば、子どもたちが寒さもものともせず通りをはしゃぎ回るものだが、風に嵐の気配のあるせいか、今日はどの家も窓と扉とをぴったりと閉じ、目抜き通りさえも閑散としている。

 灰に淀んだ煙水晶の空の下、覆いを目深に被った男たちが、騎乗したまま大通りを往く。彼らはみなカロメ虫の紋章が縫い取られた外套を纏い、神殿へと向かっている。彼らは真っ直ぐに門扉を潜り抜けると、それぞれ馬から降り立った。駆け寄ってきた厩番たちに手綱を預け、神殿の中へ。馴鹿トナカイ革の長靴が、石床の上に濡れた跡を残していく。外套の釦を外しながら、脇目も振らずに歩いていく先頭の男へと声を掛けるものがあった。

「ジストフィルド。帰ったようだな」

 ジストフィルドは緩やかに立ち止まり、外套の覆いを払った。幅広で重たげな造りの二重瞼は今は鋭く、雪を含んだ木枯らしをそのまま持ち込んだかのように冷気を纏っている。ジストフィルドは雪がすっかり染み込んだ外套を脱ぐと、その内側へ収めていた書簡入れを取り出した。ジストフィルドは皮肉を込めて言った。

「わざわざ出迎えか、ミクリット。よもや俺が使者の真似事とは」

 声を掛けた上級魔術師は視線だけでその封蝋を改めると、可笑しそうに口角を上げた。カロメ虫と盾とが象られた紋章は王家の証。

 王都ファルヴィアから街道を下り、サガン、ダインの町を経由して、ジストフィルドらがこうして第二の都トラヴィアに帰り着いたのは、神殿が大失態を犯してからひと月ばかり後のことである。

「なにを言う。栄えあるわれらが将校殿の顔を一番に拝みたくてね」

 ミクリットはジストフィルドの礼服の肩に留められた真新しい階級章を指して揶揄した。

「遅すぎたくらいだ」ジストフィルドは肩を竦めた。「〈一軍〉と〈二軍〉の統合は速やかに行われるだろう。初めからそうあるべきだった。まあ見てろ、お前もすぐに司令官だ。中隊をくれてやるさ」

「はあ、それはそれは、恐悦至極というもの。待ち遠しいことだ……」

 ジストフィルドは眉間に皺を寄せた。ミクリット、どうもこの男の態度は鼻に付く。かつてレイガンがひどく嫌っていた男で、言葉遣いこそ慇懃だが、まさしく彼の用いる封蝋印のとおり残忍で狡猾な蛇のような印象があった。今も抜け目のない視線でジストフィルドを舐めるように眺め回している。値踏みされるのは不愉快だ。しかし──協力しあわなくてはならない。

 レイガンを殺し損ねたあの処刑の日、〈血の十日夜〉の生き残りは下級魔術師も含めて百七十名。更に参列していなかった神官を含めれば五百にはなるが、上級魔術師に限れば三十名にも満たない。あれは手痛い損失だった、とジストフィルドは考える。

 レベレス、あの耄碌爺い、伝承の魔女を前にして目を眩ませやがって。

 こめかみのあたりで、変彩金緑石アレキサンドライトにも似た彗星の光がちかり、ちかりと目障りな瞬きを放つ。ジストフィルドは頭痛を覚え、指環をつけているほうの右手でこめかみを押さえた。心臓石と彗星とが共鳴しあい、頭痛はますます強まったようだった。ジストフィルドは浅い息をする。

 十日もすれば、ファルヴィアから送り出された〈一軍〉の部隊がこの街の大広場に整列することになる。当然彼らの反発は予想の範囲内だ。無理に縒り合わされた二千人の兵を、長くとも二月の訓練で実戦に耐えうる軍隊へと仕上げなければならない。

「なにも案ずることはないだろう」ミクリットが楽観的な物言いをした。「所詮は魔術のひとつも使えぬフタル人。裏切り者の腰抜けどもがいくらか味方についたところで、羽虫が嵐に逆らって飛ぶようなもの。力と数で叩き潰してしまえばいい」

 ミクリットはそう嘲るように言ったが、ジストフィルドは視線も寄越さず、ただ鼻を鳴らしただけだった。この反応は彼の気に召さなかったと見え、ミクリットはこう皮肉っぽく続けた。

「しかし、ジストフィルド、レベレスもよくあなたを取り立てたものだ。レイガンの弟弟子であるあなたを。兄弟弟子の絆はルウル海よりも深い。まさかとは思うが……手心を加えたりなどはしないだろうね」

「異教徒に慈悲を掛ける道理はない」

「本当にそうだといいが」

 ジストフィルドが微笑みかえすと、ミクリットは幾らかたじろいだようだった。

 あのとき彼らを見逃さざるをえなかったのは、俺がただ一人だったからだ。俺は誰よりもあいつのことを知っている。けっして見縊ることはしない。レイガンはおそらく、新たな勢力を組織して国軍を妨害するつもりだろう。〈血の十日夜〉が彼の意想外の出来事だったとしても、考えなしに出奔する男ではない。なにか──まだ神殿の知らない情報を隠し持っている。まさか〈王〉とは手を組むまいが……。ジストフィルドは無意識のうちに奥歯を強く噛み締めた。磨り減った歯が鈍く痛み、意識をはっきりさせた。準備が要る、完全なる勝利を収めるための準備が。ジストフィルドは左手で持ったままだった書簡を右手で弾いた。

「ミクリット、一足先に教えてやる。王の布令だ。明朝にはイベルタの全ての民が耳にするところとなるだろう。──〈このイベルタの地から一人残らずフタル人を追放せよ〉」

 自身が発したその言葉が耳に届くや否や、大気に色が付いた。目よりも膚で、そのように感ぜられた。ミクリットの気配が遠ざかる。蝋燭の灯りのもとでは鮮やかな紅へと変わる金緑石の性質を帯び、ジストフィルドの双眸が禍々しく輝いた。憎悪と殺戮への期待。なにか、身体の中に棲みつく生暖かいものが、昏い歓喜に沸き立ったのに彼は気がついた。生暖かいそれは、不可視の腕を伸ばしてジストフィルドの体を抱擁し、睦言でも囁くような声音でこう耳に吹き込んだ。

──お前は正しい。

 そう、俺は正しい。俺は正しい──!

「一人残らずだ。匿ったものも同罪として処刑する。辺境の町や村も例外ではない。フタル人の追放と殲滅、それが我々の使命だ。王とやらを殺す。そして、やつらの手に渡る前にキイラを捕らえる」

 ジストフィルドはひび割れた唇を湿らせた。生暖かい闇がまた耳元で囁いた。

──許すな。

──殺せ。

──裏切り者を殺せ。

 その甘やかな響きに魔術師は身震いした。その通りだ。異端者どもを許すわけにはいかない。けっして。そして、必ずや、あの男をこの手でもう一度処刑台に上がらせ、命乞いをさせてやる。

 《《俺は正しい》》。

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