第4話 二人の魔術師
ひと月も経ったような気がした。それと同時に、ほんの数分しか経っていないような気もした。ブナの木肌と殆ど一体になっていたキイラを、なにものかが引き剥がした。
「子どもだ」となにものかが言った。男の声だった。
「生き残りだわ」と痛みに満ちた別の声が言った。今度は女の声。
「魔術の痕跡がある。誰かがこの子を隠したのかしら。ねえ、きみ、分かる?」
キイラの瞳が二人の姿を映した。襟のある揃いの外套を着た男女だった。ふたりとも帯革に短剣をぶらさげ、ぴったりとした膝までの長靴を履いていた。男の方は黒髪の長身で、女の方は褐色の肌を持ち、金の髪をすっきりと纏めている。キイラが返事をしないでいると、女はキイラの前に膝をつき、顔を覗き込んだ。キイラは女の深い紅の目を、ぼんやりと見つめ返した。そこには何の感情のはたらきもなかった。女はゆっくりと瞬きをした。
「口が利けないんだろう」
男が口を開いた。
「酷いショックを受けたときにはよくあることだ」
「可哀想に。まだルースの祝福も受けていないような歳でしょうに。私たちがもう少し早ければ」
「詮無きことだ」
キイラは全てを無関心に聞いていた。ただ、そうか、わたしは可哀想なんだな、という新しい考えが頭の中に去来しただけだった。
「なあ、きみ……」
今度は男の方がしゃがみ込んだ。外套の裾が土の上に広がる。こんな風に服を汚すとマーサに叱られるだろうな。これが、キイラがブナから引き剥がされてから浮かび上がった二つ目の新しい考えだった。尤も、男のその裾はもとから黒く汚れているようだった。どこか汚れたところを踏み分けるようにして歩いたのだ。
「われわれは神殿の名の下にきみを保護する。きみの名前は」
「キイラ」
唇が勝手に動き、答えを発した。二人の大人が顔を見合わせた。キイラはそれきり口を開かず、ただ手足を折りたたむように蹲り、木漏れ日が土の上にまだら模様を作るのを見つめていた。
幌付きの四輪馬車に揺られながら、男の方はレイガン、女の方はユタと名乗り、彼らが神殿付きの魔術師であることを明かした。
レイガンはえらく背筋の伸びた姿勢のいい男で、やや癖のある黒髪を丁寧に撫でつけている。常に浮かべている微笑みとあたたかみのある灰色の瞳が、きつい目元の印象を和らげていた。外套の襟元は、うつくしいフィビュラで飾られている。それは実用的な仕立ての外套には不釣り合いな品で、繊細な彫り込みの意匠に蒼玉の嵌め込まれた芸術品であった。
ユタはキリカの血を引いているらしく、褐色の肌が特徴的だ。白銀に近い金の髪を邪魔にならないよう後ろで纏めている。特筆すべきは神秘的な深い紅色の瞳。整った顔立ちなのだが、肌の色のせいかどこか野性味があった。美しくしなやかなけもののような女。
途中で立ち寄ったリーヴズの町で――この町は平和そのものだった――汚れた寝衣は着替えさせられた。流石に気になったのだろう。キイラを着替えさせるとき、ユタはキイラの胸元に掛かったやけに上等な指環に気付いたようだが、何も言わなかった。子どもを逃がす時に、親が金目のものを持たせるのはそう珍しいことではないと思ったのだろう。
「われわれがどこへ向かっているか、知りたくはないかね」
道中気を遣ってか、レイガンがキイラに問いかけた。キイラは返事をしなかった。キイラの心は、まだポウスリーの、シグとマーサの住む家の、自分の部屋の中に取り残されたままだったのだ。
「トラヴィアだ。行ったことは……ないだろうね。ここイベルタで、ファルヴィアの次に繁栄している都市だ。いや、一番と言ってもいいかもしれないな」
レイガンは、薄い革の手袋を嵌めた手で、皺だらけの地図を広げた。
「きみのいたローデンロットはここだ。リーヴズを経由して、われわれはキリタチ山目指して南下している。ここ、これがキリタチ山で、その此方側にトラヴィアがあるんだ。山を抜けるのに少しかかるな」
「きみは暫くの間、神殿で暮らすことになるわ。少なくとも、祝福を受ける年齢になるまではね。きみは今幾つなの?」
キイラの無言を受けて、二人はつられて黙りこんでしまったようだった。ただガタゴトとやかましい車輪の音が、三人を包む。
「まあ、追々でいい」
レイガンが溜息を吐き、乱れはじめていた自分の髪をおさえつけた。
「きみは疲れているし……傷ついている。時間が必要だな」
「時間が解決してくれるかしら」
「解決してくれるさ。時間は癒しを齎す」
途中で馬車を降り、麓まで寄越されていた馬に乗り換えて――キイラはユタの後ろにしがみついた――三人は山を抜けた。三日が掛かったが、情動の殆ど全てが麻痺したキイラにとっては一瞬だった。その間、特にユタの方は甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いたが、キイラは礼ひとつ言わなかった。食事は一日三回、与えられたものを淡々と腹の中に収めた。何の感慨もなく、何故自分は生きているのだろうとだけ思った。
トラヴィアは、北東にキリタチ山から連続する灰の山脈、南に沈黙の森を臨み、西に平原を抱くイベルタの一大都市であった。軍事国家イベルタの国教であるルーメス教の要――ロシ神殿の存在が、この街の権力を支えている。神殿は円形をした街の中央に位置し、トラヴィアを走る殆ど全ての通りはそこに通じている。白壁に赤茶の屋根が連なるうつくしいトラヴィアの町並みも、賑やかな大通りの熱気も、珍しい装飾具やとりどりの果物を並べた屋台の群れも、ルーメス教の権力を誇示するように街の中央に屹立する石造りの神殿も、しかしキイラの心を打たなかった。
レイガンとユタがキイラを連れて神殿の門をくぐると、二人の若い神兵が現れ、敬意を込めた挨拶をした。レイガンは頷くと、彼らになにか指示を与えはじめたようだった。それで、彼が神殿でも位の高いほうの魔術師であることがキイラにも知れた。
「レイガンは上級魔術師よ」
ユタが囁いた。
「神殿付き魔術師にも序列があって――」
「ユタ」
神兵と話していたレイガンが、此方に顔を向けた。
「その子を西塔に連れていってくれないか。孤児寮に連絡するにも今日は間に合いそうにない。すぐに仮部屋を手配させる」
「あら、今夜は私の部屋でいいわ。私、個室じゃなくて二人部屋を一人で使っているのよ」
そうか、とどこか安心したようにレイガンは首肯した。
「きみがそれで構わないなら。いいようにしてくれ」
レイガンが手を上げると、二人の神兵は彼に対し再び礼儀正しく首を傾け、きびきびと歩き去っていった。神兵を見送りながら、彼は外套の襟元を緩めた。
「話は明日だな。私は報告を済ませてくる」
「お疲れさま」
「そうだ、一旦部屋に行ったら、すぐ食堂に連れていって彼女になにか食わせてやれ。この時間なら間に合うだろう」
「分かってるわ」
「それから、悪いが、神殿について色々と彼女に説明を」
「そうね」
「それから――」
「レイガン」
ユタがレイガンの言葉を遮り、片眉を上げて笑みを作った。
「大丈夫よ。任せておいて」
レイガンは口を閉じた。苦笑を口角に上らせ、右手で軽く自身のフィビュラに触れると、「それでは、明朝に」と呟き、本殿のほうへ歩き去った。
レイガンの後ろ姿が曲がり角で見えなくなってしまったあとで、「さて」とユタは長旅の疲れを感じさせない声音で言った。
「ようこそ、ロシ神殿へ」
かつて正アルスル教を国教としていた軍事国家イベルタが、光の神ルースを唯一神と崇めるルーメス教を国教とするに至ったのには、とある有名な物語がある。
当時、細々と信仰を守ってきたルーメス教徒に異様なまでの迫害を加えた時の王、ゾルマン。彼の留まるところを知らないルーメス教への憎しみは、王朝におそろしい病を呼び込んだ。彼が全身に不気味な赤いまだら模様のできる流行病に倒れると、翌年には彼の息子トラヴランド王が玉座についた。トラヴランド王は狂気に走った老齢の父ゾルマン王とは異なり、情に厚く思慮深い男であった。若くして没した王妃ゆずりの翠玉の瞳には、鋭い知性の閃きがあった。当時、王朝は権謀術数渦巻く暗黒のとき、権力闘争の真っ只中であり、国内では大きな内乱が頻発していた。
あるとき、自ら内乱の鎮圧へと赴いたトラヴランド王は、不思議な夢を見る。薄衣を纏い光り輝く、この世のものとも思えぬほどうつくしい女が彼に冠を授け、肩に触れると、カロメ虫を象った紋章を鎧に刻むようにと告げたのだ。トラヴランド王が目を覚ますと、まさに夢に見たカロメ虫の刻印が自らの肩に浮かび上がっていることに気づいた。カロメ虫の紋章はルーメス教の象徴であった。トラヴランド王はこれを神の宣託とみなし、すぐに自分と兵士たちの鎧に同様の紋章を刻ませ、戦いに挑んだ。すると、彼の率いる軍勢は一人の損害も出すことなく見事勝利を収め、トラヴランド王の名声は高まるところとなった。各地の内乱を次々と鎮圧し、その権力を盤石のものとしたトラヴランド王は、これまで弾圧してきたルーメス教をイベルタの王として初めて認め、自らも改宗した。それ以降、ルーメス教はイベルタにおいて王朝との結びつきを強めていった。
イベルタ歴六二五年には、トラヴラント王はメルメトルからここトラヴィアへと都を移し、翌六二六年にはルーメス教を国教とした。各地に神殿が作られ、ルーメス教徒がその数を増やすとともに、神殿の発言力はどんどん高まっていった。現在では、トラヴィアに築かれたこのロシ神殿こそが第二の王朝、現サレル王を補佐する最高神祇官レベレスこそが真の統治者であると囁かれるほどである。無論、表立って高らかにそうと叫ぶ者はないが。
ルーメス教の繁栄とともに、イベルタの魔術も大きな発展を遂げた。
「ルーメス教徒の多くは、優れた魔術の使い手でもあったの」
サロサ麦のパンを千切りながら、ユタが説明した。ロシ神殿に連れてこられて、三日後の晩のことである。キイラはまだ西塔のユタの部屋で寝泊まりをしていた。レイガンは孤児寮に部屋を手配すると言っていたはずだが、何かそうしないわけがあるらしい。
「彼らは、まじないの段階で留まっていたイベルタの魔術を、驚くべき早さで体系立てていったわ。彼らがイベルタに持ち込んだもの……『ルースの理』」
そこで、ユタはキイラがなにか反応を返すのを待っていたようだったが、やがて諦めてパンのひとかけらを口へと運んだ。
「ルーメス教は、光の神ルースの示す万物の理こそが魔術をあるべき形へと昇華させ、真理へと導く唯一の道だと説いた。このイベルタが軍事国家としてこれほどの力を持つことができたのも、かつてのルーメス教徒たちが築き上げた魔術理論のお蔭というわけ」
ユタは一度言葉を切り、蜂蜜酒で喉を湿らせた。
「現在のイベルタの要となる、イベルタ魔術。特にここトラヴィアには、魔術師はたくさんいるわ。でも、私たちは魔術師の中でも少し特殊な存在なの。神殿に属しながら、軍の一小隊のようなはたらきをする。戦争になれば前線に立つこともあるわ。治安維持に特化した魔術部隊。色々な縛りはあるし、所属すること自体難しいけれど、利点はたくさんあるの。ロシ神殿はイベルタの――イベルタ魔術の最高学府でもある。ここで学び、次の時代の魔術の礎となることは大きな栄誉なのよ」
キイラは黙ってスープを啜っていた。ユタが小さく溜息を吐く気配がした。
「きみ、いつまでもだんまりなのね」
そのとき、背の高い男が二人のほうへ歩み寄ってきた。レイガンであった。やはり丈長の上衣の胸元にフィビュラを光らせ、手袋を嵌めた両手に山盛りの皿を持っている。レイガンは二人の前で立ち止まると、小首を傾げ、尋ねた。
「いいかい」
ユタは頷き、彼のために椅子を引いた。彼が皿を置き、ユタの隣に座ると、どこからかひそひそと言い合う声が聞こえた。レイガンは気にもかけない。
「上級魔術師のテーブルで食べればいいのに」
「彼処はときどき窮屈でね。たまには此方で」
レイガンは簡単な食前の祈りを捧げると、皿の上のものを平らげていった。彼の食べ方は寧ろ上品であり、けっしてがつがつと食べているといった感じではないのだが、食べ物が消えていくペースが異常に早い。見かけによらず健啖家であるらしい。食事の席だというのに手袋を外さないのが気になるといえば気になったが、今のキイラにはどうでもよかった。後から来たにもかかわらずキイラたちよりも一足早く食事を終えたレイガンは、杯に新しい葡萄酒を注ぎ、再び口を開いた。
「きみの今後について、話をしなくてはならない」
黙りこくっているキイラを、凪いだ灰色の双眸が見つめた。
「キイラ。いつまで黙っている。それでは孤児寮に行っても、周りを困らせるだろうな」
「レイガン」
ユタが咎めるように名前を呼んだ。レイガンは無視した。
「きみは、自分で考えなくては。きみのことを。きみのこれからのことを。私はきみに一つの可能性を提示しようと思っている」
レイガンはそこで沈黙の時間を作ったが、やはりキイラは返事をしなかった。レイガンはゆっくりと瞬きをして、杯の中の葡萄酒を一口飲んだ。まあいい、と呟き、ユタへと視線を向ける。
「近々、また異教徒掃討の命が下されるだろう」
ユタが匙を置き、憂いを帯びた顔つきになった。
「ナバリ?」
「いや、トウズだ。〈蛇の目〉を名乗る抵抗組織が不穏な動きをしていると、専らの噂になっている。神殿内の情報よりも、巷に流れる噂のほうが早いというのは情けない話だが」
レイガンは顔を顰めた。
「ローデンロットは手痛い失敗だった」
耳に届いた故郷の名に、キイラは凍りついていた自分の心の一部が小さく震えたのを感じた。ローデンロット。わたしのローデンロット。
「アイレンでもガルダンでもわれわれは成功を収めていない。ポウスリーに至っては全滅だ」
ユタがまたなにか言いたげな素振りを見せた。キイラの指先が微かな痙攣を起こしたことには、誰も気がつかなかった。
「国軍には期待できない。腑抜け揃いだからな」
「声が大きいわ」
「聞こえるように言っている。そもそも、内乱鎮圧にわれわれや神兵部隊が出向かなくてはならない時点で、この国の軍事は歪んでいる」
「そうね。でも、仕方のないことだわ」
「いつかは是正されなくてはならない。この国は神殿に依存しすぎている。あまりにも。何もかも……」
ユタがかぶりを振り、レイガンは漸く声の調子を落とした。
「いいさ。今回はフタルに遅れを取ったが、次はこうはいかない。トウズがポウスリーと同じ運命を辿ることはないだろう」
そのとき、キイラの喉からか細い声が絞り出された。言葉にもなっていないその声は、しかし二人の耳に届いたようだった。ユタが弾かれたようにキイラのほうを見た。レイガンは黙ったまま、視線だけをキイラに向けた。このとき、キイラは眩暈に似た感覚を味わっていた。遠のき、静止していた世界が急速に回転を始めたかのように。氷塊と化していた心臓に亀裂が入り、再び脈動をはじめるのが分かった。きっかけは分からなかった。ただ、ひとつの感情がキイラを目覚めさせたのだと、それだけは分かった。全身を駆け巡るその感情の名前に、キイラは今気づいた。「怒り」だ。
テーブルの上の水差しがカタカタと揺れはじめた。同様に近くの窓が振動を始め、ユタが素早く振り向いた。閑散とした食堂で、それでも残って食事をしていた幾つかのグループが、振動に気づいてざわめき声を上げた。レイガンが目を細めた。
「なんでもっと早く来てくれなかったの」
一言目は喉の奥で錆びついて掠れていた。初めはそれが自分の声であるとは分からなかった。ユタがキイラの肩に手を触れた。
次の瞬間、何日も声を出していなかったとは思えないほどの大音声でキイラは叫んだ。
「なんでもっと早く来てくれなかったの!」
全てのテーブルの水さしに一斉に亀裂が入った。其処此処で驚きの声が上がったが、キイラの耳には届かなかった。ただ身の内で猛り狂う激情の炎に支配され、それをどうにか吐き出してしまおうとするのに精一杯だった。
「あんたたちが遅いから、わたしの村は! お父さんは! お母さんは!」
鳶色の光が鋭い破片を散らしながら胸の中で弾けた。ユトー。
間髪入れずレイガンの背後の窓が粉々に砕け散った。彼は無数の破片を頭からまともに浴びた。隣のテーブルから悲鳴が上がる。ユタが素早く立ち上がったが、レイガンはただ目を瞑り、細かな硝子が彼の瞳を傷つけるのを防いだだけだった。キイラは立ち上がってレイガンのもとへ歩み寄り、憤怒のままに彼の胸倉を掴んだ。歳の割に小柄なキイラだが、座っているレイガンは僅か吊り上げられるようなかっこうになった。靴の底で、硝子の破片が音を立てて砕けた。
「もし、もう少し早く来ていたら! どうして!」
「落ち着きなさい」
ユタが冷静に言った。キイラは差し伸べようとするユタの手を拒んだ。
「キイラ」
そのまま黙ってキイラを観察していたようだったレイガンが、重たげに口を開いた。
「きみのことは気の毒だと思っている。だが、われわれは最善を尽くしたんだ」
「最善ってなに! みんな……みんな死んじゃったじゃない! あんたたちが殺したんだわ」
「それは違う。きみの村を焼いたのはわれわれじゃあない。フタルの抵抗組織だ」
キイラは息をぴたりと止めた。ユタがレイガンの方に素早く視線を走らせたのが分かった。キイラは息を細く吐き出した。ぐらぐらと沸騰するようだった頭がすうと冷え、反対に鳩尾の辺りが燃えるように熱くなったのが分かった。こんな感覚は初めてのことだった。
「フタル人」
「そうだ」
「フタルの抵抗組織をやっつけるのが、あんたたちの仕事?」
「勿論それだけではないがね。そうだ」
「魔術を使って戦うの?」
「効率がいいからな。フタル人はイベル人と違い魔術を使うことができない。魔術師は――特にわれわれ魔術師団の構成員は、一人で二十人分の戦力になる」
「たくさん、殺せるのね」
やさしげな色合いだと思っていたレイガンの灰色の虹彩が、一瞬冷ややかな色を帯びた。彼は未だ胸倉を掴んだままだったキイラの手をしずかに払いのけた。
「ああ、嫌と言うほどな」
「じゃあ、子どもでも魔術師になれる?」
「才能があれば。キイラ、きみにその気があるならば、私たちが魔術を教えてもいい」
「レイガン!」
ユタが鋭く叫んだ。
「わたし、やるわ。教えて!」
「馬鹿なことを言わないで。レイガン!」
「ではまずは飯をきちんと食べてその痩せっぽちの身体をなんとかしろ。健常な肉体と健常な精神がなければ、魔術を学ぶことはできない」
レイガンは立ち上がり、髪の中に入り込んだ微細な硝子の欠片を払い落とした。襟元を掴んで揺らし、服の中にまで入り込んだらしい欠片に眉を顰める。
「差し当たっては……その窓の残骸は片付けたまえよ。生憎だが、割れた窓を元通りにする魔術なんてものは存在しないぞ」
そう言い残すと、レイガンは二人を置いて歩いていった。ユタがキイラとレイガンを見比べ、厳しい表情でそのあとを追って行った。
残されたキイラは、暫くの間そこに立ち竦んでいた。これまでにない、新しい力が自分の中を循環しはじめたのがわかっていた。煮えたぎるように熱く、凍りつきそうに冷たくおぞましいそれに、キイラはまだ名前をつけることができずにいた。しかし、それが自分を生かすための最も大きな力となるであろうことを理由もなく予感していた。
久々に声を発したキイラが疲れ果ててユタの部屋で眠りに就いた頃、 西塔の裏で二人の魔術師が言い争っていた。蝋燭の炎に照らされ、長い影を伸ばすその二人はユタとレイガン。ユタは尖った声で唸った。
「本気じゃないでしょう」
ユタの怒りを受け流すように、レイガンは涼しい顔で答えた。
「冗談だと思うのか」
「子どもをあんな風に焚きつけて。死ぬわよ」
「安心しろ、才能がなければ魔術師団は彼女を認めないさ」
レイガンが宥める口調で言った。眉を吊り上げてレイガンを睨んでいたユタが、ふと力を抜いたように溜息を吐いた。
「才能があると思っているのね」
「きみも見ただろう。あの結界魔術の痕跡を」
「誰か別の大人がやったのかも」
「誰か? 誰が? あの村の者は死んでいる。ひとり残らず。しかし、考えてみると妙だな」
「何が?」
「ポウスリーの襲撃だ。やつら、隣のケイデンを素通りして、ポウスリーのみを焼け野原にした。あんな特筆すべきこともない、片田舎の村を、どうして……」
レイガンは肩を竦めた。
「まあいい。少なくとも、彼女はだんまりをやめた。ユタ、選ぶのは彼女自身だよ」