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祈りの国  作者: 識島果
第5章 まつろわぬ者
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第38話 呪う者、呪われる者

 まずは指輪を嵌めた右手が。次に腕、傷だらけの半長靴の爪先、膝、肩、そして全身が。

 靴音を鳴らしながら、上級魔術師であることを示す二本線のガウンを身に纏った男が姿を現した。色のない視線でキイラたちを一瞥し、この場の注目をものともせずに袖の埃を払う。なにも警戒する必要はないのだというように。

「ジスト……」

 ユタが呻くように呟いた。ジストフィルドは返事をせず、キイラにもう一度視線を向けた。

「キイラ、本当に生きていたんだな」

 その声に、キイラは絶句した。無感動な口調は穏やかではあったが、そこに喜びの気配はなく、声音はおおよそ彼らしくなかった。少なくとも、キイラの知っているどんなジストフィルドもこのような冷淡な言い方はしなかった。ジストフィルドは続けた。

「だが、ここで死んでおくべきかもしれない」

「ジストフィルド」

 レイガンが静かに遮った。

「お前がこの場の誰かを手にかけるつもりなら、私はお前を攻撃しなくてはならなくなる」

「殺すのか?」

 ジストフィルドが指環を誇示するかのごとく右手を身体の前に翳すと、魔術師たちが一斉に身構えた。彼は投げやりに笑うと、おどけたように両の手のひらを見せた。それは攻撃の意思のないことを示す明快な仕草ではあったが、その場の誰も警戒を解こうとはしなかった。笑い慣れているはずの腫れぼったい二重瞼は、今はあくまで冷ややかな曲線を描くことに徹していた。キイラはジストフィルドから目を離さずにユタの手を探り、握った。ユタの手は強張って冷たかった。

「レイガン、レイガン……」

 兄弟子の名を呟きながら、ジストフィルドはゆっくりと歩み寄った。誰も彼を止めようとはしない。そうしないのではなく、《《できない》》のだった。

「思い出すな。はじめて俺たちが三級神官として司教座聖堂学校で顔を合わせたとき……俺はこんな男がいたものかと思った。お前は少年と青年のあわいにありながら、大人のように賢く、敬虔で、理想に燃えていた」

 ジストフィルドの顔の上に特別な表情は読み取れず、声色に情に訴えかけるような切実さはなかった。触れられそうな距離にまで近づくと、彼はやや視線を落とし、なにげない仕草で乱れていたレイガンの襟元を直した。レイガンは微動だにせず、視線も動かさなかった。瞼の上には浴びたばかりの神官の血が乾きかけていた。

「お前は神のことばを自らの手で読み解くために、神官としての未来をなげうち、魔術師見習いへと志願した。仲間はみんなお前を笑った。俺以外は。俺は有能ではあったが、お前ほど敬虔ではなかった。ただニルダを奪ったフタル人への憎しみに突き動かされていた俺の目に、お前は眩しかった」

「ジース」

「嘘だったのか」

 ジストフィルドが感情を露わにし、吐き捨てた。彼のこめかみのあたりに紫の稲妻が走り、耳を覆いたくなるような不快な音を立てはじめた。

「お前はルースを裏切った」

「それは違う」

 レイガンの目許に苦痛が滲んだ。

「ジース……ジストフィルド、これはルースへの裏切りではない」

 満身創痍の魔術師はあくまで冷静に答えた。

「ルースの理を読み解くほどに、私は教会の在り方に疑念を抱くようになった。ルースのことばに直接触れようともしないものが、魔術師に殺せと命ずる。都合よく理を歪め、政に用いようとする。それは何故だ」

 レイガンはここで一度言葉を切り、その場に立ち尽くす人々ひとりひとりの顔を見た。そして、ジストフィルドに視線を戻すと、こう続けた。

「ジース、お前はおかしいとは思わないのか。われわれイベル人の中でさえ、生まれつきまじないの能力には差異がある。それは信仰心の篤さにかかわるものか。それでは、魔術をほとんど扱わないものが神官となっていることにはどう説明をつけるのだ。なぜフタル人は虐げられなければならないのか」

 そうだ、とどこかで小さな声が上がった。声を発した誰かはすぐに気後れして黙り込んでしまったようだったが、キイラははっとした。

「ルースの理はこの世界すべてのためのものだ。イベル人のためのものではない」

「ニルダは……」

「お前の妹を殺したのはフタルの血ではない。ジース、お前なら分かるはずだ」

 ジストフィルドは苦悩に満ちた表情で沈黙していた。レイガンが言った。

「来てくれ、ジース。新しい時代にはお前が必要だ」

「では何故黙っていた」

 冷や水を浴びせかけるような語調に、今度はレイガンが押し黙る番だった。

「俺が密告すると思ったか」

「違う……」

「その通りだ。お前の判断は正しかった。おそらく、もっと早く処刑台に上ることになっていただろうな。レイガン、お前はいつだって正しい」

 ジストフィルドは皮肉めかして笑ったが、その笑みは自嘲するようにも見えた。

「時間が」レイガンが掠れた声で言った。「時間が必要だと思った」

「お前はもう俺の兄弟弟子ではない」

 表情を拭い去ると、ジストフィルドは氷のように冷たく言った。〈お前はもう俺の兄弟弟子ではない〉。その言葉に強い魔力が籠められていることに、キイラは気づいた。ジストフィルドの双眸が、金緑石の色調を帯びて禍々しく耀いた。キイラはその色を知っていた。それはかつてキイラが宿していた、灼けつくような彗星の輝きだった。レイガンの項を冷や汗が一筋伝い落ちた。

「〈裏切り者に呪いあれ〉、レイガン。俺は身も心も教会に捧げた。 本当は今お前を殺すべきなんだろう」

 裏切り者に呪いあれ、呪いあれ、呪いあれ——

 レイガンが呻き、とうとうドルムが「ジスト」と警告した。声音こそ抑えられてはいたが、頰に走る傷痕の縁が興奮のために赤く染まっていた。

「あんたは後悔するぞ。ジストフィルド。あんたはきっと……」

 ジストフィルドが背を向けた。この場の誰でも、このとき彼を攻撃することができたはずだった。しかし、結果的には誰ひとりそれを実行に移すことはなく、ジストフィルドは五体満足のまま再び結界の向こうへと消えた。彼の姿が見えなくなってはじめて、キイラは彼が初めから強力な牽制の呪文を敷いていたことを知った。

 ナイフで切ってしまえそうなほどに密な静寂が辺りを支配したが、やがてレイガンが沈黙を破った。

「行こう」

「いいのか?」

 コウロウが尋ねた。彼の問いかけは空々しく響き、レイガンは答えなかった。





 わたしがわたしの友人に裏切られたなら……手ひどく裏切られたと感じたなら、どうだろう。キイラは地下でレイガンの姿を見たあの夜のことを思い出し、心臓を掴まれるような気分を味わった。出逢ってほんの数年の付き合いであってもあのように感じられるのだから、二十年来の友人だという二人であれば、その苦しみは如何許いかばかりかと思われた。同じ盃で酒を飲んだ兄弟弟子であればなおのことだろう……。

「どうにもならないことなんだろうか」とキイラは呟いた。「私にはどっちが悪いかなんて言えないわ」

「当人たちの問題だ」

 カドの返答が存外に淡々として聞こえたので、キイラは首元から指環を引っ張り出した。最早聞き慣れた嗄れ声は、言葉を選ぶような沈黙のあとでこのように続けた。

「多分、なにが悪いであるとか悪くないであるとか、そういう問題ではないのだろう。それぞれの信じる正義があり、彼らはそれに殉ずる決意をした。時機を誤らなければ、あるいはもっとよい未来もあったかもしれない」

「私たちはもっとなにかできたかもしれない。もっとよい未来のために……」

「だが、もう賽は投げられたのだ。起こったことはすべて正しい。『できたかもしれない』ではない、もとよりすべて選択の結果だ。望もうと望むまいと——」

 カドはそこで言葉を切り、躊躇いがちに付け加えた。

「おれの言っていることは《《非人間的》》かもしれない。おれは人間ではないし」

「人間であっても、そうでなくても変わりはないわ、カド。私たちはみんな、別の存在なんだもの」

 キイラはジストフィルドではないし、ドルムはレイガンではない。そうかもしれない、とカドが肯定の燦めきで応じた。


 魔術師と神官たちの一団は、予め計画していた通りに——《《多少の》》予定のずれはあったものの——一時ネルギへと身を寄せた。ネルギは沈黙の森の南端に位置する小さなイベル人の村で、深い事情を訊ねることなくキイラたちを受け入れた。村人たちは朴訥として親切で、神殿の者たちを泊めることを名誉と捉えているようでもあったが、彼らのただならぬ様子を見てあまり関わりあいになりたくないと感じているようでもあった。ここを経由してソセに向かい、体勢を整えるのがいいだろうとコウロウが言った。ネルギに到着してから三日三晩を掛け、彼はレイガンを説得しようとしていた。彼はレイガンがこの新しい組織の実質的な主導者であるべきだと考えており、実際多くがそれに賛同したが、当のレイガンの考えは違うようだった。

「コウロウは頭もいいし、悪いやつじゃない」

 ドルムが梨の木の樹皮から手のひらを離し、そう言った。ネルギに滞在している間、彼は家主の持つ小さな果樹園でちょっとした手伝いをしているのだった。彼が触れたあとの樹は瑞々しく、こころなしか葉も青々としている。

「それに、考え方も柔軟だ。だけど、彼はリーダーの器じゃないね。自分でもそれが分かってるから、レイガンをなんとか説き伏せようと一所懸命なのさ」

「レイガンはどうして後ろ向きなのかな」

「分からない。彼には彼の思いがあるんだろう。だけど、リーダーは彼じゃなきゃだめだ。レイガンだから、僕らは集まったんだ。お世辞にも性格がいいとは言えないひとでなしのいけすかない師匠だが、これは確かなことだ……残念なことに」

 ドルムの口ぶりに、キイラは思わず笑った。そんなことを言いながらも、ドルムは既に次の作業に移っている。キイラも兄弟子に倣い、傍の木に手のひらを押し当て、流れる水に語りかけた。梢の先の葉がかすかに身震いする。重たげに枝をしならせた梨の実を、ドルムが一つ捥いだ。

「あと、これはとても個人的な意見だけど、僕はコウロウのことがなんだか気に食わない。どことなく気障ったらしいところが妙に気にかかる。彼、自分の顔がいいと思ってるに違いないな」

「確かに顔はいいかも。そんなことより、ドルム……」

「待ってくれ」ドルムが目を剥き、芝居掛かった身振りで遮った。「顔がいい?」

「あなたがそう言ったんじゃない。それより……」

「僕は言ってない。きみ、まさかああいうのが好みなのか?」

「そんなこと言ってないでしょう」

 キイラは笑った。

「いいや、言った。髪は短いほうがいいのか? 肌は浅黒いほうが?」

 そうまだ食い下がるので、キイラは思わず呆れ顔になった。両の手のひらを大袈裟な仕草で天に向けてみせる。

「あの翠の目がいいのか?」

「ドルム、今そんなどうでもいい話……」

「じゃあ、顔に傷のある男は?」

 キイラは兄弟子の顔を見つめた。ドルムは笑っていなかった。彼の美しかった顔の右半分に走る魔術の傷痕は、既に新鮮な組織に塞がれてはいた。ただし、それはけっして元の通りではなかった。

「私は……」キイラは手を伸ばし、緩く結わえられた魔術師の髪に触れた。「砂色の髪が好き。光の加減によって金にも銀にも見える美しい髪」

 ドルムはされるがまま、ただキイラの指先を目で追った。髪に触れた指先は、目蓋へと滑る。キイラは静かに言った。

「鳶色の瞳が好き。混じり気のない澄んだ色。煌びやかではないけれど、やさしい感じがする」

 閉じられた目蓋からそっと指を下ろし、傷の凹凸を辿る。労わるように。ドルムが黙ったまま自分の手を持ち上げ、キイラの手を上から覆った。

「でも、そんなのなくたっていいわ。どんな姿であっても、あなたは私のオレンジの片割れ。説明なんかできないけれど」

「『あなたは私のオレンジの片割れ』」

 ドルムが繰り返した。それきり、若い魔術師は黙りこくっていたが、やがてまた口を開いた。

「キイラ、僕は傷のことなんか毛ほども気にしてない」

「知ってる」

「だけど、きみがどう思うかは不思議と気になるんだ」

「それも知ってるわ。野生的で素敵よ」

 キイラの指を包んでいた手が離れた。ドルムは指先でキイラの前髪を優しくよけると、額に軽い接吻を落とした。キイラは目を瞑ってそれを受け入れ、溜息を吐いた。キイラは尋ねた。

「ドルム、神殿はなぜ追ってこないのだろう」

「先の事件は手痛い損害だったはずだ」

 そう言い、ドルムは木に凭れかかった。

「大きな犠牲を払い、そして失敗した。神殿は混乱の真っ只中だ……レベレスらは彼らを納得させなくてはならない。それに、戦力となっていた魔術師の幾人かは此方に流れた。現実的に考えれば、二軍を再編成するのにはしばらく時間がかかるだろう」

「向こうにはジストがいるわ」

 ああ、とドルムが囁くような声で呟いた。

「敵には回したくなかった」

「ドルム、なるべく早くソセに向かおう。フタル人たちは受け入れてくれるかしら」

「彼らはレイガンの顔を知っている。誠意を見せるしかない」

 キイラは頷いた。そして、ドルムが左手に持ったままだった梨を受け取ると、それを口元に運び、黙って食べはじめた。

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