第37話 死に値する罪
ドルムの〈目くらまし〉は完璧だった。
周囲の上級魔術師の誰ひとり、キイラに注意を払っていないように見えた。もっとも、彼らは更に重要な関心事に挙って釘付けとなっていたために、例え目くらましがなかったとしても気づかなかったかもしれなかった。
レイガン、あなたの人気は相当みたいね……。キイラは心中で独りごちた。困惑、興奮、不安、怒り、恐怖、暗い歓喜、そういったものがごたまぜになった異様な熱気が広間中を満たしていた。このとき、キイラは初めてレベレスの顔を間近で見た。
一見して、柔和な顔立ちの痩せた老人である。白に金銀の糸で刺繍され、輝石の縫い付けられた豪奢な長衣に身を包んでいたが、奇妙なことにそれが全く重そうに見えない。骨の浮いた手は椅子の肘掛を軽く握り、視線は前方へと注がれている。細い目は乾いた樹皮の上の切れ込みのようだが、よくよく見ればその奥には小さな瞳が怜悧な光を放っているのだった。
最高神祇官の足元に伸びるケイデン織の絨毯、その緻密な図案を追いながら向かいに並んだ魔術師たちの列へと順々に視線を滑らせ、キイラははっとした。ちょうど対側の位置に、ジストフィルドが立っていた。あの収穫祭の夜のように背筋を伸ばし、髪を整えていたので気がつかなかったのだ。彼はまったくの無表情で後ろ手を組み、扉のほうを見つめていた。極刑に処されるべき罪人がくぐる鉄の扉を。キイラはすべてを忘れてジストフィルドに声を掛けたくなった。もう長いこと彼の笑い声を聞いていないような気がした。ジストフィルドが扉から視線を外し、ふとキイラのほうに眼差しを向け、そこで静止した。気づかれるはずはない。キイラはそう自分に言い聞かせた。キイラを凝視したままにジストフィルドの目が細まる。キイラが段々に落ち着かなくなり、キイラの存在を目立たなくしているはずのドルムの目くらましがすっかり解けてしまっていることを心配しはじめたころ、彼の目は再び扉へと注がれた。その扉が開いたからだった。
レイガンは身を清められ、新しい清潔な衣服を身に纏ってはいたが、煌々とした灯りの下に照らし出された彼の姿は牢の中にいるよりも寧ろ憫然として見えた。陽を浴びなかった青白い肌、あるいは縺れた艶のない髪や、黒ずんだ瞼、結膜の出血のために半分が赤く染まった左目のせいかもしれない。レイガンは両手を拘束されたまま、跪かされる。焼けつくほどの衆目を浴びながら、まるで人ごとのように淡々として、従順な素振りだった。
向かって左手に立つ神官が声を張り上げた。
「申し上げます。罪人は最高神祇官への叛乱を企て、謀議に参与し、またフタル人兵士らの指揮をなし、神殿のみならず国家の秩序の転覆を謀りました」
「間違いありません」
レイガンは小声でもよく通る声で、平らかに答えた。これから命を絶たれようとしている人間とは思えないほどに冷静な声音だった。右手に立つ神官が同様に叫んだ。
「申し上げます。罪人は同胞であり、徒弟である下級魔術師に対して非道なる致死的な魔術を施用し、これを死に至らしめました」
「間違いありません」
嘘! キイラは叫びたかった。唯一の好機を逃してはいけないという思いが、賢明にもキイラを押し留めた。広間の騒めきがいや密度を増したが、レベレスが手を掲げると潮が引くように静まり返った。神官の一人が、レイガンの肩に上等な白のガウンを着せかけた。最高神祇官が頷き、そして徐に立ち上がった。これは式次第になかったことらしく、傍の魔術師が身構え、もう一人がそれを無言のままに制した。レベレスは裾を引き摺りながら罪人の前まで歩み寄ると、彼を見下ろしながら重々しく口を開いた。
「親、きょうだいに言い残すことはないか」
「私に家族はおりません」
レイガンは頤を上げ、無表情に返答した。レベレスが呟くように言った。
「惜しいことだ。礎となるべき魔術師をこのような形で失うことになるとは」
感情を反映しないレイガンの灰色の瞳の中に、どこか気怠げな翳が過った。
「守るべき価値のある国であったなら」
投げやりな調子で放られたその言葉が大気に溶け込むやいなや、キイラの周囲に憤怒と害意の感情が膨張するのが分かった。最高神祇官はまたひとつ頷いた。そして、音も立てずに裾を払うと、踵を返して群衆に問いかけた。
「この者が犯した罪は死に値するか」
キイラの心臓が大きく脈打った。
——然り。
今だ。
——然り、然り!
「待ってください」
その声を発したのが自分であると、キイラは確信が持てなかった。一瞬間、広間は水を打ったように静まりかえった。キイラは覆いを脱ぎ、足を縺れさせながら、神祇官の前に歩み出た。
「わたしは殺されてなどいない」
つっかえながら、キイラは必死に訴えた。大声を張り上げたつもりだったが、実際には掠れ声だった。自分自身の呼吸と鼓動の音で、上がったはずの周囲のどよめきは耳に届かなかった。
「お願いです。真実はまだ明らかになってはいない。彼は死ぬべき人ではありません。どうかレイガンの処刑を取りやめてください」
二人の特級魔術師は、この予想外の出来事に対応を決めかねているようだった。誰もが固唾を飲んで最高神祇官の反応を待った。キイラも祈るような気持ちで彼の顔を見つめた。
レベレスが薄っすらとほほえんだ。
「キイラ、退がれ!」
背後からレイガンが鋭く叫び、魔術の篭っていないはずのその声に引き摺られるように、キイラは衝動的に後ずさった。レベレスの骨張った指が、キイラを掴もうとしていた。
「伝承の魔女よ」
老人は皺だらけの顔を歪めた。
「《《生きていたのか》》」
その瞬間、広間の東側で火の手が上がった。けたたましい悲鳴と怒号が上がり、紅と橙の狂乱が膨れ上がった。レベレスがひび割れるような大音声で宣言した。
「誰もここを出てはならぬ」
その声は震えるような魔術の響きを纏い、一帯を覆った。
特級魔術師が狼のように地を踏み切り、二人掛かりでキイラに掴みかかろうとした。キイラはカドに命じ、金のムクドリの大群を呼んだ。影のようなその一塊はぎりぎりのところで彼らを飲み込み、激しく突き転ばせた。魔術の鎖を掻い潜り、キイラは光の嵐を操って周囲を牽制した。
視界の端でレイガンが立ち上がろうとしていた。その背後で、神官が祝福された剣を振り翳す。
ユタが鋭い風の刃で神官の首を掻き切り、絶命させた。噴き出した血液がレイガンの顔の半分と白のガウンとをしとどに濡らす。ユタが投げ出された剣を拾う。彼女に襲いかかろうとする魔術師をレイガンが蹴倒し、鉄の枷を叩きつけて昏倒させた。
あちこちで極彩色の閃光が弾け、恐怖の悲鳴が上がった。広間全体を覆う結界が燐光を放ち、正円を描いた。恐慌状態に陥った人々の足元で白銀の炎が円の上を駆け、凍てつく氷の息吹と混じり合って鋭い音を立てる。
魔女を逃してはならぬ、とまた声が響いた。
どうして!
混乱しながらキイラはドルムの姿を探した。レベレスは伝承を知っていた。知っていたのだ。
神官の一人がキイラの左腕を掴んだ。すかさずカドが閃光で男の目を射抜き、眩ませたが、彼は握りしめた短剣を頑なに手放さなかった。鋭い鋒がぎらりと輝いた。
「息を止めろ!」
青年の叫び声が聞こえた。キイラが呼吸を止めるやいなや、血飛沫が視界に緋色の靄をかける。腕を鷲掴みにしたのとはまったく別の手が、キイラの手を握った。先の神官が両の手首から先をなくし、絶叫しながら床に転がった。
「魔術師どもを犠牲にしてもきみを殺すつもりか」
ドルムが息を荒げながら言った。
「正気とは思えない」
「結界が用意されていた。ここから出られないわ」
「柱の輝石を壊すしかない」
キイラは穹窿を支える八つの柱を仰ぎ見た。柱に彫刻された燈虫の意匠、そこに象嵌された翠の輝石が赫きを発していた。その瞬間、それは砕け散った。コウロウたちだった。輝石の存在に気づいた上級魔術師たちの何人かが、同様に協力しながら結界を壊そうとしはじめた。その向こうで、若い魔術師のひとりが、既に事切れた仲間を膝に抱いて懸命に揺すっている。
彼らはなにも知らないのだ。ただ、教会に隷従していた。そして、今なにも知らないまま殺されようとしている。
悲しみでも怒りでもない、新しい感情がキイラの胸に燃え上がった。それは憎悪という油を得て燃え盛る黒々とした炎ではなく、指先までを熱く滾らせるような、白く清廉な炎だった。カドがキイラの意思に呼応して輝いた。キイラは導かれるままに叫んだ。
「偽りの光に目を眩ませるな」
キイラの声は騒乱を貫き、七色の色彩を帯びて大気を揺さぶった。胸元で眩い星が弾けた。光の印が体の中を駆け巡りながら背骨のひとつひとつを言祝ぎ、瞳の中に融けあうのがわかった。赤い髪が燃えるように耀き、風を孕んだ。自分ではない誰かが喋っているかのようだった。
「光に従うものはこうべを上げよ。あなたがたは導かれる。闇に与するものは翳を怖れよ。眼を覆い、地に蹲るがいい」
魔術師・神官のいくらかが、雷に打たれたようにキイラへと視線を向けた。ドルムが覚悟を決めたように、キイラの手を力強く握り直す。
次の瞬間、闇が一斉に視界を塗り潰した。
神殿全体を覆うほどの異質で絶対的なくらやみだった。しかし、キイラの目には行く手を照らす極星が見えていた。驚いたように周囲を見回すドルムの手を引くと、彼はすぐに我に返った。顔を覆い恐怖に震える人々、神官や魔術師どもの屍体、誰彼構わず掴みかかろうとする手を掻い潜り、血溜まりを踏み分けて二人は駆け抜けた。見覚えのある顔が、いくつも血染めの絨毯の上で、あるいは冷たい石床の上で虚空を見つめていた。
その中のどこにもジストフィルドの姿が見当たらないことに、キイラは気づいていた。
結界を抜け、混乱する廻廊を巡り、星明かりを頼りに疾走する。ドルムはキイラを裏門へと導こうとしていた。状況を掴めないまま刃を向ける神兵らを薙ぎ払う。
イドが右の通路から同様に駆けてきて、来た道に即席の結界術を掛けた。幻の被膜を通り抜けるようにして、次々に人々が飛び出す。その中には神官や、見覚えのない魔術師たちも混じっている。傷を負っているものは多かったが、誰もが目を開き、暗闇の中を迷わずにここへ辿り着いたようだった。彼らのほとんどは興奮し、痛みを忘れているように見えた。ユタに支えられたレイガンが現れ、最後にコウロウが潜り抜けると、ハイネが結界を厳重に鎖した。残りの人々はまだくらやみの中に閉じ込められ、惑っているはずだった。
誰もが喜んでいいのか、悲しんでいいのか判断に迷い、混乱していた。今や、多くのものたちがキイラを今までとは違った眼差しで見つめているのがわかった。疲れ切った顔をしたレイガンが地面に腰を下ろすと、若い魔術師らの何人かがおずおずと彼に駆け寄った。レイガンの枷は既に破壊され、両手は自由になっていた。
ドルムはキイラの隣で両腕を垂らして立ち尽くしていたが、やがて彼は座ったままの自分の師に歩み寄り、その胸倉を掴んだ。レイガンは無抵抗に瞼を下ろした。周囲の魔術師らが身構え、ドルムを止めようとした。彼がレイガンに殴りかかることを誰もが予想したが、そうはならなかった。ドルムはレイガンを抱擁した。
レイガンが驚いたようにゆっくりと瞬きをし、片手をぎこちなく弟子の背に回した。そして、突然顔を顰めると、呻き声を上げ、彼の服を皺が寄るほど握りしめた。
「痛い」
「痛くしてるんだよ」
身体を離すと、ドルムはあっさりとした笑顔を浮かべた。一歩下がり、キイラのほうに目を遣ると、片方の掌を上に向ける。どうぞと言わんばかりの仕草だった。
キイラは無言でレイガンを見下ろした。この師弟は、しばらくの間お互いに見つめあった。レイガンの表情は疲れて見えたが、同時に穏やかでもあった。あのとき確かに覚えた殺意を、キイラは記憶の中から掬い出し、その輪郭をなぞろうとした。糾弾の言葉も、謝罪の台詞も不適切だという気がした。レイガンはなにも言わなかったが、キイラは、既に自分が彼を受け入れていることに気づいた。
キイラは手を差し伸べ、レイガンはその手を掴んで立ち上がった。剥き出しの、火傷に覆われた肌の感触があった。師匠に手を貸しながら、キイラは傍に立つユタに視線を向ける。レイガンもそのことに気がついたようだった。
ユタは肩を竦めた。そして、懐から手袋を一揃い取り出すと、彼の手を取り、黙ってそれを嵌めさせた。レイガンはこれまでにキイラが見たことのない表情を浮かべ、ユタを見つめた。ドルムがそれとなく視線を逸らした。
「行こう」とコウロウが言った。
「再会を喜びあうのはあとだ。この結界がいつまで保つかは分からない」
キイラは頷き、結界の扉に視線を寄越した。
そのときだった。
まったく唐突に、光の幕を通過し、銀の指環を嵌めた男の手が現れた。青緑に煌めく金緑石は、蝋燭の灯りを浴びて鮮やかな紅へと染まった。レイガンが目を細めた。
キイラもよく知っている、節くれだった手だった。




