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祈りの国  作者: 識島果
第3章 影は蠢く
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第21話 対話と約束

 傍に気配を感じ、キイラの意識は急速に浮上した。キイラは反射的に飛び起き、そのなにものかの胸倉を掴んだ。

 ジストフィルドだった。

 彼は厳しい顔で黙ったまま、キイラの手をゆっくりと離させた。キイラは荒い呼吸をしながら、状況を飲み込もうとした。

 部屋の中にいるのはジストフィルド、ユタ、ドルム、レイガン。みな旅人ふうの目立たない服に身を包み、疲れた顔をしていた。ここはどうやらどこかの安宿の一部屋であるようで、キイラはひとつきりのベッドに横たわっている。レイガンだけが椅子に腰掛けていたが、キイラが目を覚ましたことに気がつくと、気怠げな仕草で立ち上がった。レイガンはキイラに近づくと、両手で肩を掴んだ。そして、息を吸い込んだ。キイラはレイガンが怒鳴り声を上げるのではないかと予想した。しかし、そうはならなかった。レイガンは口を軽く開き、しばらく逡巡してから、言いにくそうにこう尋ねた。

「私が嫌いか」

 キイラは驚愕した。あまりに意外な一言だったからだ。

「当たり前じゃない」

 キイラは戸惑いながら答えた。

「嫌いよ。大嫌い」

 更に意外なことが起こった。レイガンが傷ついたように見えたのだった。自分がレイガンのような大の大人を言葉で傷つけることができると、キイラは想像したことがなかった。

 レイガンはキイラの肩から手を離し、一歩下がった。レイガンは表情から痛みの気配を消し、「すまなかった」と言った。そして短く呟いた。

「当然だ」

 レイガンを見つめていたユタが目を瞑った。ユタは最後に会ったときよりも落ち着いて見えたが、憔悴していた。レイガンは淡々と続けた。

「率直に言って私も冷静ではなかった。混乱し、動揺している。全てが悪手だった。謝ろう」

「説明して」

 キイラは掠れる声で呟いた。

「抵抗者たちはきみとその指環を探している。私がそれを知ったのがトウズ遠征のときだ」

「わたしを初陣に出さなかったのは、そのため?」

「注意を惹くわけにはいかなかった。きみたちはあまりに目立ちすぎる。『兎狩り』でその確信を強めた」

「王というのは?」カドが口を挟む。

「抵抗者たちの集団を統率している男だ。この男が姿を現したのはほんの数年前で、驚くべき早さで烏合の衆をまとめ上げた……やつが配下の集団にキイラとカドを捕らえるよう命じたようだ」

「なぜフタル人らはその王とやらに従う? その男の正体は何者だ」

「そこまでは私も掴んでいない。その男に家族や友人があるのかさえ分からん。それこそ彗星のように、まったく突然現れたんだ。ただ、抵抗者たちによればやつは……」

「なんだ」

「奇跡のわざを使う、と」

 ジストフィルドがレイガンの斜め後ろで首を振った。

「奇跡のわざ?」

「全てが彼にしたがっているわけではない。だが、反乱に加わるフタル人らは熱狂的にやつを崇拝している。その男こそが救世主であり、神の代理人であると信じているんだ」

「レイガン、あんたがそれを教会に報告しなかったのはなぜだ」

 ドルムが静かに尋ねた。

「僕たちにさえあんたは言おうとしなかった。一人で隠さずとも、教会がもっと適切な方法で彼女を守っただろう」

「神殿内も安全ではない」

「内通者がいるということか?」

 カドがそう訊いたが、これにはレイガンは答えなかった。キイラは口ごもり、心底困惑しながら尋ねた。

「フタルの王はどうしてわたしたちを探しているのよ。それが一番肝心な部分だわ。あなたはそれを知っているんじゃないの?」

 レイガンは溜息を吐き、襟ぐりに指を突っ込んだ。そして喉のあたりを緩めると、苦しげに答えた。

「私も全てを知っているわけではない。なにもかも、憶測でしかないんだ。まだきみたちに説明することはできない」

「レイガン」

 ドルムが咎めるように唸った。レイガンは首を振った。二度振った。

「そうすることが出来ないほどに事態は複雑になりすぎた。私はこれまできみたちの気持ちを無視していた。それは認める。だが、まだだめだ。今はそのときではない。どうしても……時間が要るんだ」

 キイラやカドがなにか言う前に、レイガンはキイラに視線を合わせ、訴えかけた。

「教会は危険だ。抵抗者たち同様に。私が今言えることは、きみとその指環が危険な状態にあるということ、そして私はきみたちを守るつもりがあるということだ。私はきみたちとこの国のことを考えている。それだけは信じてくれ」

 それはほとんど懇願だった。レイガンの双眸と、キイラの視線とが真正面から衝突した。キイラはレイガンの一見つめたく無機質にも見える灰の瞳の中に、非常に人間的な揺らぎを発見した。ほんの一瞬、彼は混沌とした感情に引き裂かれそうに見えた。深く苦悩している人間の浮かべる表情だった。キイラはかつて、この表情をどこかで見た。

 マーサ。

 キイラに心の一部を読み取られたことを感じ取ったように、レイガンは目を細め、口を引き結んだ。彼は表情を消すと、ユタのほうを見ずに言った。

「ユタ、きみにも済まない」

 ユタは頷いた。キイラが神殿を離れていた間この二人の間でどんなやり取りがあったのか、あるいはなかったのか、キイラには分からなかった。ただ、今もレイガンが嵌めているあの手袋の下に醜い火傷の痕があることをキイラは思い出した。

 キイラは長いこと黙っていた。部屋の全員が、彼女がどう答えるのか考えていた。やがて、キイラはひややかに言った。

「いつまでもじっとはしていられないわ」

 レイガンは表情を変えなかった。

「きっかけがどうであれ、わたしはわたしの意思で二軍に入ることを決めた。わたしはわたしの目的を果たすわ」

「そうすればいい」

「それに、教会にカドのことをずっと隠し通せるとも思わない。わたしには戦う権利だけでなく、義務がある」

「その通りだ」

 レイガンは息を吸い込み、溜息を吐くように吐き出した。

「収穫祭だ」

 キイラは首を傾けた。

「収穫祭を終えたら、私の知っていることすべてをきみに……きみたちに話そう。それまでは……」

「黙って従ってろってこと?」

「ああ」

「すごく理不尽なことを言ってるって分かってる?」

「ああ」

「あなたのこと、大嫌い」

「そうだろう」

 レイガンはそれ以上の弁明をしなかった。カドがキイラだけに聞こえる声でそっと名前を呼び、宥めた。キイラは体の中で燃え上がろうとする彗星の炎を見えざる手で包み、努めて鎮めた。キイラは感情を抑えた声で言った。

「必ず全てを話してくれるのならば」

「約束しよう」

 レイガンが頷くや否や、キイラは鋭く言った。

「もう一つ約束して。私をローデンロットに連れていって」

 今度は僅かな沈黙があった。レイガンは逡巡したが、結局は「分かった」と答えた。

「収穫祭を終えたら、必ず」

 キイラは黙って手を伸ばし、レイガンの胸元を飾るフィビュラ、その心臓石に触れた。赦しの仕草だった。同様に、レイガンが躊躇いがちに、人差し指の関節のあたりでカドへと触れた。カドは蜂蜜色のあたたかい光で応えた。そこでレイガンは初めて安堵したように溜息を漏らした。そして、そうした自分を恥じるように視線を逸らし、一歩下がる。張り詰めていた空気が解け、全員が同様に溜息を吐く。キイラが尋ねた。

「わたしにもう一度あの指環を嵌める?」

「いや」

 レイガンが笑みらしきものを浮かべた。

「あれはきみに似合っていない」

「僕と意見が一致して一安心だ」

 ドルムが軽口を叩いた。その声色にも安堵が滲んでいた。

「あんたの趣味を疑ったよ」

 ジストフィルドもようやく口を開いた。

「レイガン、ユタとキイラにはともかく、俺たちには謝罪はないのか?」

「そうだそうだ。僕なんかえらい目に遭ったぜ」

「さっき謝っただろうが、キイラが起きる前に……」

「そうだったか?」

「ジース……」

「リーヴズはどうなったの」

 はっと思い至り、キイラは尋ねた。

「別の隊が対応した。損害は大きいが、壊滅というほどではない」

「別の隊?」

「わたしたちはここにいないことになっている」

 ユタが言った。

「そういうことよ」

「しかし、あの兵士ども」

 ジストフィルドが真剣な表情になって呟いた。

「今までの抵抗者たちとは雰囲気が違ったな。あれは寄せ集めというよりも、一小隊としての訓練を受けたものたちの動きだ。それに、あの装備……」

「フタル人が軍隊を組織しようとしてるっていうのか?」

 ドルムが恐ろしげに言った。

「小競り合いどころか、戦争が起きるじゃないか」

「今回のことはナリンニ隊が教会に報告するだろう。どうもきな臭いな。背後でアルスルムが動いているという感じがする」

 ユタがジストフィルドに頷きかけ、キイラに顔を向けた。

「悪いけれど、キイラ、あまりゆっくりしている時間はないわ。早く神殿に帰還しなくては。ナリンニ隊よりも先に」

 キイラは頷いた。そして、少し躊躇ってから、そのまま棒立ちになってなにやら考え込んでいる男たちに声を掛けた。

「取り敢えず、服を着替えたいんだけど」

 ユタが彼らを追い出し、階下のほうへ降りていくのを見届けたあとで、ユタはキイラに着替えを渡し、問いかけた。

「一人になりたい?」

 キイラは首を横に振った。レイガンが座っていた椅子に、ユタが腰を下ろした。ドルムたちが出て行ってしまうと、部屋は静かだった。質の悪い歪んだ硝子窓越しに、どこかの通りで子どもの燥ぐ声が小さく聴こえた。

 キイラは着替えを握りしめたまま、ぽつりと呟いた。

「ポウスリーが襲撃されたのは、わたしのせいだったのね」

「それは違う」

 カドが素早く言った。

「〈獅子の爪〉はわたしを狙ってきたんだわ。わたしがいなければ、みんな死ななかったんじゃない。おとうさんも、おかあさんも」

 ユトーも、という呟きは掠れて、ほとんど音にならなかった。キイラは膝を抱え、腕に口元を埋めた。指環は憤ったようにまくし立てた。

「きみはなにもしていない。きみのせい? 馬鹿馬鹿しい。フタル人が勝手な都合できみを狙い、そして村を焼いたのだ。きみのせいなどではない。だいたい……」

 ユタが指環に手をかざし、それ以上の言葉を遮った。ユタは温かい手でキイラの腕に触れた。そこに傷があって、それを癒したいのだというように。

「自分をそれ以上傷つけてはいけないわ。あなたはもう十分に傷ついている」

「でも、わたしがいなかったらポウスリーは……」

「あなたがいなかったら、あなたのご両親の人生はとても淋しいものだったでしょうね」

 キイラは唇を噛み、顔を上げた。ユタの表情は穏やかだった。

「あなたの村を焼いた抵抗者たちがあなたを狙っていたのかどうかは分からないわ。あなたにその指環を託した、あなたのご両親がなにか知っていたのか、あるいはなにも知らなかったのかも」

 キイラはベッドの下に両足をぶらりと下ろし、ユタがそこに並んで腰掛けた。ユタからはくちなしと、温めた琥珀のにおいがした。

「考えても仕方ないことだわ。起こってしまったことは、起こってしまったことだもの。どんな場合であれ、一度負った傷を引っ張って、わざわざ開いてみる必要なんかないのよ。そうすることが正しいことであるかのように言う人もいるけれど」

 ユタはキイラの背を軽く叩いた。

「あなたはもう頑張ってるわ」

 ユタはそれ以上なにも言わなかった。どうしてこの人は、自分が消耗しているときでさえ人に優しくできるのだろう、とキイラは思った。キイラは視線を落とし、今はユタ自身の膝の上に置かれた彼女の手を見つめた。そのかすかに荒れた、銅色の膚を。そのうちに胸が苦しくなって、なにか熱いものが喉の奥のほうからこみ上げてきそうな感じがしたが、結局それはキイラを困惑させただけで、表出には至らなかった。カドは黙っていた。カドは穏やかな波のようにキイラの内面に打ち寄せてきたその情動に気づいたはずで、キイラにもカドの気持ちが分かった。

 そうして二人で座っているうちに、キイラの気は済んだ。

「ありがとう」とキイラは呟いた。ユタは返事をせず、ただほほえむと、立ち上がって宿を出る準備を始めた。キイラは漠然と、ユタのこういうところがレイガンを惹きつけるのだろうと思った。

「あっ」

 服を脱ぎかけた手を止め、キイラはそこで唐突に声を上げた。ユタが振り返った。

「レイガンのこと、一発殴るのを忘れてたわ」

 ユタが驚いたように目を瞠り、すぐに笑った。

「私のぶんもお願い」

 キイラは頷いた。

 レイガンが何故王のことを個人的に調べようとしていたのか、分からなかった。彼がどうしてそれを知ることができたのかも。レイガンはどこまで知っているのか。ローデンロットになにがあるのだろう。そして、カドはいったいなんなのだろう。

 疑問ばかりが、不気味な灰色の靄のように胸中に渦巻いて、キイラを惑わせた。それでも、今日感情を露わにしたレイガンをキイラは信じたいと思った。

 ——私はきみたちとこの国のことを考えている。

 キイラは指環の上に手を当て、レイガンの言葉を反芻した。彼の言葉は、確かに本物だった。

 ただ……。キイラはかぶりを振った。ユタがキイラの顔に視線を遣り、怪訝そうに首を傾げる。なんでもないわ、とキイラは呟いた。

 レイガンの声にほんの僅か滲んだ、奇妙に熱の篭ったような響きが、鼓膜に張り付いたように、いつまでも気にかかっていた。

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