序 唄
序 唄
霧の出た海の上。甲板にいた男の耳には唄が聞こえた。少女が唄っているような歌声だ。
「···唄だ」
男は唄のするほうへと歩を進めた。霧の中、少女の歌声は不気味に思えた。
ようやく晴れてきた霧の中からは、突き出た岩壁があった。その岩壁に立っていたのは、一筋の陽の光に照らされた少女だった。逆光と距離の問題から、はっきりとはわからないが、男には少女が歌声の犯人だと本能的に感じた。
「···」
「···」
船が少女のいる岩壁の前を横切ったとき、少女はこちらを見つめていた。
すると、少女の声は聞こえぬものの、何か言った。その言葉は
[海賊]
だと男は思った。少女は男の船の海賊旗を見つめていた。
少女は岩壁に立って、唄っていた。霧の出た日に唄うことは禁じられていたが、少女はそんなことはお構い無しだ。
この日も、少女はいつもみたいに唄っていた。ところが、今日は違っていた。少女は霧の中、影を見つけた。
<船の影だ。>
少女は唄うことをやめ、影を見つめていた。影は徐々に近づき、とうとう目の前に広がる海にその姿を現した。
少女は船の上の人影に気づいた。一心にこちらを見つめていた。陽の光に照らされて、人影の正体は男だとわかった。そよ風が少女の美しい銀髪を揺らした。
船には海賊旗が掲げられており、少女は思わず呟いた。
「海賊」
少女は船の海賊旗を見つめていた。
男の乗った船が見えなくなるまで、少女は海賊旗を、男は少女を見つめていた。
「シリウス!!」
突如響いた海を轟かせるような呼び声に少女は走っていった。何度も何度も振り向いて。
「シリウス!!」
その少女を呼んでいるのであろうその声は男のいる船の上にまで聞こえていた。そして、その声に応えるように少女は何度も振り向きながら走り去っていき、男は一人取り残された。
「···シリウスっていうのか」
ポツリと呟いた。
「キャプテン、もうすぐ霧が晴れてきやすぜ」
「全員持ち場につけ!帆を張って風上に向かえ!我らが楽園へ行くぞ!」
「オォー!」
てきぱきと船員に指示を与えるその男の正体は、この白い帆をもつ赤い鷲号のキャプテンだ。
「何の声?」
後ろから聞こえてきた声に首を傾げた。が、しかし、シリウスを呼んだ張本人のアルシレナはそんなことにはかまわないようで、
「シリウス、何してんだい。さっきから呼んでんだろ。」
「婆、海賊旗を掲げた船が通って行ったよ。」
「あんた、まさか唄ったのかい?」
血相をかいて尋ねたアルシレナにシリウスはすこしばかりたじろいだ。
「えと···ちょとだけ···エヘ」
「エヘじゃないよ。シリウス、あれほど掟を守れと言っているんだ!いい加減にしないと掟やぶりの罪人として国を追放されるよ!」
「それはダメ!···父さんが帰ってくるのを待ってるから···だから···追放はイヤ」
うつむいたシリウスにアルシレナは脅しすぎたと思ったが顔には出さず、いつかは聞かなければならない質問をした。
「シリウス、お前は強くなりたいか?」
うつむいていたシリウスは勢いよく顔を上げた。
「なりたい!唄守になりたいもん!」
「そうか。だったら稽古をつけよう。シリウスが強くなる為に」
優しい微笑みを返したアルシレナにシリウスは大きな、焼き焦がすような赤い瞳と夜空を想像させる美しい紫の瞳を輝かせた。
<これで、私も父さんのところへ行ける!やっと父さんに近づいたんだ!>
しかし、この時のシリウスは知らなかった。この稽古がどれほど過酷で辛いものかを。