猫の陽向
僕には行きつけのネコカフェがあった。それは,さびれた田舎町の一角,小さくて緑の多い公園の道を挟んだ向かいに,背の高い(と言っても5階建て)のビルに挟まれるようにしてある。
ネコカフェ,と言うのは違うかもしれない。正確にはカフェに猫が溜まっている,と言うべきだろう。猫と触れ合えるように店内が整備されているわけでもなく,時間制限があるわけでもない。そこはごくありふれた喫茶店で,いつあちらへ行くかわからないほど高齢のおばあちゃんが(ひなおばあちゃん,と僕は呼ぶようになった)その店を経営していた。ちょっと他と違う事と言えば,常時10匹程度のネコが落ち着いた木目調が暖かい,アンティークでどこか薄暗い雰囲気の,しかし柔らかな日の当たる店内をうろうろしていることだろうか。実際はもっといるだろう。高校3年になるころには毎日勉強で通った僕が言うのだ,間違いない。店内にいるのは10匹程度だが,時々猫の種類が変わっていることに僕は気づいていた。三毛,キジトラ,茶トラ,黒,白,サビ,ミックス,シャム,ロシアンブルー,マンチカン,アメリカンショートヘアー,スコティッシュフォールド,アビシニアン,その他種類判別不能な長毛,短毛,鍵しっぽ,たれ耳,いつも日向ぼっこをしている黒猫に,足元に寄ってくるのが好きな三毛猫,ずんぐりむっくりの茶トラ……etc。面白くなった僕は,暇なときには猫の図鑑を片手にここに来た。すると猫たちが「ねえ,当ててみて。」と言わんばかりに順番に僕の所へ寄ってきた。僕はそれが何とも面白くって度々猫の図鑑を片手にここへ来たものだ。
彼らは決して粗相はしない。お客のいるテーブルに飛び乗る事などないし,外を歩いてきた足で店内を歩き回ることもない,彼らはまず,店の裏口に置かれた水(冬場はお湯になっていることを僕は最近知った)の張った金だらいの中をひとしきり歩き回って,タオルの上をこれまたひとしきり歩き回ってから店内に入ってくる。不思議なことにどの猫もみんなそうしている,しつけたのだろうか。トイレもお客にわからない外でそっと済ませてくるし(そして水かお湯の張った金だらいの中とタオルの上を歩いて帰って来る),台所には決して入らない。お客の荷物にいたずらをすることもなければ,むやみやたらにお客にすり寄ってその服に徒に毛を付けることもない。猫同士じゃれ合って走り回り,お客の穏やかな時間を邪魔することもしない。だがしかし,お客に求められれば彼らはそっとお客のそばに行き,ひとしきり頭や腹を触らせるというサービス精神を見せつけて,客が満足するとまたそっとおばあちゃんの所へ帰って行く。その間,ひっかくこともかみつくこともしないのだ。
メニューはけっして多くない。通い詰めた僕はそのすべてを覚えた。
小さなメニューの見開きを左上から順に,レギュラーコーヒー,ウインナーコーヒー,紅茶(レモンまたはミルク)(そしてここまではホットとアイスが選べる),オレンジジュース,リンゴジュース,ミルク,右上に移って,ハムサンド(レタス入り),ツナサンド(これを食べる時だけは猫からちょっと視線を浴びる気がして落ち着かない心地になる),小さなお手製プリン(おばあちゃんの調子がいいと生クリームが付いてくる),パンケーキ(はちみつとバターつき)。
通い始めた当時,僕は高校1年になったばかりだった。兄弟が多く騒がしい家ではなかなか勉強できないと,そう思ってこの喫茶店を選んだ。図書館はなんだか好きになれないうえに,車で15分と少し遠かった。ここなら家から歩いて5分だ。参考書が多少増えても気にならない。少ないお小遣いをやりくりしながら,気が付けば週に4日は通い詰めるようになっていた。お小遣いが増えて勉強の量も増えた(この頃になると僕は眼鏡をかけるようになっていた)高校3年になると僕はそこに毎日のように通った。長居をするのに,お冷と一番安いミルク一杯じゃ申し訳なくて,途中でコーヒーを頼んだり,ちょっと余裕のある時にはツナサンドを頼んだりしながら人の来ないさびれた喫茶店の片隅でずっと参考書に向かっていた。
「ずっと頑張ってるからネェ。猫と私がよぉく知ってるヨ。腹が減っちゃぁ戦はできぬ,ほらお食べ。」
高校3年のある秋の日,センター試験の赤本が目の前に積み上がる頃,そんな言葉と共に僕の目の前にそっと焼きたてのパンケーキを差し出しながらひなおばあちゃんは言った。
「お代はいらないよ,その代わりこれからも毎日来ておくれ。」
むっくりとした茶トラのネコを腕に抱いて,品のいいその小さな丸眼鏡の向こうで,ひなおばあちゃんはにっこりと笑った。たっぷりのはちみつと,ひとかけらのバターの乗った焼きたてのパンケーキは,何とも言えない美味しさだった。それ以来,僕は毎週末土曜日には,パンケーキを頼むようになった。するとひなおばあちゃんはにっこり笑って「他のお客さんには内緒だよ。」と半分ほどの大きさのおまけをつけてくれるようになった。
そして僕は,次の春から大都会の第一志望の有名大学に通うことになった。
大都会での暮らしは面白かった。物溢れた街並みが,いつしかあのネコカフェのことを忘れさせていった。
季節は巡り。
僕は就職して地元へ戻ってきた。4年ぶりにゆっくりした時間が取れた。ふと,突然あのネコカフェのことを思い出した。今日は土曜日だ。僕は迷うことなく,あのカフェへ足を向けた。
外側は何にも変わっていなかった。少し,蔦が増えただろうか。けれど,大きなビルに挟まれるようにして立っているその佇まいは4年前と何も変わっていなかった。足元に猫が一匹。僕の方をちらっと見ると裏口へのけもの道を進んで行った。
カランカラン。
小気味いい,変わらないベルの音がして扉が開く。
「いらっしゃいませ。」
しかし,そこにいたのはひなおばあちゃんではなく,品のいい,自分と同い年くらいの女性だった。少し幼くも見える。ストレートの綺麗な黒髪に,ひなおばあちゃんと同じまん丸の丸眼鏡。柔らかい色遣いのカットソーにふんわりとしたサテンのロングスカート。その上から淡いグリーンのエプロンをしている。
「どうぞ,お好きな席に。」
招かれるままに僕は店内に入り,迷うことなくあの頃と同じ席に座った。メニューを開くと,かつてのメニューの他に,カフェラテとココアとグレープフルーツジュース,卵サンドとフルーツサンドと日替わりケーキが増えていた。店内には相変わらず猫がうじゃうじゃしていた。どうやらここのネコの品のいいのは変わりがないらしい。あの金だらいとタオルもまだおいてある。相変わらず柔らかな日の当たる店内のあちこちで猫たちは日向ぼっこをしていた。
気を取り直してメニューを見る。とりあえずいつも頼んでいたコーヒーにしよう。それから,……ふと,僕の脳裏にある秋の日に差し出されたパンケーキが浮かんだ。あのおいしさが時々舌によみがえる。よし,決まった。他にお客もいないせいだろうか,窓際で猫と会話している女性に声をかける。
「スイマセン……えぇと……レギュラーコーヒーのホットと「パンケーキ?」……え?」
遮るような柔らかな声にはっとなった。目の前の黒髪の女性を見ると,ちょっといたずらっぽい光を目に宿して笑っている。
「……そうですけど。」
「やっぱり。そうだと思ったわ。」
「あの……どういうことです?」
「おばあちゃんがいつも言ってたもの。『いつかその席に迷わずまっすぐ座って,開口一番レギュラーコーヒーのホットを頼む男の人が店に来たら,たっぷりのはちみつと一すくいのバターを乗っけた焼き立てパンケーキを出しておやり。半分の大きさのおまけをつけるのも忘れちゃいけないよ。』って。」
「おばあちゃんって,ひなおばあちゃんのことですか。」
「ええ。残念ながら,祖母は去年他界しましたが……お店は私が継いだんです。」
女性が悲しそうな目で笑う。その姿がほんの少しひなおばあちゃんに似ているような気がして,僕は少し悲しくなった。
「そうですか……僕は昔,この喫茶店でひなおばあちゃんにかなりお世話になったんです。せめてお礼をと思っていたのですが。」
「ええ,知っています。猫の図鑑を持って,一匹一匹穴が開くほどじっと見つめて……参考書に飽きるとそっと猫に触って遊んでた黒縁眼鏡の真面目を絵にかいたような男の子。」
「え……。見てたんですか,恥ずかしいな……。」
「ずっと見てましたよ。いつもいつも,祖母が嬉しそうにしてましたから。」
「そうなんですか……気づかなかったな。」
目の前の女性がくすくすと笑う姿に僕は少々面喰いながら笑い返した。女性は「今お持ちしますね。」と調理場に戻り,料理を始めた。ほどなくしてコーヒーの深い香りに混ざって店の奥からは甘いパンケーキの香りがしてきた。この何とも言えない香りの中で勉強するのが好きだったな……と,今更ながらに思い出していた。
「お待たせしました。」
ぼんやりしていたら目の前にホットコーヒーとパンケーキが差し出された。たっぷりのはちみつに,一救いのバターが乗っていた。あの頃と何も変わっていない。
「……いただきます。」
ほんの少し視界がぼやけるような気がして,僕は慌ててパンケーキを頬張った。パンケーキの味も変わっていない。だけどほんの少ししょっぱく感じた。
「ごちそうさまでした。」
ひとしきり猫と懐かしい味を楽しんだ僕は支払を済ませてもまだ,席に座っていた。ひなおばあちゃんの話でほんの少し盛り上がったのだ。
「そういえば,まだあなたのお名前を伺ってませんでした。」
話す中で名前が分からずにずっと不便に感じていた。だから思いきって聞いてみたのだ。
「私ですか?根古野ひなたと言います。」
女性は……ひなたさんはやんわりと微笑んで言った。その微笑がどこかおばあちゃんに似ている気がして,僕の眼がしらはまた熱くなった。
「ひなたさんですか……良い名前ですね。」
「ありがとうございます。おばあちゃんがつけてくれたの。」
そう言ってひなたさんは笑った。
「また来ます。またお喋りしましょう。」
「ええ,お待ちしてます。」
柔らかい日差しの中,僕は店を後にした。
「……。」
そういえば。
『この子はね,日向ぼっこをするのが好きな子だから,真っ黒だけどひなたちゃん。綺麗な黒い毛並みでしょ?でもね、ひなたちゃんなのよ。』
この店に通い始めたばかりの頃,一匹一匹の名前を紹介してくれたひなおばあちゃんがそんなことを言っていたような気がして,僕は店を振り返った。
「……まさかね。」
きっと何かの偶然だろう。