トモダチノウタ
風が、木々をやさしく揺らしている。重なり合う葉の間からダイヤモンドのような鋭い光がまたたく。5月はこの森の家にとって最も美しい季節だ。暑くもなく、寒くもなく、虫も少なく、都会から来る人々にも過ごしやすいだろう。
祐樹は、ログハウスの横に作りつけた丸太組みのテーブルと椅子を拭きながら、今日来る客のことを思っていた。学生時代に同じゼミにいた男女5人。あれから10年。それぞれに違う時間を過ごしてきた。会うのが楽しみのようでもあり、どこかくすぐったいような照れも感じながら。
祐樹は、バンドマンだ。スタジオ兼自宅にはありったけの楽器と機材を持ち込み、仲間たちと音源を作り、ライブを定期的に行っている。資産家の実家から勘当がわりにもらった別荘を自分で改築して移り住み、ささやかな菜園を作って一人で住んでいる。収入は音楽だけではもちろん食っていけるわけではなく、現金収入は専ら肉体労働と趣味が高じてプロ級にまでなったルアー作りだ。どちらも大した収入ではないが、借金まではしなくてもツアーに行ったり仲間とCDを作ることが可能。という程度にはなる。
彼のもうひとつの趣味は料理。自宅のログハウスは「風月亭」と名づけていて、ときに50人ほどの客が集まるライブハウスにもなる。しかしひょっとしたらメインは彼の作る自家焙煎のコーヒーやもてなしのディナーかもしれないと内心思うほどだ。
今日の食事は都会からやってくる友のために、前日に川で釣っておいたハヤの揚げたものに自家製タルタルソース、畑でとれた新鮮なトマトをベースにしたパスタ、天然酵母パンなど。デザートにやはりこれも畑でとれたブルーべリーを入れたシャーベットを仕込んだ。あまりの出来栄えに、本気で店をやろうと思うほどだ。
スタートは18時だが早く来るやつらもいるだろう。祐樹はロングドレッドの髪を無造作に時計草の柄の手ぬぐいでまとめて、すりきれた絣の作務衣に汗をかきながら、掃除の仕上げにかかっていた。まだ14時。やっぱり奴らが来る前に風呂にはいっておかねばならないだろう。
風呂はガスで焚く。沸かすのは男一人暮らしなら面倒だが、やはり今日は特別な日だから仕方がない。みんな泊まっていくだろうから、風呂を先に沸かしておいとけば手間ないしな。ああ、風呂の掃除もついでにしておかなくては。
食事の支度は準備万端、風呂を沸かしたらやっとひと段落だ。
こんなに何でもできるのに何で俺は結婚できないのだろう、しかし。とつぶやきながら。
車の中で聴いているCDは友である祐樹が作った彼が言うところのジャズのクラブMIX音源というやつ。ドラムンベースというジャンルらしいが、ベースの低音にシャープなドラムと不思議な浮遊音が高音で入っている。普通に会社の友達に「いつも何聴いているの?」と聞かれても答えられないのはそのためだ。
ユカは祐樹のゼミ友だった。何年たってもお互いの心の距離は変わらない。二人っきりで夜っぴて遊んでもぜんぜん男と女の空気にならない。何というか…友達としかいいようがない。祐樹は大好きだけど、男じゃないのよね。とユカは思う。どっちかというと、子分??何でもつきあってくれる。夜、自宅に帰りたくないときはいつもそばにいて話し相手になってくれた。何でも話した。音楽について、芸術について、文学について、哲学について、歴史について、社会について、政治について、家族について、大好きな異性について、etc。お互い、異性の友達が多いっていうのも似ていた。見掛けに似合わず繊細な祐樹と、女のくせに雑なユカ。ユカが散らかしてあるいて祐樹がぶつぶつ言いながら片付けているような、そんな感じ。
ユカは絵を描きながら生活費を稼ぐため派遣社員になった。個展活動を続けながら昼間は派遣で働いている。仕事は金融事務だ。生き馬の目を抜くような忙しさの中で10年は瞬く間に過ぎた。最近一緒に住んだ男と入籍もした。夫は釣りが趣味の同じ職場のサラリーマンだった。祐樹がルアーを作っているので紹介したら意気投合し、すっかり夫は祐樹のファンになってしまった。夫婦で祐樹のライブに行ったことも幾度となくある。今は家族ぐるみの付き合いである。
今晩は同窓会で祐樹の家に行く、といったら本当にさみしそうな顔で送り出してくれた夫。彼は祐樹も祐樹の音楽も料理も魚釣りの話も好きだから、一緒に行きたくてしょうがないのだ。仕方ないでしょ、お土産にあいつの畑からナスでもカボチャでももらって帰るから、というと夫は「祐樹君の新しいCDあったら買ってきて」という。信用されているとはいえ…私がいなくてさびしいんじゃなくて、一人で祐樹に会いにいくのが羨ましいって顔を露骨にしないでほしいんだけど。
祐樹の家に着く前に美喜をひろっていかなければ。子供を産んで少し太ったけど天使のような笑顔をいつも向けてくれる美喜。私の数少ない女友達。
カーステレオから流れる音楽の中にタブラというインドの太鼓の音と鈴の音が加わって、小さな宇宙的なリフレインがはじまった。祐樹らしい。執拗な完璧さで導かれた音楽。なんて美しい孤独。
「いいこにお留守番しておいてね」と、美喜はベビーベッドで熟睡中のわが子に言った。金曜日のお出かけなんてはじめて。ちょっと嬉しい。産んでからは寝る暇もないほどの忙しさだった。義母が同居する二世帯住宅なので外出は可能だがやはり気が引ける。どんなにいいお義母さんでも他人だ。そうそう預けて遊びに行けないわ、と思う。
でも、10年ぶりの同窓会なんだもの。うふふ。美喜のふっくらとした頬がゆるむ。みんなどんなふうに年をとったのかしら?それとも変わっていないのかしら。
あたしだけが老けてたらどうしよう…。太ったのはしょうがないけど。夜の集まりなのが嬉しいわ。あんまり明るいと小じわなんかも目立っちゃうからね。ホテルなんかじゃなくて良かった。中学の同窓会で、独身でバリバリ働いている人なんかとトイレで一緒にお化粧直ししたらポーチの中身まで違うわってちょっと驚いてしまった。あたしなんか、お粉と口紅とグロス、眉かきペンぐらいで。しかもスーパーとコンビニで全部そろうようなの。だって、何でも子供が一番ってなっちゃうんだもの。いいお化粧品買うぐらいならいいオムツを買うわ。できるだけ安全な食品を買うわ。マニキュアも毒だからしないわ。だって、こんな宝物ほかにないんだもの。ああ、女ってこうやっておばちゃん化してゆくのね。それでもいいの。娘の絵美里を愛してるんだもの!
あらあら、したくしなくちゃ。山中のログハウスなんて素敵。せっかくだから、輸入物のワインビネガーと手づくりのなべつかみをおみやげに持っていってあげましょう。祐樹くんたら、見た目はワイルドで落ち武者みたいなのに昔っから主婦みたいな会話でもりあがっちゃうのよね…。
昭雄はPCのモニター画面から目を離してまばたきをした。仕事のし過ぎで最近、目の前に黒い点がちらつく。このメールが終わったらやっと休みだ。祐樹のやつはいいな。あんな山の中で半自給自足とは。ある意味うらやましい。最初は「貧乏すぎて俺、食べれる草のこと図書館で調べてもう覚えちまったよ」と笑っていたが、続けるってのはすごいものだ。やつに言わせると、ひとつの会社に勤め上げるのも十分すごいってな話のようだが。
スーツにネクタイ、は楽なんだよ。祐樹。そう思う。だって、僕は会社員なんだ。会社という組織の中のあくまで一細胞にしかすぎない。個人的な責任はないんだ。仕事はさがさなくても向こうから降ってくる。地方都市の一企業のサラリーマン。転勤はなく、内勤のみで、ひたすらPCの中に流れるデータの処理と管理。数字を見ているのは楽しい。達成感がある。やればやるほど結果が出る。成果はきちんと給料に反映される。僕は出世欲はないけど、純粋に仕事が楽しいんだ。そしたら悲しいことも苦しいことも感じなくていいじゃないか。
家に帰れば妻がいる。虐待された子は自分の子を虐待するという説から抜け出せなくて、とうとう子供をつくるにはためらい3年が過ぎた。自活さえできれば実家には用はない。次に帰るのは父の葬式のときぐらいだろう。僕は父を憎んでいる。それを知っているのは仲が良かった友人数人と妻だ。
妻は大人しいがしっかりした女だ。2歳上ということもあるが、何をやるにもどしんと構えて僕を後押ししてくれる。母はいないが母とはもしかしたらこんな感じなのだろうかと思う。穏やかな家庭、清潔に行き届いたインテリア。六畳一間で3人兄弟と父と殴り合って暮らした何もかもが嘘のようだ。彼女に会って僕はこの世に生まれてきた意味を知った。
だから、僕は働くことを至上のよろこびとする。当たり前の幸せを知らなかった22年間への復讐でもあり、慰めでもあるからだ。
車の音とともにシベリアンハスキーの鈴木の声がけたたましく響いた。しまった、リードを外していたんだった。祐樹は湯船からあわてて立ち上がった。入り口にかけておいたバスローブをひっかけると大急ぎで風呂のドアを開けて(風呂は独立した別棟にある)外に出た。けたたましく鳴く鈴木。鈴木という名前はこの高価な犬に対する冒涜だとみんなは言うがなんとなく「鈴木」だと思ったから仕方がない。
「鈴木!鳴くな!おすわり!」というと鈴木は恨めしそうに耳と尻尾を伏せて鳴きやんだ。
目の前に止まった赤の4駆から細いジーンズの長い足が下りてきた。
「よっ!貧乏人!元気だった?」
「久しぶりに会う仲間に言う言葉がそれかよ…桜」
桜、と呼ばれた髪の長い女は、かはは、と笑って続けた。ああ、その変な笑い方さえしなきゃお前も結婚できるのに。というくらいには美人。
「ほかの人たちはまだなの。つーか気持ち悪いわねえ…。何なのその格好」
確かに、肉体労働その他で真っ黒に日焼けした全身にロングドレッド、右足にはでっかいタトゥー、耳にはリングピアスが左右三つづつぶらさがっている男が真っ白なバスローブを羽織ってログハウスから出てきたら、ちょっと笑える。
「しょーがないだろ、お袋が送ってきたもんだから。大事にしてんだよ」
「バーカ、このお坊ちゃん崩れが。どうせあんたの実家で、うちのボーヤはお風呂上りはこれじゃないとだめなのよね、とか言われてるよきっと。30面下げてかわいらしいったらないわね」
「お前俺の飯食いたいなら毒舌なおしてから食え。お前の飯だけ納豆ご飯にするぞ」
というと、桜は口を閉じた。桜の納豆嫌いは有名なのだ。納豆を目の前で食べてるだけで吐きそうな顔をするのだ。
しかし、笑いをかみ殺したような顔で外の椅子に座った桜を見て、祐樹は女には勝てんと思うのだった。
「他の連中は仕事もってる奴ばっかだから遅くなるだろ〜。桜は何でこんなに早くきたんだよ」
「あーら、ひどい言い草ね。まあ、はじめてくる所だから、迷って遅刻したら嫌だからさ。それにしても早く着替えていらっしゃいよ。」
「男ひでりに肉体美がまぶしーだろ」
「ばかじゃないの。あたしが好きなのは痩せたメガネ男なのよ。あんたみたいなマッチョじゃ征服感がなくてつまらないわ」
「相変わらず初物食いやってんのかよ。お前、変わってねえな」
「そっちこそ。あんたが女と歩いているとこ見たことないわよ」
「やかまし。ちゃんと俺は囲ってたの。自宅に内緒で住んでたの」
「続かないんでしょ」
「う…」
図星を当てられて祐樹はがっくりと頭を垂れる。
スタジオやライブに入り浸り、ろくに勉強や仕事をせず男の世界を飛び回っている男についてくる女は少ない。そして、それが理解できる女(要はバンドをやっている女の子)とつきあっても同じジャンル同士だとお互いのやっていることがライバルで意地の張り合いになってきて、最後に破局する。
ましてや山の中に引っ込むと出会いさえなくなってしまうのだ。
「ごめんごめん。まあ、今日は皆が集まるのだから、楽しくやろうよ。ね」
なんとなく祐樹は敗北感を抱えたまま着替えに家の中へ入っていった。足元を鈴木が長い舌を出してついていく。
「鈴木、俺のことを理解してくれるのはお前だけだ」などと話しかけてしまいながら。
夕日が赤く木々を染め、少し肌寒くなったころ、ユカと美喜、少し送れて昭雄が到着した。既に着いていた桜が料理の準備を手伝い、女三人盛り上がって他愛もないテレビの話に笑い声を立てている。窓際のソファーに離れて座っている昭雄のそばに祐樹が座った。
「なんもないとこなんだけど、いいだろ」
「ああ、そうだな。僕、あんまり自然て苦手なんだけど、まだ建物の中は安心するな」
「自然が嫌い、なのか?お前」真っ黒な祐樹の顔が、白く抜けるような肌の昭雄を見て、同じ民族とは思えん、と内心つぶやいた。
「そ。濡れた草の中に足を踏み入れるなんてことは気持ち悪くてできないね。何が出てくるかわからないじゃないか」
「そうか?何か出てきたら楽しいじゃないか。虫か、蛇か、野うさぎか。だいたい山にいるもんは食えるぞ」
「僕はスーパーでパックに入ったものじゃないと口に入れたくないんだよ」
こいつ、こんな奴だったなそういえば。と、お互いに思う。趣味は正反対。それが、面白くもある。
「弥は?」と、昭雄。
「連絡つかないんだ。俺あてにメールで出席って連絡がきたけど。まあ、こんなご時勢だからなあ」
弥は自衛官だった。同じアジアの国から始まった戦争の影は少しづつ、この国にも忍び寄っている。南の町のいくつかは灰になった。いつもの自然災害と異なるのは、そこに憎しみの連鎖と報復があるから。そして、この国は今、報復論が高まっている。軍拡に次ぐ軍拡。高齢化が進む現代において増税は生活を圧迫している。今は普通の生活ができている。でも、明日は?わからない。
「お前、何でこんなときなのにバンドやってるんだ?」
何の気なしに、ふと昭雄は言う。
祐樹が答える。
「こんな時だからやってるんだよ。弥もそうだと思うぞ」
「まあ弥、来るかどうかわからんし。飯にしようぜ」
昭雄が困ったような視線を祐樹に投げた。
「ごめんな。それは僕だってそうなのに。おかしなこと言って悪かった」
不器用で、言葉で人を傷つけてしまう昭雄。乱暴な父の言葉を隠そうとしても出てしまう、それが彼のコンプレックスだった。
祐樹が目を見開いた。
「お前変わったな」
「そうか?」
「そもそも昔は、自分が投げた刃の行き先を考えるような奴じゃなかったんだよ。いい嫁さんもらったな」
というと、祐樹は満面の笑みをたたえた。そう、祐樹は、弥の投げた刃をやんわりと受け止める数少ない友の一人だったのだ。いつも。
「それでは、私たちの再会を祝って、かんぱーい!」
「って、何でお前がしきってんだよ桜」ふてくされる祐樹を尻目に皆、高々とグラスを上げた。
そのとき、バイクの音がした。鈴木もやっぱり吠えてている。「弥」といってすっかり始まる前から酔っている桜がもつれる足で迎えに行く。
身長185cmの弥が、白いTシャツにジーンズといったごく普通のいでたちで入ってきた。しかしその胸板といい刈り上げた頭といい、スポーツ選手かレスラーかといったところだ。
「おおー弥!元気そうじゃん。」と祐樹。
「ああ」と弥。笑うと意外と優しそうな目が、かつて彼を在学中もてさせたチャームポイントだがあまり変わっていない。すこし目元の皺が増えたかな、というところ。
当時から逞しい体で、ラグビーをやって全国大会までいったらしいが、クラスメートながらそれほど成績のことはよく知らなかったし、特に彼の方から自慢することもなかった。
赤点が多くて、皆から試験前にノートを借りまくっていた大人しい巨人、というのが弥だった。
「しかし、僕と違って好戦的な性格でもないのによく自衛官に」と昭雄。
「大卒だし幹部なんだろお前。後輩とかになめられていないか?」これは祐樹。
「ああ。まあな。逆に楽だけどな。規律がきっちりしてるから。俺、腹へってんだけど飯ある?」
「まかせとけ。まだ始まったばかりだよ。桜、弥のぶんもよそってきて!」
「だめよ、祐樹君。桜ちゃんたらもうただの酔っ払いよ。あたしがやるわ」と美喜がいそいそと厨房へ引っ込んだ。
そう、この6人は学生時代しょっちゅうつるんでいたのだ。阿吽の呼吸で飲み会を仕切りそれぞれが役割を分担していた。何か特別に集まるわけでもなかったが、学食や試験前などは自然に顔を合わせ遊んでいた仲間だった。
しばし料理に舌鼓を打つ。
そして全員の酔いも進んだころ、ユカが尋ねた。
「弥君、最近仕事どう?」
「ああ、俺…」
口ごもる彼の顔に一同の目が集まった。
「実はさ…もう人殺すのが嫌になっちゃってさ。やめてきちゃったんだ」
「ええ?」尋ねたユカも驚いた。
「マジで?」と祐樹。
「…」思慮深い目で無言で頷く昭雄。
弥の目にうっすらと光るものがにじんだ。
「毎日、泥にまみれてさ、戦争の準備してたけど、誰も本当に戦争が始まるなんて思ってなかったろ。正直、大地震のときや水害なんか、すげえがんばってさ、人助けをしてさ、俺なんかちっぽけな自衛官だけど、それでも誇りに思ってたんだよこの仕事。だけど…。どんなに銃の訓練したってさ、使う機会来るとは思わないだろ。ましてや専守防衛なのこの国は。攻めちゃいけないの。陸自なんか使われる日が来るとは夢にも思ってなかったんだよ。ましてや地上戦があるなんてことは…。常に備え、だったの俺たち。でもそれが幸せに思える日が来るなんて思えなかったんだよ…」
弥は最後まで言うと肩を震わせた。祐樹は、こいつがこんなに話すの初めて見た、と思った。
「だから、自分で撃ったタマで人が死ぬとかさ、タマが飛んでくるとかさ、そういうのって夢物語だった訳じゃん。そりゃあ、隊では有事に備えよって言われてきたけどさ。実感としてないでしょそういうの。何十年この国が戦争してないと思ってんだ。ってね。俺は大卒だけがとりえであんま気もきかないし頭もあんまりまわらないけど、自衛官なら父ちゃんも兄ちゃんも、爺さんもひい爺さんも軍人の家系…だからな。ずっと、自衛隊員になるのが普通の環境だったわけ。で、こないだ有事があったでしょ。機密だから詳しい内容は言えないけど。俺、殺したんだ。敵兵を」
祐樹が弥の肩を抱いた。女性3人は息をつめて言葉をなくしていた。
昭雄が煙草に火をつけた。
「それで、お前、抜けてきたのか?」
「実は、逃げてきてきちゃったんだ。昔と違って大した罪にはならないけど、一応、犯罪だよ。でも、俺、気づいたんだ。撃てば、人が死んでんのに、手柄になるわけだろ。で、ゲームみたいに気持ちよかったんだ。どんどん撃てば倒れていく。俺を殺そうとしてる奴らを倒す。それに気づいちゃったら、遮二無二逃げるしかなかった。後は、肉体労働を転々として暮らしてた。一応パソコンのフリーメールだけ開けといて隊の仲良かった奴にだけは教えといたから、それで今日の事知って、来たんだ。逃げたのは俺だけじゃない。結構いると思う。生活の為とか、金ためて店やりたいとか、借金返したいとかそういう理由で隊にいる奴もいるからね」
しまいまで言うと弥はグラスのワインを一気に空けて、そのままふらふらと窓際のソファーへつっぷした。酒に弱いのは直っていないようだ、
「ばかねえ、この子には向いてないと思ったのに。だからやめなさいって、言ったのに。それが理由で別れたのに」と桜はソファーのそばの床に座って弥の坊主頭をいとおしげに撫でた。真っ赤に塗った爪にラメの星が輝く。
「あんたたち、つきあってたの?」とユカ。
「お前、弥が隊抜けてきたっていうのより驚いていないか?」と弥が言って一座が爆笑した。
ふふふ、と大人の笑いで桜が応じた。
「内緒だったの。あたしは一人の男で満足できる女じゃなかったし、当時から。彼ももててたけど。つきあってたっていうんじゃないけど、まあ男と女だったのよ。昔のことだからねえ。」
「弥君、ひとりなんでしょ。桜ちゃん、弥君と今ならやりなおせるんじゃないの?」とふっくらと笑う美喜。
「あたし、会社を作って立ち上げたばかりよ。スキャンダルは困るわ。ま…、刑務所に行って帰ってきてこいつがあたしのことが好きだったら考えてもいいけど、それはどうかなあ。終わったことなのよ。男は生活のスパイスだけど主食じゃないのよ、あたしにとって」
「分かる!分かるぞ桜。所詮私ら美喜みたいに子を産む女じゃないのよね!」とユカ。
「まあ、差別だわ。あたしもせめて仲間にいれてよお」と美喜。
桜が首をかしげた。
「あらやだ、あたし息子がいるのよ。もう5歳よ」
「はあ?」と何故か祐樹が大声を上げた。
「お前、こどもいるのか!?そんなこと知らなかったぞ!」
「やーだ、無粋だから友達に言うわけないでしょ。あたし一人の子よ。すっごくかわいいわ。アメリカ人とのハーフなんだけど、今子供モデルをしているのよ。だから子供服の会社作ったんじゃないの。子供いないで子供服なんかデザインするわけないでしょ」
これには一同唖然とした。長いつきあいでそれぞれに交流があったのだが、子供のコの字も会話に出てきたことがないのである。
「結婚はしなかったわ。相手が死んだから。5年前、あの戦争のときに。たまたまであってね、結ばれたんだけど。認知する暇もなかったわ。でも、素敵なプレゼントを置いていってくれた。尚弘って名づけて、大事に育ててるわ。だから私、結婚はしないの。男は尚弘だけで十分」
昭雄が複雑な感情をおさえた彼独特の無表情で、言った。
「桜、それで…大事にって、それは大事にしてあげてるか」
「してるに決まってるじゃない。あたしは水商売やってる母親に殴られたり階段から落とされたり、三番目のお父ちゃんにぶっ殺されそうになったり、しまいにゃ親戚のとこに預けられてそれっきりになっちゃったけど、だからこそ、よ。お母ちゃんになかった分の母性が、あたしに恵まれたのかしら。かわいがりすぎるとよくないかもしれないけど、自分の分身のように好きで好きでてしかたがないの。ほら、見て」
写真がヴィトンのバッグから大事そうに取り出す。その目は美しく潤んでさえいた。
茶色の巻き毛の活発そうな少年が笑ってそこに映っていた。母ゆずりの負けん気と勝負強さをこの子がうけつぐのなら、世の中を逞しく渡って行けるだろう、と一同に思わせた。
なぜか安堵した表情を見せる昭雄ににやりと祐樹は笑って見せた。
「一本くれよ」
「お前、やめたんじゃなかったのか」といいながら昭雄は祐樹に煙草を箱ごと投げてよこした。
「今日は解禁なの」
「悪趣味な奴。笑うなよ」
「お前、そろそろ子供つくれよ。お前の子供の顔も見てみたいよ」
「できても祐樹には見せたくないなあ」とつんと昭雄は返した。
「だって、変なばい菌つけられそうだし」
つけねえよ。と憤慨する祐樹。
「一体なに言ってるのかしら、あの二人?」とユカは首をかしげた。
昭雄の家庭の事情をよく知っている桜はそれでも「さあ?」ととぼけた。
と、突然、空が明るくなった。オレンジ色の光が一瞬暗闇を昼間に変えた。
激しい雷の落ちたような音がつんざき、地面が揺れた。それと同時に電気が消えた。
幸い、キャンドルをたくさん点していたため真っ暗闇は免れたのだが。
「とうとうこのちかくの町でも始まったのかしら」と美喜。「こわいわ。うちが心配」
突然、戦争は始まった。何の前触れもなく。前触れはもしかしたらあったのかもしれないが、国民には知らされなかった。
「今日はこれでお開きかな。片付けは明るくなってからでいいや。皆、動くと危ないからここに泊まりな。寝床はこの建物の二階に二部屋あるから、女性はそこの客室の二段ベッドと俺の寝室に寝てくれ。野郎共は一階でザコ寝な。毛布はあるから自由に使ってくれ。家族と連絡を取りたい奴は一応自家発電を使えばネットも電話もつながるから言ってくれ…ああ、携帯でいいのか。じゃ、そんな訳で落ち着いて行動しようぜ。じゃあ一旦解散ってとこで」
「祐樹、へんだよ。あんた。解散って」と、ユカ。
「そお?」
「それより、祐樹。お前大事なこと黙ってるだろ」と昭雄。
「何だよ」
「突然、同窓会はがきなんか出しちゃって。集まる理由、あったんだろ。でも弥があんなこといいだしたから、僕らに言い出しにくくなったんだろう。言えよ、てめー、水臭いぞ。俺のこと知ってて、てめーだけ自分のこと言わねえなんておかしいだろうがよ!」
元来、昭雄は喧嘩っ早いのだ。もう言葉と目つきが変わり祐樹の胸倉をつかんでいる。
「あ…」と美喜が声を出した。
突然、電気が点いたのだ。どうやら危機は一旦去ったらしい。長距離のミサイルが最近よく打ち落とされているが残った破片でも落ちただけだったのかもしれない。
「実はさ、俺んとこに赤紙来たんだ」
ドレッドの頭をぼりぼりとかきながら祐樹が言った。
一同は絶句した。
「それって…あの、最近決まった動員制度の話」
「そ。無職の人やよくわからん仕事の人、独身の若い人は戦争に行きましょうって奴。これが意外と国民の義務だったりするからな。」
「そんな…そんなのだめよ」桜は昭雄を押しのけて祐樹にしがみつくように抱きついた、
「行っちゃだめよ。あんただけは。平和のことを誰よりも想っていたあんただけは。あたしは遅かったの。彼が死ぬまではテレビの中のことだけだと思っていた。そうして他の国の事なんか知らずに、外国で作った肉や野菜を食べて服を着て暮らしてた。だけどあいつが死んでから気づいたの。残されていく気持ちを。人が人を憎しみもなく殺していくことを。あんただけは行っちゃだめよ。いいうちに生まれて、きれいな事言ってきれいなとこに住んできれいな物たべて、いい音楽だってまだまだ作れるのに、あんたみたいな人がいないとだめなのよ!」桜は震えながら泣きだした。
祐樹はぼんやりと、桜のことをこいつ、やっぱりいい女だな、抱いとけばよかったな、と思った。
「そりゃあさ、俺はバンドマンで、やっぱ音楽で平和を伝えていくのが仕事だと思ってやってきた。でも、戦争が始まったときに、始まったって時点で俺の負けなんだ。止められなかったんだから。一発の弾が町を飲み込んでいく様をテレビで見た。もう、それだけで俺の負けなんだ。すっごい悔しいけど。俺はベースマンだから歌は歌えない。それでも音でメッセージを伝えられると思って、色んな国の楽器とセッションしたりその音源売ったりしてさ、金にもならねえけど何とか伝えようとしてきた。言葉じゃなくても気持ちよくなれるって事を。でも、爆弾は落ちたんだ。それで。俺の中で何かが変わった。始まったもんを止めることはもうできないだろう。俺の力は小さすぎる。そして、何も知らないことに気づいたんだ。俺は戦争は大嫌いだ。でも、何も知らないんだ。だから行って、見てこようと思うんだ。弥が見てきた地獄。それがやっぱり悪だと思うなら、何とか生きて帰ってきて、それで本当に音楽をやりたい。それが、俺の今日言いたかったことだ」
弥もいつのまにか起きていて、皆が固唾をのんで祐樹の言葉を聞いていた。祐樹はいつでも6人のリーダーだった。彼がこうと決めたら、その決断は絶対だった。皆はそれを知っていた。
美喜は「桜ちゃん」と、桜を促して寝室に上がっていった。昭雄と、弥と、祐樹、そしてユカがその場に残った。
「昔さ、この4人で祐樹の部屋で麻雀やったよね。全員ルールもよくわかってなくてさあ」
と、何事もなかったかのようにユカが言った。
「そうだな。まあ、僕の一人勝ちだったけどね」と昭雄。「だって、皆顔にすぐ出るから分かりやすいんだよね」
「悲しいのは皆文系だから、計算にめっちゃ時間がかかってさー」と祐樹。
彼らは哲学の徒であった。現代哲学というものを学んでいた。デカルトの和訳を一行一行やっていた。唾とばしあって討論した。それも、遥か、遠い。
「ギター弾いてよ、祐樹」とユカ。
「えー、言っとくが俺ギターも上手いんだよ」
「えー、じゃねえよ。じゃあ、昭雄が歌って。昔みたいに」ユカが笑った。
道端で、祐樹がギターを弾いて、昭雄が歌って、一晩中その前でユカが座って過ごした夜があった。寒い夜を缶コーヒーだけで暖めながら、ストーンズを、ジョンレノンを、ボブマーリィを歌った。祐樹がアコーティックギターを多彩に操り、昭雄が意外な美声で客を集めた。目の前に置いたギターケースには千円札が降ってくることもしばしばだった。時には部活帰りの弥も道端に座った。何もなくても遊んだ日々。戦争がはじまるなんて思わなかった10年前。歩いている米軍に「日本には戦争はいらないから帰れ!」って英語で怒鳴ってつかみ合いの喧嘩になりそうになったこともあった。外国の有名ミュージシャンがふらりと現れて一緒に歌ったこともあった。
祐樹がギターをかき鳴らし、昭雄が歌った。昭雄は少し下手になっていたけど、それでも道で歌ったたくさんの曲を、ふたりとも何一つ忘れてはいなかった。親指で低音のビートをとりながら他の指で高音のメロディーを奏でるブルースギターの祐樹と、明るい音質でクールに歌う昭雄の二人。学内で、公園で、路上で、彼らは仲間のヒーローだった。
弥と、昭雄はいつしか寝てしまった。ユカと祐樹は森に差込む朝日を見ながら外のテーブルに二人で座ってコーヒーを飲んだ。祐樹の傍らには鈴木が眠っている。
「何か変な晩だったねえ」
「そうだな。片付け手伝っていけよ」
「うん」
「旦那は大丈夫だった?」
「うん、うちも旦那も大丈夫。何だか海の方に落ちたみたい。停電は電力会社が国の命令で強制的に落としたみたい。人的被害はなかったそうよ」
「そっか」
「あんたが行ってしまうの寂しいな」
「ありがと」
なんとなく、憎まれ口も叩かずに、二人はそれから向かい合うこともせず、朝靄に淡く溶けた森を見ながら、鳥たちのさえずりを聞きながら、ゆっくりとコーヒーをのんだ。まるで時が止まっているかのように思われた。こんなふうに、話す日が来るとは、思わなかった。とふたりともがそう、思った。
「それじゃ、元気でな」と祐樹が言った。
弥はしばらく落ち着くまでこの家に逗留することに決めた為、あとの4人だけが帰ることになった。
「あのね」と
美喜が言った。
「桜ちゃんと昨日話していて思ったんだけど、10年後に、またこの場所で会わない?」
この国が、人が、自分たちが、いったいどうなるかまったく見当もつかない、未来。
「そうだな」と祐樹が笑った。
「じゃあ、10年後に」とそっけなく、昭雄は去っていった。振り向くこともしなかった。
「じゃあね」
「又ね」
「ばいばい」
来たときと同じ、ユカは美喜の車に、桜は自分の車に乗って走り去っていった。
木々の上に、初夏の風が吹きはじめていた。太陽がまぶしい光を放ち、雲のない、空が森の上に広がっていた。
読みかえしてみると、なんだかとっても実話を多く入れちゃった感が…。年をとってよかった気がします。たくさんの人にめぐりあい、いろんな種類の仕事をして、やっとリアルなお話を書けるような気がします。書いていてとても楽しかった。小説を書くのもほとんど10年ぶりぐらいだったので、この自分自身の10年への整理のような気持ちがいっぱい入っています。
もちろん、実在する人々や経験したことはもっともっと強烈ですけどね。