03-B
嘘でしょ……?
いや、それは夢や幻ではなく、逃れようのない現実。
身体の痛みと、心を包み込む絶望感がそれを伝えていた。
私は、どうやら家屋の屋根に運良く落下したようだ。おかげで、落下は2メートルほどで済んだ。
だけど、そのことに安堵できるような状況では無く、むしろ、事態は悪化していた。
「ノエリアさん!」
私の叫びは、ノエリアには届かない。彼女の身体はすでに、完全にマンイーターに飲み込まれてしまっていたのだから。
一体どうして?
なんでノエリアまで捕まったの?
「……!」
そこで、気付く。
マンイーターの体内をゆっくりと移動している核から、赤い液体がわずかに漏れていることに。
そうして、今何が起きたのかを推測するに至る。
ノエリアは捕まったのではなく、自らマンイーターに向かって跳んだ。そうして、奴の核を傷つけることに成功したんだ。
だけど、完全に破壊できなかった。
だから、マンイーターは苦しんではいるものの、死んでないんだ。
……どうする? 私は、どうすればいい?
「……」
立ち上がり、どうにか手放さずに握ったままでいた剣を、一瞥する。
……私が、やるしかない。
私が、こいつの核を破壊するんだ。それしかない!
「やらなきゃ……」
足が、手が、いや、全身が震えている。私は、ただただ恐怖していた。
もし失敗したら、今度こそ終わりだ。3人共、ここで命を終えることになる。
食べられて消化されれば、死体も残らないだろう。
こんなところで? こんなところで死ぬの?
私、まだ何もしてない。何もできてない。こんなところで死ぬのなんて、嫌だ!
震えて動けないほど恐怖しているのにもかかわらず、逃げたいという感情は全く無かった。
助けなきゃ。フランカとノエリアを、私が助けるんだ!
大きく深呼吸をし、剣を握り直す。
そして、眼前のマンイーター、その体内を巡る核に視点を固定する。
来た! 行くぞ!
「ああああぁぁぁぁっ!」
声を張り上げ、屋根から跳ぶ。空中で剣の切っ先を下向けて、ちょうど回ってきた核へ突き出す。
マンイーターとの距離はあっという間に詰まり、そしてそれは、確実に核を突き刺す軌道のはずだった。
「――えっ!」
切っ先がそれを貫く直前、核がぐにゃりとわずかに上へずれた。
――避けられた?
「うぶっ」
私は為す術なくマンイーターの身体に突っ込み、そのままロクに息も吸えずに体内へ飲み込まれてしまった。
……嫌だ。嫌だよ、死ぬのは嫌!
恐怖が、私を狂わせようとする。
鼓動はさらに激しくなり、全身が呼吸を、酸素を求めていた。
「――!」
視界の隅に、赤い球体。赤い線を引き続けるマンイーターの核が、すぐそこにある。
手を伸ばせば届きそうだ。
右手に意識を向け、まだ剣を手放していないことを確認した私は、マンイーターの身体の中で手足を動かした。
水でできているのなら泳げるはずと考えたけれど、今はマンイーターというファミリアの肉体、ただの水ではない。
粘りと弾力のせいで、思うように身体が進まない。
そうこうしているうちに、息も体力も、限界を迎える。
あと少し。あと少しなのに……。
最後の力を振り絞って、剣を突き出す。が、やはり届かなかった。
ああ、駄目だ。全身から力が抜けていく。
ごめんなさい。お父さん、スヴェン、ミリィ……。
私は、もう……。
消えゆく視界の中で、何かが核を貫くのを、見た。
「――――!」
突如として、全身を包んでいた粘りと弾力がなくなったかと思いきや、まるで何かに引っ張られるように私の身体は移動して、やがて硬い何かに衝突した。
「ぶはっ!」
失われる寸前だった意識が、一気に戻る。
「……え?」
激しく流れる水の音。私はその中で身体を起こし、座っていた。
私が座っているのは、地面の上。辺りは一面、巨大な水溜まりになっている。
……一体、何が?
「フランカ! しっかりして!」
「!」
その声に、ぼやけていた思考が明瞭となる。
声のした方を見ると、やや離れた場所に座って、フランカを抱きかかえているノエリアの後ろ姿があった。
私はハッとし、慌てて立ち上がろうとして、前のめりに倒れた。
驚くほどに、体力が残っていなかったんだ。
「フランカさん!」
そこへ行けないもどかしさで、涙が溢れる。叫ぶことしかできない自分が、情けなかった。
「ティナ!」
私の声に振り返るノエリア。濡れた髪の中にあるその顔は、今にも泣き出しそうだった。
「がっ、がふっ」
咳き込むような声。ノエリアはフランカへと顔を戻し、彼女の名を何度も叫んだ。
「フランカさん!」
私も、叫んだ。
固唾を呑んで見守っていた私は、ノエリアがフランカを抱き締め、フランカの手がノエリアの腕に触れるのを見て、心底、安堵した。
マンイーターの核を貫いたのは、ノエリアの剣だった。
飲み込まれた直後から、核を目で追い、近くに来たら破壊するつもりだったらしい。
ところが、そこへ私が突っ込んできたものだから、核の軌道が変わってしまった。
でも、それで運良くノエリアの手の届くところに行ったのだから、結果的に私の突撃は無意味ではなかった。
いや、私は全くそうは思わなかったけど、後にノエリアは、私を叱りつつもそう褒めてくれた。
「ごめんね、2人共。私の不注意で、あなたたちを危険に晒してしまった。本当に、ごめんなさい」
全身ずぶ濡れのまま、ノエリアは私とフランカに謝り続ける。よっぽど責任を感じているのだろう。その声は震えていた。
フランカがこちらを見るのを視界の隅に捉えながら、私はノエリアの前へ移動してしゃがむ。
「ノエリアさんのせいじゃありません。私が、ノエリアさんの指示を聞いてちゃんと逃げていれば、フランカさんが捕まることはなかったし、もっとマシな対応ができたはずなんです。謝らなくちゃいけないのは、私の方です」
マンイーターの親株が出現した時に捕らえられたものの、ノエリアは自力で逃れることができていた。
あの時、私がフランカと一緒に離れていれば、全員が危険な目に遭うことはなかったはずなんだ。
しかしノエリアは、ゆっくり小さく首を振って否定する。
「そもそも、私が油断して井戸を覗き込んだせいで、あいつが飛び出し、その音であなたたちまで呼び寄せてしまった。もっと慎重になるべきだったんだ……」
何を言っても、余計に追い詰めさせてしまう気がして、私はそれ以上言葉を続けられなかった。
「苦しかったです」
「!」
突然、背後で声。ノエリアはわずかに顔を上げ、私は驚いて振り返る。
「辛かったです」
その声は、ほかの誰でもない、フランカの口から放たれたもの。そして彼女の表情は硬く、その目はまるで糾弾するかのように、ノエリアに向けられていた。
「フランカさん」
止めようと立ち上がる私を見ずに、フランカは言葉を紡ぎ続ける。
「怖かったです。とても。とても。本当に、死んでしまうかと思いました」
「フランカさん!」
私が声を荒らげるのと同時に、フランカは私を睨んで立ち上がる。
「でも、今回のことは全て、私たちにとっては貴重な経験でした。そうでしょう? ティナさん」
「! えっ……?」
そう言われ、私はすぐには反応できなかった。彼女の言葉に、驚いたからだ。
あんな目に遭ったのに、この子はそんな考えに至った。死にそうになったのを“貴重な経験”だなんて、そうそう言えるもんじゃない。
だけど、言われてみれば、その通りなのかもしれない。
「ですから、もうご自分をお責めにならないで、ノエリアさん。私もティナさんも、ノエリアさんを責めたりはしません」
ノエリアの方へ顔を向けると、彼女はフランカの顔をじっと見つめていた。
「まだ始まったばかりなのですから、担当官としても、候補生としても、お互い不慣れで、うまくいかないところもあると思うのです。ですから、反省すべき点は各々しっかりと反省し、次に繋げましょう。ね、ティナさん、ノエリアさん」
そう言って、微笑むフランカ。
……精神的な強さも、私の完敗だ。この子には敵わないなと、痛感した。
あんなことがあっても、人を励まし、笑みさえ見せる。
私には、とても彼女のようにはできない。すごいなと思った。憧れさえ、抱くよ。
「……ありがとう」
はっきりとした声でそう発し、ゆっくりと立ち上がるノエリア。
「フランカの言う通りだね。次は、こんなことにならないように気をつけるよ」
その顔に、穏やかさが戻る。
「駄目だなぁ、私。そういうことは、本来なら年長者の私が言うべき言葉なのにね」
顔に張り付いたままだった髪をかき上げ、微笑むノエリア。
「あー。なんか、どっと疲れた。とりあえず、身体拭いて、着替えて休もう」
私とフランカは顔を見合わせ、「はい!」と返事をした。
濡れた服を着替え、髪を乾かしていた私に、ノエリアが声をかけてきた。
「ティナ。ほっぺ、痛くない?」
「え?」
心配そうに私の頬を撫でてくるノエリアに、私は困惑する。
そうして、ノエリアに頬を二度ひっぱたかれたことを思い出した。
「……あ、大丈夫です。それに、あの時叩かれなかったら、私はあんなふうに行動できなかったと思うんです。だから、気にしないで下さい」
そう言って笑いかけると、ノエリアは「そう?」と安心したように笑った。
こうして、私たちの初仕事は終わった。