三章第八話
捕虜の中でも付き合いの長い犬人すら気付いていない事だが、森妖精族の少女はフルゥスターリ語を使えない。彼女が理解し操れるのはエルフ語と大陸共通語、そして精霊魔法に必須の精霊語と合わせて三種類。
日本語に英語とドイツ語を使いこなす、と言い換えるとエルフの少女がいかに優秀かと理解し易い。それに商人でもなければ母国語での会話が可能ならば普通に生きていく分には問題もない。
そんな彼女でも間近で交わされるネームレスやエレナとユーンのやり取りは、魔物語を使っていた事を差し引いても察するのは難しい事だった。
癒しの力を振るう一角獣は、言語の壁を越えなければならない。そんなユニコーンが念話が使えるのは、ある意味必然である。
無論会話として成立させるには発信だけでなく受信も出来なければならない。ユーンと声を封じられたエルフとの間で会話が成立したのも、ユーンがエルフの思考を読み取ったからだ。
この万能とも言えるコミュニケーション力と、悪食であり時として共食いする小鬼が飢えて死ぬか食らうかと葛藤するぐらい不味い事がユニコーンの地位の確立に大きくかかわっていた。
魔物や野生の獣が余程飢えていなければユニコーンを襲うことがないのは、畏怖やいざという時に治療して貰う為の下心故でなくこの様な理由からだ。
「ユーン殿、と呼んでも?」
《……ユーンで構わぬよ、エレナ……様》
「私の事はエレナとお呼びください」
ネームレスに視線で任せてくださいと伝え、許可を得たエレナはユーンを掌握すべく行動に移る。動く石像もいるが、念のため骸骨兵長イースと枝悪魔長デンスをその場に残し、ネームレスはゴブリン族長フジャンを伴い捕虜の寝床小屋へ。
ネームレスの地下迷宮組織管理は恐怖と信賞必罰を持ってあたっていた。鞭役をネームレスが、飴役をエレナやヴォラーレが担って。
基本的に戦闘班には武具の常時提供と過不足ない食糧提供、内政班には衣類の支給と同じく食糧提供だけだが。暖衣飽食社会の常識を持つネームレスからすれば、もっと何かしらの報酬を提供せねばならないかと悩んでいた。
寒さと飢えでの死因が主な元農民からすれば、寒さを気にしなくていい住居とお腹一杯に食べれる食事環境の厚待遇を維持したいと考えても、これ以上の報酬を欲していない。領主の荘園で租税の一種として無報酬で働かなければならないのが当然、そんな少女らからすれば報酬を貰うという発想すらない。
戦闘班の内ゴブリン達には褒美として鶏肉を配給されており不満はない、そして冬の期間中は襲撃に出ない事も納得していた。骸骨兵にも何かしらの褒美を、と考えているネームレスだが、不死者である彼らへの良い褒美が思い浮かばず。
骸骨兵で唯一会話が可能なイースから要望を聞き取るも、不要との答えしかなく不満も見当たらないので後回しにされていた。
支配者としての畏怖を持って地下迷宮を、魔物を統率するネームレスは必要でなければ口を開かない。雄弁は銀沈黙は金との思惑、彼自身が持つ理想の君主やリーダー像が寡黙だが決断力があり危険には先頭に立って立ち向かうというものだからだ。
ネームレスと魔物、ひいては捕虜との認識等の擦れ違いの最大の要因がこれである。腹を割って、とまでいかずともネームレス自身がもっと魔物や捕虜と交流を持てば彼の苦悩は幾つかは解消されるだろう。
だがネームレスはエレナやデンスからの報告で満足しているので、互いの勘違いや擦れ違いが是正される事は難しい。
現代と違いネットやゲームにテレビ、読書も娯楽小説や漫画がないので息抜きらしいものが食べる事か床関連しかない。
特に食べる事に関しては、毒殺の恐れもありネームレスから食材選びに調理、配膳に給士を完全に任されているエレナが、いかに彼から信用と信頼を得ているかうかがわせられる。
配下から侮られたり舐められる訳にはいかぬネームレスと違い、飴役の役回りもありユーンの高過ぎるプライドを満たす態度や言葉使い等の譲歩が可能なエレナ。ユーンに対するそれらを己より上位者然にする事で互いの妥協点への合意を取り付ける。
具体的に言えば敬称を殿から様に丁寧語と尊敬語を使う。他にもユーンの主張を最後まで聞き、考えを否定せずにより高尚な思考になる案を加えて進言する等だ。
例えばユーンがネームレスを指し穢れた者と呼称するのを
「ごもっともだと思います。しかしネームレス様を貶めると配下であるユーン様自身を貶める事になると思いますので名前に殿を付けて呼称するようにすればもっと良いのではないでしょうか」
と、ユーンの行動を否定せずに、己の意見を最善策として示しどうするかの判断は預ける。他にも真に誇り高き、貴き者がその様な口調で良いのか、少なくとも己に課せられた義務を全うすれば敬意は自ずと集まるのではないか……。
ユニコーンの持つ読心術が表層心理だけを読む程度の力しかなかった事や、そもそもユーン自身が妥協点を模索していた事もありエレナの進言は概ね受け入れられた。ユーンもプライドを守る為には死を恐れぬが、プライドが満たされるなら特に自殺願望はない。
エレナがユニコーンの面子を立てる提案をしてくれるなら、ユーンも敗者として妥協も譲歩も十分に可能だったのだ。
エレナがユーンとの会話を通じてのプロファイリングを終え、説得というかユニコーンがプライドを維持しながら妥協出来る言い訳(逃げ道)を作るのに時間を取られていた頃、捕虜小屋内は少々重苦しい空気に満たされていた。
ぐったりと横になるナーヴァ、彼女を看病していたチュヴァとミラーシは入室して来たネームレスとフジャンを見て固まる。ノックをして「どうぞ」と返事を確かめて入ったのに凍り付く少女らに、何となく動けないネームレス、そんな彼に疑問を抱くもフジャンは捕虜に声をかける。
「ぁぅぁぅ、おかげんいかがですか?」
「あ、はい。私たち二人はだいぶ良くなりましたが……」
フジャンからの問い掛けで解凍したチュヴァがそう答え、心配そうに横になっているナーヴァに視線をおとす。ミラーシはエレナが用意した水が満たされた桶でタオルを濡らし絞り、ナーヴァの額に乗せて冷やしていた。
前に様子を見に来た時から魔物を創作し召喚、二度の戦闘(対ネームレス戦の戦闘はほぼ瞬殺だったが)等々とそれなりの時間が過ぎている。
「……火精霊の力が活発すぎますね。えっと、気休めですけどしずめてみましょうか?」
フジャンからネームレスとチュヴァらへのうかがいに、彼からは頷きで許可を得られ捕虜から「お願いします」と頼まれたので彼女はナーヴァの頭部近くに正座すると精霊に語りかけた。フジャンもユーンが力を振るえば簡単に完治するのは理解していたが小屋内、ネームレスから発せられる微妙な空気を何とかしないといけないと考えての提案だった。
「赤き精霊よ、火蜥蜴よ、どうか鎮まりたまえ。ふぇ、『だが断る!』って、あわわ、お、お願いしますよ? そ、そう言われるとあれですけど、いえ、あの、す、すみません。ぁぅぁぅ、でも、はい、ごめんなさい……」
精霊語での会話なのでネームレスもチュヴァ達にも内容は解らず、しかしフジャンの一所懸命さだけは伝わる。端から見ているとナーヴァへ必死にペコペコと頭を下げている様にしか見えないが。
フジャンは水精霊と親和性を高めた為、火精霊との相性が悪くなっていた。もともとゴブリンとして闇・土・水の属性と波長が合い、逆に光・風・火の属性とはそりが合わない。
個人差もあるし修練や習熟過程である程度は調整可能でもあるが。フジャンがナーヴァに、正確にはサラマンダーに謝り倒すのを止めたのはエレナのノック音であった。
ユーンにチュヴァ達三人の診察と治療を任せると、ネームレスは入れ替わりに小屋から出る。ユニコーンの性質上、純潔を守る乙女に害を与える事はなかろうが、一応フジャンは室内に残す。
そしてネームレスはエレナからユーンとのやり取りの詳しい報告を受ける。的確に要点を纏められた報告を済ませたエレナからユーン説得の為とはいえ、ネームレスを侮る様な発言に同意するかの様な言動を取った事、阻止力として預けられたガーゴイルを農作業に充てた事を詫びられる。
その時点でフジャンとユーンが小屋から出て来たので、ひとまず処分は保留としてネームレスは捕虜小屋から出て来たユーンに報告を促した。
《精神が弱まった事による、精霊の均衡が狂ったのが体調不良の原因だ。我が力にて既に完治させてある》
「そうか、ご苦労」
《して、ネームレス殿。我はどうすれば良い?》
説得したとエレナから報告を受けていたネームレスだが、あの短時間でこれ程までにユーンからの対応を柔らかくした彼女の手腕に舌を巻いていた。処分も考慮しだしていたが、この調子なら大丈夫だろうと指示を出す。
「ここで少女達の対応を。怪我や病気をユーンの判断で癒す様に、細かい報告や要望はエレナを通せ」
《承知。我に任せれば乙女らの安全は万全よ》
ネームレスもユーンも、まだ互いの距離感を掴めていないので緊張感は抜けていないが、農場部屋までの道中にあった一触即発の空気からは脱していた。ネームレスとしてはこれぐらいの緊張感を維持したままで、ユーンが捕虜勢と親密になってくれれば思惑通りなのだが。
寝間着から作業着に着替えなおしたチュヴァらも小屋から出てくる。同じタイミングでネブラが引率する収穫班も農場食堂から、洗濯物を終えたヴォラーレも手伝いの少女と共に最後の干す分を手に入浴部屋から出て来た。
寝床部屋から出て来ているチュヴァ達に気付いた少女らが駆け寄り、次々と声を掛けていく。ネームレスの前だというのに関わらず騒ぎになりだした為にエレナが静めようとするも、彼から手で制され口を閉じた。
心配の反動と安堵故にだろう、と「よきゃったよ」「もう大丈夫?」と抱き付いたり泣く少女達に気取られぬ様にイースとデンスを引き連れネームレスは静かに農場部屋から去るのだった。
そんなネームレスの後ろ姿を複雑な感情がこもった眼差しでエルフの少女が見送る。他にはコボルト四人組が土下座で送り出しミールが視線で追った以外、しばらくネームレスが居なくなったのに気付く者はいなかった。
ネームレスが去った農場部屋では少女達の心暖まる賑やかなやり取り以外に、ピリピリとした皮膚が焼け付く様な緊張感で張りつめた空間が作り出されている。
ユニコーン・ユーンと女淫魔ヴォラーレとの間に。少女達の賑やかな集まりからゆっくりと抜け出すユーン、絞った洗濯物が詰まった籠を手に歩き寄るヴォラーレ。
そんな殺伐とした空気に気付き固まるフジャン、慌ててネームレスとイースの姿を探すも見当たらず。この時点で既にネームレスは農場部屋から出てDM室に向かっていた。
内心でムンクの叫びを上げながら、地下迷宮最強の誉れ高い水精霊ミールに視線を移すも、マイペースに水撒き中。次に戦闘能力が高いガーゴイルを操れるエレナを見るが、少女らの騒ぎとユーン達を交互にみやるだけで動く様子がない。
ネブラは騒ぎを見ながら「良かった良かった」と瞳を潤ませているだけで緊迫感に気付く素振りはなく、フジャンからしてもコボルトは戦力外である。は、はぅ、と悲壮な覚悟を固めつつあるフジャンを置き去りに、ユーンは本日三度目の戦いに身を投じようとしていたのだった。