三章第四話
地下迷宮の主ネームレスが小鬼族長フジャンと枝悪魔次席コルジャを引き連れて、農場部屋へと急ぐ道中より詳しい報告を受けた。一刻を争う、という程の事態ではないとコルジャの報告で読み取ったネームレスは威厳を取り繕う。
ダミーダンジョンから自然洞窟偽装ダンジョンを繋げる通路がネームレスを通す最低限の高さと幅でなければ空中を飛ぶコルジャはともかく歩幅が違うフジャンを振り切っていただろう。
種族的にも小柄で消耗が激しいフジャンが遅れだし道程が暗くならなければ。彼女が持つランタンで道を照らしていなければ置き去りにしていた可能性は大きい。
何事にも動揺しない沈着冷静な主君、との演技を忘れる程に動揺した事を内心で苦笑を浮かべた。注意せねばな、と魔物達に気取られぬように深呼吸する。
そんな心配をしていたネームレスだが、フジャンもコルジャも彼の内心を読み取れなかった。彼も迷宮内だがフードを深く被り表情を隠していたし、もはや無意識の領域で動揺や驚愕といった感情を内におさえて表に出さなくなっている。
ネームレスについていくのもままならなかったフジャンは走る事とランタンで彼の足元を照らす以外出来ず。ネームレスの空気を読んでいたコルジャも、急がれている、程度しか嗅ぎ取れなかった。
ゴブリン居住区を抜ける前に、コルジャを交易路偵察に出ているインプ長デンスの交代要員として向かわせデンスを呼び戻す。内偵を含む、情報収集を担っているインプを取りまとめるデンスから事情聴取や裏を取り、情報に対する姿勢の改善等を話し合う為に。問題がなければ、だが。
続けて訓練に励む骸骨兵、訓練を終え休もうとしていたハブとディギンに完全武装の上、農場部屋前の廊下に集結を命じた。捕虜の病気は寝耳に水だったネームレスは最悪の想定として、エレナ達内政班とデンス達諜報班により情報隠蔽、反逆の可能性も考慮している。
ない、とは断言出来ないが、何の前兆もなく体調不良や病気になるとは考え難く。それらの症状に気付かないエレナ達ではない、とすると主であるネームレスへの隠蔽や情報封鎖が疑われたからだ。
ネームレス自身、あくまでも隠蔽等の疑いは最悪の事態の想定であり、蓋を開ければ己に要らぬ負担をかけぬ為の処置だろうと予測している。それでも、万が一を考慮して内政班を処分する為に戦力を用意した。それだけの為の戦力集結ではないが、殲滅も想定している。
彼が現状知り得た情報だけだと判断が出来ない。その為にデンスを呼び戻したのだが、帰還までそれなりの時間が必要だ。
時間を惜しんだネームレスは思い浮かぶ様々な事態へ対抗策を準備して、急ぎ農場部屋に足を踏み入れたのは普段ならば捕虜らが朝食を終える時間帯だった。
捕虜をとりまとめていた三人、チュヴァにミラーシにナーヴァが体調不良で休まされ、彼女達の心配や不安でインファら年少組もブリザを始めとした十歳前後の少女達も動揺が酷い。
仕事になるまい、と食堂に集められた捕虜の少女達、そんな彼女らからの信用が厚いエレナやネブラ、無口な水精霊ミールや森妖精族の少女も協力して慰めていた。
ネームレスが農場部屋に訪れたならば真っ先に飛んで来るエレナも、少女らの慰めで離れられず彼とフジャンに出迎えはなかった。農場部屋詰所で待機していたインプと話をして、食堂に集まっていると聞き出したネームレス達は詳しく状況を知るべくエレナから話を聞く。
「はい、ネームレス様。チュヴァ達歳嵩の少女らの体調不良は目についておりました。犬人やチュヴァらより幼く抵抗力の弱い少女は健康に異常がなく、伝染病等ではないと判断して、様子見をしておりました」
病状等を他の捕虜に聞かせるのも重症だったりした時は余計に動揺等が酷くなるかも知れない、と農場食堂から捕虜小屋前に場所を移して。
「ネームレス様の御慈悲で仕事が少なくなっておりましたので、ご報告するまでもなく回復するかと思っておりましたが……」
ネームレスはフードの下で目を光らせ、エレナを注意深く観察しながら話を聞き、発言に矛盾点や違和感がないか、偽りを告げられていないか考察する。
「人間族の体調を詳しく知りもせず、ネームレス様への報告も相談もしなかったのは私の失態です」
如何様な罰でも、と首を差し出すエレナの会話中の表情や態度の移り変わりに嘘偽りは見当たらず、現段階では二心なしとネームレスは判断するとナーヴェ達の症状への見解と対策案を聞く。
「仕事が減らされた事を、自分達がやくたたずだと処分する前準備ではないかと思い込んだようで。私やネブラ、ヴォラーレでそんな心配はない、と言い聞かせたのですが、疑心暗鬼の根が深く。思い悩むあまり体調を崩したようで。ネームレス様から直接言葉を頂ければ、症状も治まるのではないかと愚考し、お忙しいのを承知しておりましたが」
エレナから必要な話を聞き取ったネームレスは彼女を食堂へと戻し、精霊魔術師でもあるフジャンに診察や治療は可能かと問う。
「ぁぅぁぅ、よほど熟練した精霊使いでなければ病気の治療は出来ません。私には無理です、ごめんなさい、ネームレス様」
しょんぼりと答えるフジャンにネームレスは「気にするな」と慰めると、ひとまず休んでいる少女らの状態を確かめるべく捕虜小屋へノックをし、「私だ」とだけ告げて待つ。
これが配下の見舞いならば、大丈夫かとか、調子はどうだ、と言葉を繋げるのだが、捕虜のようにつけあがらせたり、ネームレスへの畏怖を薄れさせないようにせねばならない相手だと下手な事を言えない。
となれば雄弁は銀、沈黙は金とばかりに徹底的に言葉を削り喋らない方が良い、と考えたネームレス苦肉の策である。
ノックが響いた捕虜小屋内では、ヴォラーレがチュヴァ、ミラーシ、ナーヴェの三人を作業着から寝間着に着替えさせたところだった。
小屋内に戻しても、大丈夫です、働けます。と、休もうとしない三人を得意の口車に乗せて宥めながら不安を煽るという一見矛盾した事を働いていた。
ヴォラーレが裏なく、純粋に体調を気遣って休むようにすすめていれば三人も素直に横になっていただろう。そう、体調を気遣いながらも、別の心配がある。でも口に出せば余計不安にさせるだけだから黙っていましょう。という素振りがなければ。
口に出さないが、態度に表れているので、結果遠慮というかチュヴァ達も故郷ではこれぐらいの体調ならば働いていたので仕事に出ようとして押し問答になってしまう。
無論、ヴォラーレは全て計算の上での態度であり、三人の反応も予想通りである。例えば「休んでも大丈夫よ」この台詞、言葉だけならば問題ないが、「休んでも」の部分で視線を泳がせ「大丈夫よ」で眉間を寄せて微かに震える声で告げられば安心などできるはずもない。
後々を考えて捕虜を言葉では追い詰めていない、ネームレスやインプに直接・間接で聞かれたとしても問題にならない台詞を使用している。あくまでもニュアンスや視線、表情で疑心暗鬼に陥れているだけだ。
ネームレスが疑問を抱き調査してもエレナやヴォラーレの責任を問える証拠は残していない。疑惑は残るだろうが、すぐさま処分される事はないとヴォラーレは見ていた。そして、即処分されなければネームレスの疑心を晴らす事は可能だ。
たとえ何らかの拍子でヴォラーレが立案し、エレナを引き込んだこの捕虜調略とその全容がネームレスの知るところとなっても厳罰はあり得ないとも確信している。
故にヴォラーレはネームレスのフードで隠された内面を気にする事なく、小屋のドアを開け彼が何らかの反応をあらわすより早く土下座して額を地に打ち付けながら三人をかばいだした。
「ネームレス様! どうか、どうか、御許しを! チュヴァもミラーシもナーヴェも良く働いてくれていますっ。少し休めば過不足なく動けるようになります、それまでは私が三人の仕事も何とかしますので……」
相手の不意を打ち主導権を握る。これは戦いにおいての定石であり、直接剣を交える戦闘から言葉を交える交渉まで有効な手だ。同じ小屋にいた三人や、騒ぎに気付き食堂から出てきた少女に仕事をこなしながらも注目するコボルトと捕虜達の意識をネームレスとヴォラーレのやり取りに集束させて謀略の狙いである好感度を稼ぐ効果を最大限にすべく手を尽くす。
ネームレスの少し黙れという空気を承知の上で喋り続け、捕虜内の不安を煽り緊張感を高める。さすがに三歳や四歳ほどの幼少組には難しい事や裏を読む事は出来ないので、何か悪い事がおこるのかと不安を煽るだけで終わった。だが、他の少女らにはある程度の事情を想像させ、顔色を悪化させたり吐き気を催したりしている。
ヴォラーレは狙い通りに農場部屋の注目を一身に浴びながら、表面上は涙を流しネームレスに綴り、捕虜達のありもしない処罰を必死で諌めて、その場の空気を支配していた。
エレナと違い、何も認知させていないネームレスの言動をコントロールするべく策を弄するヴォラーレだった。
立て板に水の勢いで喋るヴォラーレを前にネームレスは思考を加速させ考察を深くする。彼女は何故こうも喋り続けるのか、自分が命じてもいない捕虜の処分について言及する理由は? ヴォラーレの狙いが判断出来ない以上、まずは……
「……彼女達の働きも、ネームレス様への忠節もう「黙れ」……はい、ネームレス様」
時間を稼ぐ。他人の思惑で勝手に踊らされる事に強い嫌悪感を持つネームレスは――その為にならば人間の最大級の禁忌である殺人も辞さない――ヴォラーレの言動から己から特定の言葉を引き出そうとする、利用しようとする意思を感じてその口を閉じらせる。。
様子を伺っていた少女らの少なくない人数がネームレスの声にふくまれた怒気に腰を抜かしてしまう。必死に自分の口をふさぎ嗚咽をもらさぬようにしながら号泣、両手で頭を庇い亀のごとく縮こまる、茫然自失となる等のありさまに少女達を突き落としたネームレスの覇気にさすがのヴォラーレの良く回る舌も凍り付く。
「何時まで遊んでいるつもりだ」
ネームレスとヴォラーレのやり取りに注目していた捕虜達を一喝、エレナとネブラが慌てて指示を飛ばし仕事を振り分けていく。
チュヴァら小屋内の少女も再び作業着に着替えようと寝間着を脱ぎ出しヴォラーレが口を開きかけるが。
「そこの三人は話がある。ヴォラーレは向こうの手伝いを」
「ネームレス様?」
「フジャンはついてこい」
矢継ぎ早に命令を飛ばし己も素早く行動する事でネームレスは困惑するヴォラーレを置き去りに、彼女が握っていた場の流れを強引に断ち切り、自分の物にしたネームレスは見ただけで不調が解るチュヴァ達を休ませる為に彼の怒声で腰を抜かしていたフジャンの襟首を掴むと引きずって捕虜小屋に入りドアを閉める。
ヴォラーレは、え、ここは私の言葉を否定して心配いらない処分するつもりはない、と優しく言い聞かせる場面でしょう? と呆然とネームレス達が入っていったドアを見詰めて呆けていた。
恐怖で動きが鈍い少女らに仕事を割り振りながら内心で流石はネームレス様と恍惚としているエレナ、「大丈夫だよ」と慰めまわるネブラ、エルフの少女も恐怖で泣きながらも嗚咽を堪えるインファを抱き締め背中を擦り慰めながらも鋭い視線をネームレスらが入った小屋に注いでおり、その様子をミールが普段通りの無表情でながめているといった混沌とした様子を見せていた。
一方、ネームレスが入った捕虜小屋内は暖房が効いているはずなのに冷々とした空気で沈黙に支配されている。それらに加えて多大な精神的な負担でナーヴァは激しい嘔吐感と意識が飛びそうな目眩で立っていられなくなり両手を床につく。
チュヴァとミラーシも己の顔色を悪くさせネームレスの様子を伺いながらも慌ててナーヴァの背中を擦ったり、膝枕で休ませたりする。フジャンは猫の子よろしく襟首を掴まれたまま「きゅっ」と目を回し、ネームレスはチュヴァ達の己へ向けれる畏怖の視線を感じながら早く休ませる為に口を開く。
「……冷水を扱う仕事は?」
重苦しい空気を打ち破りネームレスが少女らに語りかけた。チュヴァとミラーシは顔を見合せて視線で会話すると代表してチュヴァが返事をする。
「畑に水を撒くぐらいです。あの、洗濯は温泉の湯を使って良いとエレナ様から……」
チュヴァの声は恐る恐る答えるあまり語尾がかすれてしまう。
「疲労が抜けきれぬ程の仕事量か?」
ネームレスが小屋外と違い何の感情も含ませない平坦な声で問い掛けるので、チュヴァもまだ返事が出来た。それでも、この質問にはなかなか答えられず。
そんな事はないと言えば手を抜いているととらえられかねず、無理をして働いていますとすると偽りを告げる事に。
「いいえ、良くして貰ってますので」
ただの村娘であるチュヴァではこう答えるのが限界だった。この後も食事や、はっきりと言えばエレナ達や捕虜内で虐待がないかとネームレスは慎重に言葉を選び事情聴取を重ねた。
雇用者側(支配者)であるエレナからの報告だけを判断材料としない為、また途中で情報操作されぬようにとネームレスが直接聞いている。
結局はエレナの報告と変わらない内容であり、ネームレスでは少女達の体調不良と言うか病気の原因は検討がつかなかった。過酷な扱いによる疲労でもなさそうだし、人間関係等のストレスでもなさそうだ。
だとすると病原菌やらが、だが彼女らより抵抗力や体力が低い年少の少女達が健康体である矛盾が出るな、とネームレスは病原菌説を却下する。病気のメカニズムが自分の持つ知識と根本的に違う可能性すらあるが。
「とりあえず休んでいろ、そんな体調では効率も悪かろう」
「お待ちくださぃ」
必要な事項は聞き終えたとネームレスはフジャンと共に小屋から出ようとすると、看護されて喋れる程度には回復したナーヴァが呼び止めた。
「何だ?」
ネームレスは、死にそうな顔色で汗を流しているんだから横になって休んだ方がいいですよ、と気遣う台詞を飲み込み、声色も優しくなりそうなのを態と冷たい物にして内心を悟らせぬ為に短く返事をする。
「だ、大丈夫です、働けます、何でもできますから」
「休め、と言った」
冷徹に言い捨てるとなおも言い募るナーヴァを振り払い小屋から出ていくネームレス、彼のロープを掴もうとしたナーヴァを取り押さえたチュヴァとミラーシにフジャンだった。
泣き崩れるナーヴァを慰めるチュヴァとミラーシ、そんな三人にフジャンが遠慮がちに告げる。
「ぁぅぁぅ、あの、大丈夫ですよ、ネームレス様は病人が出たと聞いたら、その、急いで、ひぃっ」
フジャンはナーヴァに幽鬼のごとき表情で見詰められてを腰を抜かす。ぁぅぁぅ、だいじょうぶれす、もれてません、と内心で呟き蛇に睨まれた蛙の様に硬直する。
「ナーヴァ、おさえて!」
「そうよ、ナーヴァ、今は休んで早く体調を戻さないと!」
二人がナーヴァを宥めて、視線が外れた瞬間、「おらいじにっ」と叫ぶと気持ちは脱兎の如く、実際ははって亀の如く逃げ出したフジャンだった。