二章第三十話前編
ネームレスが地下迷宮に帰還したのは、襲撃に出立した次の日の夜遅く。捕虜の少女らのお喋りも疾うに終わって夢の世界へ羽ばたいている時間帯だった。
伴うのは出立時に率いていた魔物の内、小鬼族長フジャンと枝悪魔コルジァ――声が良かった為にデンスに次ぐ副手を任じられている――の二体だけという少数で帰還した。
フジャンはゴブリンが帰還後の増員計画の打ち合わせの為に、コルジァは緊急時の伝令と上空からの偵察を兼ねて。骸骨兵長イースを含む骸骨兵十一体と、ゴブリン九体は傭兵団からの略奪品の運搬を。デンス達インプ四体は偵察を兼ねた見張りに、ランは焚き火跡や足跡等の痕跡を可能な限りの隠蔽を命じて置いて来た。
「明日はゴブリンの増員に向けた会議をする」
「はい、ネームレス様」
地下迷宮出入口にコルジァを見張りとして配置し、ゴブリン居住区にてフジャンと会話するネームレス。
「今宵はもう休め」
「はい、ネームレス様」
フジャンからランタンを受け取りネームレスは予定を告げる。この時、もしフジャンが平常心ならば、ネームレスにランタンを持たせる事などせずに、執務室や食堂まで送る事を申し出た。
だが、ネームレスから抱き締め慰められてからフジャンは一種の興奮状態――酒を飲んで酔っぱらった様に朦朧とし地に足がつかない様な不安定感――に陥っており、無意識にランタンをネームレスに渡してしまう。
「……また明日な」
「はい、ネームレス様」
深く被ったフードで隠されてネームレスは確認出来なかったが、フジャンは潤んだ瞳に情念が浮かび、頬や首筋をうっすらと赤く染め、可憐な唇を何度も舐めていた。
頭の中は抱き締められて囁かれた時の状況を何度も思いだし、うっとりとした酩酊感に酔っておりネームレスへの返事も上の空。立ち去るネームレスを見送り、彼にランタンを渡してしまった失態に顔色を悪くして、「はぅ、ぁぅぁぅぁぅ」と奇妙な踊りを披露するまで暫しの時を有した。
鈍い返答等のフジャンの態度も初陣や先程の泣いた事による疲れからだろう、と流したネームレスは足早に地下迷宮を進み、演習場である大部屋の隠し扉を抜け噴水部屋へと続くドアを開く。
「お帰りなさいませ、ネームレス様」
「出迎え、ご苦労」
美しい跪礼をとるエレナの出迎えを受けた。今回は時間が深夜である為かエレナただ一人での出迎えだが、ネームレスは特に気にせずに足を緩めて進む。
「本来ならば留守役一同でお出迎えせねばならぬ場面ですが、どうか御許しくださいませ」
「問題ない」
エレナは何時もならばポニーテールの髪型が縫い上げらた夜会巻きである以外、頭の天辺から足の爪先まで完璧に整えられた普段通りの侍女服姿だった。
捕虜に寝間着を支給した時にエレナやネブラ、ヴォラーレにも与えてあるので、この時間ならばパジャマ姿だったろうにとの疑問等を飲み込むネームレス。
伝令も出してないのに、や、もしかして着替えずに徹夜で待っていたのか等、疑問は多いが、エレナだからな、で片付けているネームレスだった。
「無理せずに休んでも構わんぞ」
「はい、ネームレス様。されど主人を誰一人出迎えせぬなどの非礼はできかねます。御言葉に反する事、御許し願い申し上げます」
ネームレスの性質から出迎えの不要、故に叱責はないと判断していたエレナは、ネブラとヴォラーレに声をかけずに単身で出迎えたのだ。
「入浴部屋を使う」
「承知しました。着替えをお持ちします」
農場部屋出入口で別れるとネームレスは部屋奥の入浴部屋に、エレナは寝室に着替えを取りに向かうのだった。
入浴部屋は湯気が立ち上ぼり硫黄の匂いに満たされた部屋だ。入ってすぐに脱衣場として使われている間があり、大きな籠に汚れた衣類が容れられていた。
衣類には下着も含まれており、男物というか自分の衣類が混ざったら嫌だろうとネームレスは脱いだ物はその場に放置する。着替えを用意したエレナが片付けるだろうと。
かけ湯を浴び、湯に浸かる。捕虜やエレナ達用に創作された入浴部屋は露天風呂風な造りであり、洗い場と浴槽しかない。タオルやバスタオルは洗濯物入れ籠付近に別の蓋のある籠に容れられていた。
入浴部屋を初めて使うネームレスには見分けもつかず、かといって女性用に近いこの部屋を探索するのも気が引けて、またまたエレナが来たら用意させるかと丸投げが続く。
ゴブリン達が使う入浴部屋は施設拡大されてないので、洗い場がなく浴槽も十人程しか入れない広さだ。十人も入れれば十分だが、ネームレスが浸かっている浴槽は二十人は余裕で入れそうな程広大な為に比較すると、相対的に十人程しかとの評価がくだされる。
ネームレスが普段使用する風呂は個人用の小さな物でバスとトイレがカーテンで仕切られている程度の広さしかない。その為、手足を気がねなく伸ばせる入浴は久々だ。
「失礼します。着替えをお持ちしました」
音も気配もなく何時の間にか部屋に居たエレナが声をかける。ネームレスが脱ぎ捨てていた衣類は既になく、手には着替え一式にタオルとバスタオルが。
「ご苦労。置いておいてくれ」
「畏まりました。宜しければお背中を流させて頂きましょうか?」
ネームレスは柔らかい表情で訪ねるエレナに、優しい表情と視線を作って
「……肌は磨いておいたか?」
出立直前に交わした約束を持ち出す。その瞬間まで完全な従者としての立ち振舞いだったエレナは頬を染め、瞳を潤わせて視線をおとす。
「はい、ネームレス様。お言いつけ通りに」
その返事には命じられた事を完遂した誇らしさと羞恥、微かな期待を含んでいた。
「ここは良い。軽い夜食を用意して寝間着に着替えて寝室に、な」
「……承知致しました。寝具を暖めてお待ち申し上げます」
着替え容れの籠に手に持っていたネームレスの衣類等を入れると、洗濯物を容れた籠を持ち部屋から出るエレナ。嬉しそうに部屋から出た彼女を見送ったネームレスは自信があるも優しげな表情から、無表情になり内面を悟らせない様に気を張る。
体よくエレナは退出させたが、もしかすれば地下迷宮に残していたインプが側で控えている可能性があるからだ。
これはネームレスの考え過ぎで、留守役に残留していた二体のインプは捕虜の寝床小屋と農場部屋の詰所で待機していた。その事は報告され知ってはいるが、インプが気をまわして、或いは害意を持って無断で潜んでいる可能性を考えているネームレスは気を抜く事は出来なかった。
魔物の裏切りや反逆は最初期から想定していたネームレスだったが、中鬼オクルスの唐突過ぎる反逆が強い疑心暗鬼を呼び起こしていて、疑いすぎだと思っていても警戒心を解けないでいる。
それでも魔物達にその強すぎる警戒心等の内面を悟らせない演技力は感嘆に値するが、常に張り詰めている神経は確実にネームレスの精神を蝕んでいた。
身体の芯から疲れが湯に溶け消えていく様な感覚を味わい、緩みそうな表情に気をつけながらネームレスは思考に耽る。今回の襲撃で新たに二十九人の命を奪い、前回と合わせれば三十五名と立派な大量殺人者だ。
直接手にかけたかどうかは関係ない。殺す為に魔物を創作し、殺す為に訓練を重ね、殺す為に地下迷宮から出たのだ。
奴隷商を、護衛を、傭兵を。父だったかも知れず、息子だったかも知れず、兄弟だったかも知れず、愛されていたかも知れず、憎まれていたかも知れぬ人間を。
己の明日(未来)の為に、彼らの明日を踏みにじったのだ。奪った明日だけではなく、それに連なる存在達の明日を奪うと承知したうえで。
積み上げられた死体のうえに築かれた、怨恨と慟哭にまみれた明日だったとしても。誰かに何かに利用されただけで、好き勝手されたままで終わるのは嫌なのだ。
理不尽に奪われる嫌悪と憤怒を理解しながらも、他者にそれを強いた己に弁解は許さない。奪った明日からの復讐が来ても踏破し進まねばならない。
死にたくないとの我欲にて奪った己は、大義を揚げず、誰に許しを乞わず、何の理想も理由にせずに。それがどうした、と傲慢不遜に笑って進まなければならない。
奪った命に意味を持たせる為に。