二章第二十九話
壊滅した傭兵団から略奪した物資の多くが水を保存した水樽だった。成人した人間なら水分を一日に二〜三リットル摂取する必要があり、これが馬だと最低四十、荷台を引かせる等の負担をかけていれば八十リットルは与えなければならない。
井戸や川で補給するにしても地理的な条件もあれば、時間的な理由もあり常に補給出来るとは言えず。その為に荷物の比重の多くを水とせざるえない。
ヌイ帝国やフルゥスターリ王国の水質はほぼ同質なので問題は少ないが、水質に大きな違いがあれば飲み水の確保に苦労しただろう。地球の欧州方面でワインやビール等の酒類が発達したのも水質的に生水での摂取が難しかった事が大きい。
失われた記憶に含まれなかったこの現代知識から、大量に積まれた樽を見てビールとは言わないがワインなりエールなりの酒樽がないかと期待したネームレスが全ての樽を調べさせたのは致し方ない事だろう。
エレナから地下迷宮製のワインやビール類の開発途中経過は報告を受けていたが、完成までまだ期間が必要で口に入れるのはまだまだ先だと認識していたネームレス。
小鬼達の働きに何かしら報いてやりたかったネームレスは酒があればと期待したのだ。無い物ねだりしても、と酒の変わりに死んだ馬を食べる事を許した。
日も沈み暗闇が支配する夜、帝国と王国を結ぶ交易路近くの森奥、ネームレスが第一簡易拠点と名付けた場所に幾つかの焚き火が明かりをうんでいる。
血抜きし解体した馬を焼いたり煮たりする為の物で、ゴブリン達が六頭の馬を調理していた。中には生で貪っているゴブリンも居るが他の食感や味を求め、ネームレスから許可を貰い火をおこしたのだ。
時々舞い戻る枝悪魔達にもお裾分けしながら、勝利を祝い、生き延びた事を喜び、楽しげに笑い、食らう。
「馬肉美味しいです。うまうま、馬だけに!」
そんなゴブリン達の中で一際賑やかなのは、焚き火であぶり焼いた馬肉をかじりながらどや顔を決めるハブだ。
「俺、上手い事を言った、馬食いった!」
再びどや顔を決めるハブ、同じ焚き火を囲むディギンは調理に集中しているふりをして相手にしていない。先程まで同じ焚き火を囲んでいたアブアブは他所に移り、ディギンは無駄かも知れないが全力で他人のふり中だった。何故ならば……
「……何あのハブのどや顔?」
「ほおっておきなさい、何時もの事」
少し離れた場所で同じように焚き火を囲むゴブリンらの視線と聞き取れないが会話の内容を想像してだ。
計画段階で死傷者が出る事を覚悟していたネームレスは、襲撃前に士気高揚と生存率を高める為に子作りの解禁を約束した。
繁殖力の強いゴブリン達はそれ故に性欲が凄い。妊娠による戦力低下を嫌い禁止を厳命していたネームレスだが、創作に頼らない戦力増強の試みも兼ねて解禁を約束。
優秀な次代を望むのは生物として当然の選択であり、弱肉強食で女性上位の魔物社会。性交の相手を選ぶ権利は女性側にあり、男性側は強さや賢さ等をアピールして待つしかない。
ハブの発言も女性陣への求愛行動なのだろう。女性陣の評価は、というと
「で、誰からって、ハブとディギンしかいないけど抱くとしたらどっち?」
ハブ達とは別の焚き火を囲むこの集団はアブアブを始めとした若手ばかりの四人組だ。何かを大声で叫んでは、どや顔をするハブをチラリと見遣り。
「キモッ、ないない。ハブの子種で孕むなんてないわー」
「そう? 男は馬鹿なぐらいが可愛くない?」
「あんた趣味悪すぎよ。あの抜けた血が子供に移ったらどうすんのよ?」
「肉の壁として使いますが何か?」
例え血を分けた、腹を痛めて産んだ子供とて弱者には容赦がない魔物社会では普遍的な考えであり、発言した彼女が特別冷酷だという訳ではない。
ダンジョンマスターという強力な後ろ楯、安全で風雨を凌げる寝床や上質な食糧を十分な量提供されるネームレス配下のゴブリン達は心理的な余裕もあり優しいぐらいだ、魔物的になら。
ラン達先達組から聞いた話や今回の襲撃で親分であるネームレスが、ゴブリンを捨て駒や磨り潰す気がないのを感じ取ったゴブリン達は忠誠心を新たにする。ネームレスの思惑通りに。
だがこの場に株を上げたネームレスとゴブリン族長フジャンの姿はなかった。賑やかなゴブリン、周囲の偵察に飛び回るインプ、物資運搬を黙々とこなす骸骨兵、それらを置いてネームレスとフジャンは地下迷宮へと一足先に帰還の途についていたのだった。
※ ※ ※ ※ ※
襲撃前に、そして休憩時にと続けざまに醜態と失態を晒したフジャンはランタンを片手にネームレスを先導して地下迷宮に戻っている。内心で酷く落ち込みながら。
これがネームレスなら虚勢でも表に出さずに他人に気取られる様な事はない。だが、フジャンはそこまで気が回らず、俯き加減で猫背になり歩く。
その歩みは慎重に上下左右前後を確認してであり、背後にネームレスが居るかと何度も振り返り。風が枝を揺らせば悲鳴をあげそうなのを堪えこれ以上の不興を防ごうとしていた。
行きは良かった、人数が多く上空からの偵察もあり不安などなかった。ごめんなさい、嘘です、内心恐怖に震えてましたけど痩せ我慢してました、と心の中のネームレスに懺悔するフジャン。
漆黒に染められたローブにフードを被り、武器としての重量と耐久性がある杖を手にするネームレス。
その杖を見ながら
(百叩きは嫌れすぅ、む、鞭なら……やっぱり無理ですぅ、駄目ですぅ、ゆるじでぐぅじゃざいぃいぃぃ!)
あの食事休憩後から指示以外口から出さないネームレスに、恐怖と最悪に転がり落ち続ける逞しい想像力にとうとう滂沱の涙を流し足を止めてしまうフジャン。
一方のネームレスはフジャンが想像している程、彼女の失態や醜態を問題にしていなかった。というか既に彼の頭からは消え去っている。
フジャンの気持ちが理解出来るし、彼女が慌てふためく様は逆にネームレスや他ゴブリン達を落ち着かせる効果が見られたからだ。
フジャンの失言も勝利で浮かれていたからだろう、と流していた。ネームレスからすれば今日の戦果や死傷者が皆無な事に比べれば問題にする事が愚かしい事だと判断したからだ。
骸骨兵には荷物運搬、ゴブリン達には宴会後に可能な限り痕跡を消し去りながらの帰還を命じてある。
冬の間はインプの偵察以外は外出を禁じ、ゴブリンの受胎による増員と戦力化育成期間とする予定だ。ゴブリンの妊娠期間は約二十日、成体への成長に必要な期日は約五十日と人間に比べると短すぎる。
これだけの勢いで増員するならゴブリンが世界を制しそうなのだが、狩猟民族的な性質が強く基本的に生産性が皆無なのだ。つまり狩りや他者から奪う事でしか食糧を得られず、常に他種族や同族と争っている状態で数を増やしきれない。
奪ったり狩ったり出来なくなると壮絶な共食いが発生してしまうのも覇者となり得ない要因である。この様な要因で女性上位社会、即ち数が減ろうが母体さえ在れば短期間で部族は復興可能な為に種馬となる雄個体以外の母体(女性)の権威が強くなるのだ。
もっともネームレスがフジャンやランからの聞き取り調査で知り得たのは妊娠期間と成体までの必要期間だけだが。フジャンの先導で地下迷宮への帰還中も様々な懸案に耽っていたネームレスは、フジャンが泣き出したあまり足を止めた事に暫く気付けなかった。
フジャンがネームレスの気分を害せぬ様に声を押し殺していた為でもある。気づけば目の前で見た目が美幼女が膝を付き全力全開で声を殺して泣いているという意味不明な事態にネームレスが困惑のあまり茫然自失となったのも致し方ない事だろう。
だか、ネームレスは茫然自失から素早く立ち直るとフジャンに優しく声をかけ、号泣の原因を探り解消しようと試みる。フジャンが成体、大人のゴブリンだと理解していても外見が七歳前後の幼女の姿だと、どうしても対応が子供相手然となる。
子供が涙を流しているのを無視出来るほど情が薄い訳でもなく、それ以前にフジャンの創造主であり主君であり上司であるネームレスが黙殺して良い状況でないが。
結果ネームレスはフジャンを抱き締めて慰め、彼女も無意識に彼の首にしがみつく。そのまま優しく背をトントンと叩きながら抱き上げ、上空で待機していたインプに視線と片手で指示を飛ばし焚き火を準備させ休憩に。
フジャンが泣き止むまで無言で抱き絞め慰めた。捕虜の子供達を見て気付いていたが自分は幼子が嫌いではないのだな、と内心で苦笑いを浮かべるネームレス。
現代日本とは状況が違うと思えど、痩せた体躯や荒れた手肌に胸を痛めた。人殺しが心を痛める等笑止と己を嘲笑ったが。
会話が可能な程に落ち着いたフジャンの途中途中でつっかえ、しゃくり止まる言葉から、彼女が今日の失態や醜態からの叱責や処分を恐れてとの事だと解る。
フジャンを首にしがみつかせたままネームレスは反省していた。襲撃前の独り言や休憩時の発言を黙殺する事で問題にしないと意思表示していた積もりだったが、フジャンには正確には伝わっていない事に気付かなかった自分を。
ネームレスは自分が魔物達に示している態度が擬態であり、簡単に剥がれるメッキだと考えている為に馬脚をあらわさない――化けの皮が剥がれぬ――様に必要最低限の発言しかしない様に注意してきた。
今までそれで問題がなかったのはエレナやデンスといったネームレスに接する機会の多い存在が察しが良かった為だ。逆にそういう能力の低いゴブリン達とは襲撃がなければ会話すらないのが常だった。
その為に、これぐらい言わなくても解るだろう、と説明等がおざなりだったとフジャンの言葉で思い知らされたネームレス。
「フジャン、心配しなくて良い。処分する気はない」
「ひ、ひょんとうでしゅか?」
内心の苦い思いが声色に出ない様に殊更に優しい声でフジャンに語るネームレス。
「本当だ。ただフジャンもゴブリンの長としての自覚を持ち……」
許すが今のままではまずかろう、ネームレス自身の反省を兼ねてフジャンに訓示する。彼女を首にしがみつかせたままなので、自然にフジャンの耳に囁く様に。
一心に泣いていたために現状の認識に欠けていたフジャンは、許されたとの安堵と共にネームレスに抱き抱えられて首にしがみついている事に気が付いてしまう。
「はぅ、ぁぅぁぅ」
「……難しいかも知れないが上位者として……」
生誕して十一日目だが成体しているので子を成せるフジャン。同族でないとはいえ異性に抱き締め、抱きついている現状に真っ赤になり羞恥と甘酸っぱい感情にネームレスの言葉が右から左に通り過ぎていく。
首にしがみつかれたままのネームレスはフジャンの様子に気付かずに、主君として未熟な自分がフジャンに訓示するなんてとの思いながら続けるのだった。
※ ※ ※ ※ ※
「何故でしょう? ネームレス様に良からぬ虫が付いた様な気が?」
「せ、先輩! と、とととととりあえずおちついてそのほうちょうをおいてくださいませぇ!?」
何処かの地下迷宮の農場部屋にある食堂のキッチンでとあるホムンクルス達の会話である。