二章第二十六話
農場部屋食堂のキッチンで上機嫌に鼻歌を歌い、踊るように調理するホムンクルスのエレナ。
捕虜への懲罰以外の対応、農場部屋の作物育成や貯蓄品の決定等をネームレスから全権委任されている彼女。
今日まで従順で懸命に働いている捕虜達に報いようと急遽、夕食のメニューを増やし手間隙をかけて作っている。
ネームレスから夜伽を命じられる前は、不平や不満も見られないので、飴は必要ないと判断していたのだが。
「早く夜にならないかしら」
今日このよき日を祝い、幸福をわかち合わなければ、と夕食を豪華に。
報告を終えたらネームレス様をお待たせせぬ様に素早く入浴を済ませて、でも失礼のないように時間をかけて肌を磨くべきかしら?
淀みなく手を動かしながら料理人ならではの並列思考で、冷蔵庫の中身を思いうかべ、それらから作れるメニューを決め、入浴の事を考えて、同時にいくつもの思考を進めるエレナ。
昼過ぎに起きた事件、ネームレスによる動く石像御披露目と戦力の誇示。
元農民の少女やコボルト達の殆どは、その意味を理解出来なかった。
捕虜達への威嚇である、と察しがついたのは、エルフの少女、コボルトのバーナード、そして人間族のナーヴァら三名のみ。
森の防衛の為に男女関係なく戦士としての教育を施されるエルフ、奴隷商の下で虐げられながらも護衛から知識を盗んだバーナード。
そして村の領主である騎士候、その息女の遊び相手として側仕えしていたナーヴァ。息女への教育を側で見聞きして覚えた知識で、威嚇だと理解出来たのだった。
地下迷宮生産施設である農場部屋。
広大な農地には人参、玉葱、薩摩芋……と様々な種類の野菜畑。大麦と小麦の麦畑に丸々と実った葡萄や林檎の果樹、月桂冠にローズマリー等のハーブ……
ウウゥル大陸の地上では見られない、異世界地球にて生み出された品種ばかりである。
過去他の地下迷宮で発見されたこれらの作物や家畜、あまりにも美味だった故に、地上でも作れないかと、ある国が膨大な国家予算を費やして研究するも、地下迷宮以外での育成は不可能と判断されるにとどまる。
その農地を含む地下迷宮は、心臓部である魔石を持ち去ると十日もかからず消滅してしまう。
こういった事情で希少な為、地下迷宮で採取された作物や家畜は、地上では莫大な値で取り引きされ、これら専門の探索者すら存在する。
ネームレスに捕らえられ、農場作業員として使われているチュヴァや森妖精族の少女達、バーナードら犬人が毎日三度与えられている食事。
内容は貧相だが何気に裕福な王候貴族でもなかなか味わえない美食だったりする。
そんなある意味贅沢な食生活をしている捕虜達。その日の夕食は地下迷宮初日に出された以来の豪華な料理だった。
鶏肉、じゃがいも、人参、玉葱がたっぷり使われたシチュー、葡萄と林檎のジャム、大麦とホップで作られたビール、大麦とハーブで作られたエール、ワイン……
ワインやビールは試作品段階の物で、熟成期間も短い等で味の方もちょっと、だったりする。故にネームレスの食卓に上げれる質ではない。
とエレナは判断したのだが、少女達からすれば今まで飲んだ事のない上等な品質である。コボルトからすれば初めての酒なので味やらの違いは解らないが。
「本日視察されたネームレス様よりの御慈悲です。偉大なるかのお方に感謝を捧げて食べるように」
本当ならこの様に発言したいのだが、鞭役はネームレス、飴役はエレナ達、との指示があるので
「皆さんの働きで作物も豊富に実り、収穫も順調です。労をねぎらう為にささやかながら宴の用意をしました。遠慮無用です、楽しんでください」
このエレナの発言をヴォラーレが訳して夕食は始められた。
美味しい料理にお酒と昼間の恐怖も忘れ、賑やかに楽しむ少女やコボルト達。
上機嫌に世話をやくエレナ、そんな彼女を内心で訝しむヴォラーレ。エレナをネームレスに抱かせる為に、彼の目であり耳である枝悪魔の長デンスに根回しをした。
だが昨日の今日でネームレスが動くと思ってもいなかったので、何事かと頭を悩ませている。下手にエレナを読み間違えると色々と危険な気がするから。
ヴォラーレからすれば根回しは最初の一手であり、二手、三手と手を打たねばネームレスは動かない、と予想していた為に、それ以外でエレナが上機嫌になる理由が思いつかず。
表面はにこやかに甲斐甲斐しく少女達の世話をしながら、内面で必死にエレナをはかっていたヴォラーレを置き去りに宴は終わりを迎えたのだった。
捕虜達を寝床に返し、エレナとネブラのホムンクルス組と女淫魔ヴォラーレがキッチン内で洗い物を。
水精霊ミールと住居精霊リーンの精霊組が食堂の掃除を、と手分けして片付けしている。
キッチンは基本的に成人した人間が使う事を前提にした作りなので自然とこうなるのだ。
「先輩、とても機嫌が良いようだけど、何かあったのかい?」
調理時から続くエレナの上機嫌に、ネブラから質問が飛ぶ。
「あら? 私は普段通りよ、ネブラ?」
弾んだ声と、何時も以上に慈愛が溢れ出している瞳、漫画なら背後に大輪の花が舞っていそうな雰囲気。
普段とは全然違うエレナにネブラとヴォラーレは顔を見合わせる。
不機嫌よりも良い事だよね、とネブラは気にしない事にして、皿洗いに集中する。
一方のヴォラーレは、機嫌は良いけど優越感とかは感じないし、とますます悩みながら洗い終えた皿から水分を拭き取る。夜伽に呼ばれたのなら、自分に牽制なりしてくると思うし。
上機嫌で鼻歌を歌いながら働くエレナ、彼女に怯えるというか微妙に警戒しながら手を動かすヴォラーレ、二人を欠片も気にせず皿洗いするネブラ。
そんな妙な空気のキッチンに羽音を響かせデンスが文字通り飛び込んできた。
「エレナ殿、ネームレス様より至急、出撃の用意をせよとの御命令!」
キッチンにデンスの言葉が広かった瞬間にエレナより発せられた重圧に時が止まったかの様な沈黙が訪れる。
思わず涙目になり互いを抱き締め合うネブラとヴォラーレ、腰が引けるも立場上逃げも隠れも出来ないデンス。
表情は先程と変わらず上機嫌なのに目が死んでいるエレナ。
「……今から御出立で?」
エレナのその声色に仲良く「「ひぃっ」」と声を漏らし涙目でガタガタと震えながらギュッと抱き締め合う二人、デンスも思わず「うわぁ」と呟くとエレナの手が届かない位置まで浮かび上がり
「はい、準備が整い次第出発すると」
もの凄く気を使った声色と言葉使いで告げるデンス。儂、今日二度目なんだけど、と心の中で涙する。
食堂から「お仕事するよ!」とリーンの楽しげな声だけしかしないキッチン内。
「ネブラ、ヴォラーレ」
「「ハイ、エレナサマ」」
「これより食糧を背嚢に詰め込みます。三日分もあれば十分かと思いますが、デンス殿、ネームレス様から何か指示は?」
「いえ、ございません。自分はこれにて失礼させて頂きます」
返事も聞かずに飛んで逃げるデンス、逃げたいが逃げれないネブラとヴォラーレ。
「ネームレス様をお待たせする訳にはいけません。急ぎますよ」
先程までの重圧も消え去り、エレナの声色も普段と変わらぬ調子に戻った事に安堵のあまり、思わず「元に戻った?」と口からこぼすネブラだった。
※ ※ ※ ※ ※
相手方よりも数を揃えるのが戦略の基本であり、味方が敵の十倍なら包囲、五倍なら攻撃、二倍なら分断、対等なら戦い、少ないなら退却するべし。
孫子の兵法の一節である。
この教えに従うならばネームレスの用兵は落第点となるだろう。
インプが持ち帰った情報は、ヌイ方面からやって来た、馬車三台、護衛二十一名、御者三名に炊事等の雑用係らしい五名の総勢二十九名。
一方ネームレスの手勢は骸骨兵長イースを筆頭とした骸骨兵十一体、小鬼十一体、インプ五体、ネームレス自身を加えても総勢二十八名。
雑用係と偵察要員であるインプを除くと二十四対二十三で人員は対等。インプも使えない事はないので、此方側が優勢とも言えるだろう。
地下迷宮の存在が露呈すれば防衛戦となり、相手の数が多いので戦いませんは通用しない。
例え骸骨兵やゴブリンを失う結果になっても、打ってでるのが正解。奪う事への葛藤や恐怖は飲み込んだが、失う覚悟はどうだろうか。
不平不満を見せずに忠実に仕えてくれる魔物達を……
「ネームレス様」
地下迷宮自然洞窟偽装部大部屋にて骸骨兵やゴブリン達が武装や装備の最終確認をしている。その様子を観察しながら思案にくれ葛藤していたネームレス。
彼の元にエレナに使いに出したデンスが戻って来た。
「至急用意する、と」
「そうか、ご苦労」
「それからラン殿からも、現地で待つと返事が」
葛藤や迷いを微塵も出さずに落ち着いた声でデンスとやりとりするネームレス。
地下迷宮から交易路までの地図作成と新たな道を開拓する為に、外にいたランにも合流する様にと伝令を飛ばしてあった。
馬も一緒に通れる複数の道筋、追撃があった場合に待ち受けれる場所、伏兵を伏せやすい地形。自然を利用した罠の設置等、ランの任務は多岐に渡り重要性と優先順位が高い。
場合によってはラン抜きで襲撃する積もりだったが、戦力が厳しいので任務を中断させ合流する事に。
「しかし、寝込みを襲った方が効果的では?」
「休憩施設の設置場所は見晴らしが良く、見張りの警戒を潜り抜けるのは不可能に近い」
ゴブリンを引き連れ農場部屋へ向かうネームレスにデンスが問いかけた質問にゴブリン達に聞かせる為に前回の襲撃や今日までの偵察を元にした考察で出した結論を告げる。
「それに比べれば、襲撃予定地点は森に近く不意討ちが可能だ。そして戦場ならともかく日中に襲撃される可能性は低いと考えているだろう。その油断をつく」
デンスが言った様に普通ならば寝込みを狙われると考えて警戒を強くするはず。四六時中警戒心と集中力を維持するのは難しい、故に裏をかいて日中の襲撃は有効だろう。
デンスに話す事で自分自身と背後のフジャン達にも言い聞かせるネームレス。
「出過ぎた真似、お許しを」
「問題ない」
ネームレスとデンス、そしてゴブリン達が農場部屋にたどり着いた時には、既にエレナ達によって食糧は背嚢に詰められて農場部屋詰所に用意されていた。
ネブラとヴォラーレの手も借りて、武装の上にフードとマントを纏ったゴブリンらが背嚢を背負っていく。
そんな様子を横目にネームレスとエレナは最終確認を行う。
「ネームレス様、食糧は三日分程用意しましたが、よろしかったでしょうか?」
「それぐらいでよかろう」
「今回も捕虜を?」
「食糧の貯蓄は?」
「はい、今の人数ならば冬を越すだけの量は確保しております」
農場部屋の疑似太陽の昇降時間が外部と同調している為に、冬の期間は作物育成が可能か判断出来ない。捕虜やゴブリンを飢えさせない為にも、食糧を消費する捕虜の扱いは微妙な問題だった。
「連れてくる予定はない」
「はい、承知しました」
約束を守る、という事は目に見えぬ財産である信用を得たり、失わない為の当然の行為である。出来ない事なら最初から安請け合いするべきでない。
特に上位者が下位者と取り交わしたのならば尚更である。故にネームレスがエレナと交わし今宵の夜伽の件も守って然るべきだ。
そう理解していても十日も足止めされていた事を考えれば、襲撃に天秤が傾くのも仕方ないだろう。でももう少し考えてから約束すべきだったと反省するネームレス。
「エレナ」
「はい、ネームレス様」
「肌を磨いて帰りを待っていろ」
ネームレスの発言に目を丸くしつつ驚きを表すネブラやヴォラーレ、ゴブリン達も背嚢を背負う手が止まる。
特に進言したデンスと、根回しに動いていたヴォラーレの驚きは際立っており、驚きのあまり背嚢を背負う手伝いをしていたハブを突き飛ばしてしまっていた。
そんな喧騒をものともせずに
「御無事の帰還を我等一同、心よりお待ちしております」
美しい跪礼にて受け入れるエレナだった。




