二章第二十五話
豊穣と恵みを司る大地母神の巡り(秋)も終わりに近付き、暗く厳しい寒さと試練、安息を司る夜神の巡り(冬)を目の前にするこの時期の朝は辛い。
農民や町民の死亡原因の多くに上げられるのが意外かも知れないが凍死だ。
暖を取るには火を用いるのが一般的だが、燃料の大半を占める薪は多岐に渡る用途があり、貴族や裕福な商人でもない限り睡眠中まで消費する余裕はない。
だから地下迷宮に捕らえられている捕虜が、魔具の恩恵で春の日差しの様な優しい暖かさが満ちている小屋内で眠れるのは幸せな事なのだ。
農場部屋の疑似太陽が昇り、徐々に明るくなりだすと捕虜である少女や犬人は寝床部屋から出て来て動き出す。
白地に赤の毛並みをしたコボルトであるバーナードは、捕虜として捕らえられた四人のコボルトのリーダーである。
名前はネームレスが考え、世話役であるヴォラーレの口から与えられたものだ。名前から解る様に、セントバーナードに良く似た姿をしている。
少女達をふくよかにする為に出されている大量の食料に三度の食事は、コボルト達にも恩恵をもたらしていた。
奴隷商や護衛の食べ残しや野菜の切れ端、古くなりすぎて石の様に固くなったパン。
その様なモノを必要最低限しか与えられていなかったコボルト達。
骨と皮だけに近かった体も脂肪が付き、栄養不足で艶を失っていた毛並みも、毎日の入浴とブラッシングも加わり美しいものに変わりつつある。
些細な失敗でも振るわれた鞭や暴力で作られた傷痕、水浴びもさせて貰えずに纏っていた獣臭も入浴部屋の効果の助けもあり薄くなり、今では消え失せていた。
バーナードを始めとしたコボルトが寝床小屋から出ると冷え込んだ空気が体温を奪う。自前の毛皮があるコボルト以外の少女達が着替えている間に洗顔とトイレを済まし、シェパード種――警察犬に多く見られる犬――に似たヴォルツと共にホムンクルスの住居小屋に付属する食堂へと向かう。
「「おはようございます、エレナ様」」
「おはよう、バーナード、ヴォルツ」
ホムンクルスのエレナはこの十日余りで日常会話に不自由がない程度のフルゥスターリ語での会話を身に付けていた。
朝食の調理を始めていたエレナと挨拶を交わした後
「よいしょ」「よいしよ」
「どっこいしょ」「よいしょ」
と声をだして、あらかじめ用意されていた野菜の皮や切れ端、麦のふすまを豚の餌として運び出す。
料理人であるエレナの手腕で、そういった調理時の余り食材は殆ど出ない。足りない時は麦藁も餌として提供される。
「ほら、ご飯だぞ」
「ブヒッブヒッ」
餌入れに二人係りで運んで来た餌を入れながらバーナードは、以前の主人の元だと僕達もこんな物を食べてたんだよね、と暖かな麦粥や柔らかな白パンを与えられる幸福を改めて感じていた。
「……お前も僕も良いご主人様に仕えられたね」
食用として飼育されている豚だが、外敵と飢えに怯えなければならない野生でなく、餌を与えられ子孫を(繁殖の為だとしても)確実に残せるのだから。
あくまでバーナードの視点からの想像であり、子供を産み次代を作ったら食肉にされる豚がどう思っているかは解らない。
農場部屋で飼育されている豚は、コボルトの知る剛毛が生えた気が強いモノではなく、ピンク色で温厚で従順な性質だ。その為、捕虜の子供や少女達に人気があり可愛がられている。
餌入れに顔を突っ込み一生懸命に食べる豚を横目に、バーナードもヴォルツも尻尾を上機嫌に振りながら素早く掃除を済ませる。豚は綺麗好きなので飼育小屋内を散らかす事もなく簡単に終わってしまう。
他の二人は馬小屋で馬にブラッシングすると柵に囲まれた、牛と共用の牧草地に放つ。
豚小屋の仕事を終えたバーナード達は牛小屋へ、牛乳を絞り終えたネブラとも挨拶を交わし交代で牛の世話を。
ネブラが鶏小屋から卵も回収し、エレナに届ける頃に、少女達の着替えや洗顔等も終わる。
その頃を見計らいヴォラーレ、ミールにリーンも合流。女性陣が朝の体操に精を出している間も家畜小屋の掃除、家畜の飲み水の補充……
女性陣の体操が終われば朝食であり、その後から手分けして掃除、洗濯、農作業に取り掛かる。
これがエレナ達と捕虜が作り出した流れだったが、この日は予想外の事態が起こるのだった。
捕虜の少女チュヴァとミラーシは寝不足の欠伸を噛み殺……、訂正する。
チュヴァは欠伸を手で隠し、ミラーシは堂々と「はふぅ、眠い」と口を大きく開けて呟いていた。
昼食も食べ終えた直後の暖房の効いた食堂内、ほどよい満腹感と午前中の仕事の疲れもあり、他の少女達も襲いかかる眠気と戦っているので仕方がない事かも知れないが。
コボルト達は過去の主人の元では許されるはずもない、贅沢である午睡をテーブルの下で味わい。インファやペローナ達年少組はそんなコボルトを枕代わりにしたり、抱き締めたり、添い寝しながら眠っていた。
ミラーシは恥じらいを、と思わないでもないが同性ばかり(コボルトは雄ばかりだが)なので緊張感に欠けているのも仕方ないのかも知れない。
森妖精族の少女やナーヴァらは、そんなコボルトと子供達の様子を目を細め優しい微笑みを浮かべ見守る。
エレナとネブラのホムンクルスと女淫魔ヴォラーレはキッチンで食器を洗い。食事の必要がない水精霊ミールは川から遠い畑に水撒きを、住居精霊リーンは地下迷宮の掃除を、と働いていた。
そんな食後の気だるい雰囲気が漂う食堂にネームレスが姿を見せた。
「ようこそ、おいでくださいました」
農場部屋食堂の出入口は扉が二枚ある両開き式、ネームレスが押し入ろうとした瞬間エレナが扉を開いて出迎える。
何の連絡もなしで唐突に農場部屋に訪れたネームレスは、まさかの出迎えに一瞬硬直するも、エレナだしなと流し「ご苦労」とだけ声をかける。
一方食堂内やキッチンで食器洗いをしていた面々は
え? さっきまでここで食器を洗ってましたよね?
と、エレナの動きを視認出来ずに固まってしまっていた。
エレナの声でネームレスに気付いたチュヴァやミラーシ達は慌てて土下座をする。慌てすぎてナーヴァは椅子ごとひっくり返ってしまい、痛みで涙目になりながらの土下座だが。
局地的な大混乱の中でも眠りから覚めぬコボルトや子供らに、深く被ったフードの下で優しい視線を一瞬だけ送り、エレナに来訪の理由を告げ準備を命令するネームレスだった。
※ ※ ※ ※ ※
ネームレスは何時もの様に訓練し、朝食を摂り、執務室で魔力賦与しながら本の調査をしていた時ふと頭に浮かぶ。捕虜はガーゴイルを見て魔物だと気付くか、と。
ただの村人に詳しい魔物知識があるとは思えず、石像に擬態しての不意討ちの戦術も有るガーゴイルを、ただの石像と勘違いしないかとネームレスは心配になってしまっていた。
そんな彼に最近では珍しく地下迷宮に待機していた枝悪魔長デンスが、進言したき議があると申し出たのだった。
「エレナ様の事ですが」
ネームレスは、すうっと感情が抜け落ちた様に無表情となり、真実を見抜かんとデンスを射抜く視線は頭頂から氷柱で貫かれたごとき痛みと血も凍る冷たさを孕んだモノだった。
心臓を鷲掴みされ握り潰されそうな精神的圧力で喉が詰まり呼吸がままならなくなり、硬直して続きの言葉が出ないデンス。
「エレナがどうした?」
穏やかな声色で、まるでデンスを気遣っているようだが、ネームレスの表情と視線は凍えるかと錯覚する程に冷徹のままだ。
過去に戻れるならヴォラーレと取引に応じた昨夜の自分を殴り止めたい、尻尾が恐怖で丸まらない様に気合いを入れながら本気でそう思うデンス。
己が今まさに死地に降り立ち、生死の境に居る事を否応なく実感する。
佞言や訛言を口にしようなら滅ぼされるなら優しい対応で、恐らくどうか殺してくださいお願いします、と懇願する事態を招くのは確実。
ヴォラーレ、この貸しは大きいぞ。儂が生きてたらな!
そんな思いで何とか己を奮い立たせ言葉を発するデンス。
「忠義高きエレナ殿はネームレス様に気取られぬよう、細心の注意を払っておられます故に、気付かれぬのも致し方ないかと思われますが、儂から見ますに、エレナ殿の働きに応じた報奨を賜っておられぬかと」
部下に対する対応がなってないとの諫言なので、覚悟していた叱責や処分する為の魔法が飛んでくる事はなく、視線で続けろと指示され話を進める
「エレナ殿の献身に報いる報奨は、ネームレス様の寵愛以外考えられぬと愚考致します」
潰されそうな重苦しい沈黙が執務室に満ちた。あまりの重圧にデンスがいっそ殺してください、お願いしますと内心で絶叫する。
「……考えておこう」
「寛大な対応に感謝の言葉もありませぬ」
極度の緊張から解放され腰が抜けてしまい、気付かれない様に飛行するデンス。
次は絶対に断ると決意を固めているデンスに
「デンス。骸骨兵と小鬼に完全武装にて農場部屋前に集結と伝えろ」
「承知しました」
デンスが急ぎ執務室から飛び出た後、深く考えこむネームレスの姿がみられたのだった。
※ ※ ※ ※ ※
捕虜の寝床小屋近くの空き地、コボルトが運び出し設置した椅子に座ったネームレス。
その傍らに控える骸骨兵長イースと疑似太陽に焼かれぬ様にローブとフードで肌を完全に隠した小鬼族長フジャン。
ネームレスの目前にハブ、ディギン、アブアブのゴブリンチームと動く石像が対峙。背後には残りのゴブリンと骸骨兵。
捕虜達は対峙するゴブリンとガーゴイルを囲む様な位置で見学を命じられ、恐怖で表情をひきつらせながら思い思いに座っていた。
幼い子供等は年上の少女に抱きついたり、手を握りあったりして、逃げろと叫ぶ生存本能を押さえ付けている。
奴隷商とその護衛を皆殺しし、自分達を連れ去ったネームレスの姿を見るのですら、ここに連れて来られた日から初めて。
何事だろうと不安と心配がチュヴァを始めとする捕虜達に覆い被さっていた。
エレナはガーゴイルに指示を出すために、水精霊ミールは捕虜達の護衛のため捕虜が座り込んでいる位置よりもガーゴイル達の近くにいる。
捕虜の一人である森妖精族の少女は最前列で普段は見せない戦士としての鋭い目で冷静に観察していた。
ネームレスや骸骨兵、ゴブリン不在時の反乱防止の為、捕虜達にガーゴイルの力を見せる、と急遽模擬戦を行うことを決断。
飛行可能状態だとガーゴイルの一方的な展開になるので飛行は禁止。
ゴブリン、ガーゴイル(エレナ)の準備が整ったのを確認すると
「始め!」
ネームレスの号令でゴブリンチームとガーゴイルの模擬戦の火蓋が切られた。
身長約一メートル三十センチ、体重約七十キロのゴブリン。かたや身長約百八十センチ、体重百六十キロのガーゴイル。
アブアブとハブは硬化革鎧と中型盾で身を守り、獲物はアブが槍を、ハブが手斧を。ディギンは柔軟革鎧に手甲と脛当ての軽装。
ガーゴイルは武具はないが、石で出来ている肉体はそれだけで金属鎧並みの頑強さをほこる。
ネームレスは飛行さえ禁じれば、ガーゴイルがやや有利で面白い戦いになると予想していた。
事実、飛行が許されずに機動力が低下したガーゴイルは、ゴブリン達の攻撃を回避出来ず、面白い様に攻撃が当たっている。
いや、当たっても効かない為、攻撃を回避する必要がないと言った方が正しい。
ゴブリン達も盾で、あるいは足捌きや体捌きで巧みにガーゴイルの攻撃を回避してダメージを防いでいた。
当たるがダメージが通らないゴブリン達、当たらずダメージを与えられないガーゴイル。
一見、千日手だが体力低下、疲労蓄積などがあるゴブリンと比べ、魔法生物であるガーゴイルにはそういった事がない。
戦闘が続き時間がたつにつれてガーゴイルの攻撃が当たり始めるのが目に見えている。
そこまで予想出来た時点で模擬戦は終了となった。
魔法生物であるガーゴイルには殺気や闘気はなかったが、ゴブリン達からわき出ていたそれらの影響で、真っ青になっている少女達を見回し、計画の成功――ガーゴイルの脅威を捕虜に知らしめ、ネームレスが留守の間の反乱を防ぐ、は思惑通り進んだであろうとネームレスは判断する。
従順な捕虜達の反乱はまずないと思っていたので、あくまでも万が一の可能性を潰したぐらいだが。
骸骨兵長イースとゴブリン族長フジャンに訓練を再開する様に命じ、両名が率いて連れて来た骸骨兵やゴブリンが農場部屋から出ていく。
捕虜達も仕事に取り掛かるのを見届け、エレナと共に詰所にガーゴイルを設置する。
ネームレスの理想を体現させた、烏の濡れ羽色をした髪、透き通る様な白肌。
スタイルも彼が丹精こめて創作した最初の――
「いかがなされました?」
心配そうに問いかけるエレナの声で思考が現実に戻ったネームレス。
「いや、……」
何でもない、と続け様としてデンスの進言が頭をよぎる。
「エレナ」
「はい、ネームレス様」
今は二人きりで誰も、いや、インプが居るが、拒否されたら忘れろと命じれば良いだけだな。
デンスがこの様な進言をしたという事は、何かしらの問題が出ていて、その解決法がエレナを抱く事なのだろうし。
「今宵、夜伽を「畏まりました」……そうか、では頼むぞ」
返答と同時に跪き頭を垂れたのでエレナの表情にどんな感情が浮かんだのか確かめられなかった。
だが、夜伽を頼みたいが良いか? と続くはずだったネームレスの言葉を遮る、礼を失する行為をとらせるだけの価値。
どちらかと言えば理性が飛んだエレナだった。
ステータスを知りたいと希望される読者の方が居られましたので、後書きを使用させて頂いて記載します。
名前:ディギン
種族:ゴブリン
性別:男
技能:暗視、爪操技、競走、
魔法:
能力値
ST:10 DX:14 I:10 HT:10 HP:24 MP:9
名前:アブアブ
種族:ゴブリン
性別:女
技能:暗視、槍、斧、槍投げ、盾
魔法:
能力値
ST:9 DX:12 I:11 HT:10 HP:46 MP:9
名前:ロッシュ
種族:ガーゴイル
性別:
技能:石の体、飛行、爪操技
魔法:
能力値
ST:14 DX:13 I:5 HT:14 HP:18 MP:‐