二章第十六話
新たに創作された部屋は、直径35メートルもある円形の作りで広場と称するのが正解だろう。半球状に丸くなった天井を持ち、天井まで最も高い場所で10メートルある。扉は二ヶ所、対面に存在し片方は骸骨兵が演習に使っている擬装洞窟大部屋の隠し扉に通じており、残りの扉はDM室や農場部屋へと続く廊下に出る。水瓶をかかげた乙女の像が中心にある噴水が、広場中央から廊下側の扉寄りにあり、水瓶から水が流れ落ち噴水に水を満たしていた。
夜明け前の最も闇が濃い時間、この噴水広場に地下迷宮の主であるネームレスと水精霊のミールの姿があった。
十歳前後の美少女の姿をしたミールの視線に合わせるため、ネームレスは片膝をつき、片手を彼女の肩に置いて話をしていた。
「……留守の間や侵入者が現れた時はこの部屋に留まり、エレナやネブラを守って欲しい。頼めるか?」
配下の前で膝を付き、命令ではなく依頼の形を取る。上位者として問題点が多いのは承知の上だが、ミールの性質を考え熟考の後に最良と決断。このかたちで話をしている。
ミールは何時もの無表情ながら瞳に強い光を宿し、こくんと頷く。
「助かる。普段は好きにしてくれて構わない」
ネームレスも普段は沈着冷静を演じたり、内面を悟られぬように表情を作っている。だがこの時は殆ど素で接しており、優しい微笑みと眼差しをしていたのだった。
ミールが噴水を通り農場部屋へ戻った後、ネームレスは大の字で床に寝転がっていた。オクルス反逆の原因の解明も憶測もまだ不十分で、ミールの反逆も有り得るこの時機での二人だけでの面談。そのため彼に多大な負担をかけ激しく消耗。端から見ると情けない姿での休息を強いていた。
現地下迷宮最強(骸骨兵長イースを含む)のミールへの反逆時の対抗手段が逃走しかない現状。昨日負傷回復に自己改造を使用、再自己改造は時間を空けねば使えず、魔物創作も反逆があったので不可。オクルスを処分した方法は精霊であるミールには通用しないだろう、とネームレスには本当に逃げるしか対策がなく。
想像して欲しい、この子は赤子の時から人に育てられ、人を親と思っているので襲われません。と体長二メートル上回る虎の檻の中へ裸同然で入れられる事を。ネームレスもミールが獣と比較にならぬ程の知性の持ち主だど理解しているが心境的にはよく似ていた。
だが早急にミールとの信頼関係を強化する必要があり、ネームレスは対話を決行。重要な任務を与え、二人だけでの対話、彼女が十二分の力が発揮出来る専用部屋(噴水広場)の提供。
ミールを信頼しているから、この部屋(噴水広場)を作り重要な任務を任せるのだ。と幼い子供を相手するように噛み砕いで説明し、最後に依頼の形でネームレスは内心の恐怖と緊張を微塵も出さずに頼んだのだった。
例えるならば、社長が一社員を会社の命運を賭ける重要なプロジェクトのメンバーに抜擢したような物だ。抜擢された人間の性質で違うだろうが、大半の人は期待に応えるべく奮起して抜擢してくれた社長に好意を抱き忠誠心を上げるだろう。このような思惑でネームレスはミールに任務を任せたのだった。
ヴォラーレは夜明け前よりかなり早く起きたネームレスに合わせて活動を再開していた。起床時彼からまだ休んでいて構わないと言われたが、主が起きているのに休んではおられません、と起床。彼女に配慮したネームレスが浴槽に移る。彼が歯磨き等を済ませる間にガウンからヴォラーレ用に翼の邪魔にならない服に着替え、交代で身繕いのため浴槽に入る。
身嗜みを整えた二人は恋人同士がするような接吻を一度だけ交わすと執務室へ。
昨夜の入浴指導時等に確認していた捕虜二十二名のサイズの作業着に下着、服収納用の籠に小物を購入。二人で籠に服と小物を仕分け、ヴォラーレに運搬を命じた後、ネームレスはミール用の部屋創作のためにDM室へと移る。
その後ろ姿を見送ったヴォラーレは籠を三つ重ねて持つと農場部屋に向かうのだった。
徹夜で調理の下準備や食堂の掃除等を片付けていたエレナは、仕事をしながら悩んでいた。どうすれば夜伽を命じられるかと。色々と悩み、苦しみ、ヴォラーレ暗殺計画を立ち上げ、その時点で正気に戻る。何を考えてるの私、と。彼女を排除しても御寵愛頂けない理由が解らなければ意味がない。どうすれば、とますます苦悩するエレナだった。
シャー、シャー、と音をたてながらエレナは包丁を研いでいる。水で十分濡らした砥石で、鶏を捌く時に使用した出刃包丁の手入れだ。力が弱い彼女でも骨を断ち砕かせる重さがあり、戦闘用の短剣と比べても殺傷力は劣らない。
何時もなら優しい微笑みか、真剣な面持ちしか見せないエレナ。
だが今は感情が抜け落ち瞳から光が消え失せた表情で包丁を研いでいる。ネブラに配慮して屋外の井戸近くで、捕虜にも気配りしランタンの灯りは絞られ、まるで懐中電灯で下から光を当てたように彼女の顔を映す。
そんなエレナの元に、井戸付近から漏れる光に興味を惹かれた人物が近づいて行く。捕虜用の荷物を運んで来たヴォラーレだ。
戦闘関連の技能を改造で失ったとはいえ、基礎能力値が高く飛行も可能のヴォラーレに、恐れる相手等ミールぐらいで、何の警戒もなく小屋の端から顔を出す。
偶然か宿命か必然か。
ヴォラーレが人影に気付き誰かと確かめようとした時。包丁の研ぎ具合を左手の親指で確認していたエレナが顔を向け二人の視線が絡まる。
そして腰を抜かしすとん、と尻餅をついてしまうヴォラーレ。何故か髪の毛で顔が隠れたエレナが、シャリ、シャリ、と耳に残る足音をたてながら包丁を手にヴォラーレに近付く。
飛べる事も忘れ必死にエレナから逃げようと顔を向けたまま――背中を向け目を離す事を恐れて――両腕で体を引きずるよう動かすものの遅々として動けぬヴォラーレ。一歩一歩、急ぐ訳でもことさらに遅い訳でもなく近付くエレナ。
ポロポロと涙を零しながらも、恐怖で声も出せないヴォラーレ。水回りから抜け芝生の上だからか足音が消えたエレナ。修羅場など数え切れぬ程経験したヴォラーレが混乱状態を起こし逃げる事しか考えられず。髪で表情が隠れ無言で近寄るエレナ、右手に包丁を持って。
短い逃走劇は終わりエレナがヴォラーレに追いつく。
「ヴォラーレ」
声色は固く、エレナの緊張と決意が伝わる。だが恐怖で声の出ないヴォラーレは返事も出来ない。
そしてエレナの手がヴォラーレに――
DM室で創作を終えたネームレスはミールを呼びに農場部屋へと向かっていた。執務室により籠を持って。
「ネームレス様!」
「どうした、デンス?」
「急いで農場部屋の井戸まで、判断がつかぬ事態が発生しました!」
捕虜反乱の対策として見張らせていたデンスの慌てぶりに走り井戸を目指すネームレス。二人が急ぎ辿り着いた農場部屋で見たものは――ヴォラーレに肩を貸し歩くエレナの姿だった。
「何があった? エレナ?」
ネームレスは素早く二人の状態と農場部屋内を確認すると、意識のないヴォラーレではなくエレナに話を聞く。
「はい、ネームレス様。井戸で仕事をしていた私を見たヴォラーレがずいぶん驚いたらしく倒れてしまいました」
「そうか、デンスご苦労だった」
エレナの反対側にまわりヴォラーレに肩を貸すネームレス。デンスは「いえ」と短い返事をすると捕虜用小屋の見張りに戻る。詳しい報告は身を滅ぼしかねぬと。
ヴォラーレを農場部屋の食堂に休ませると、エレナに執務室からの荷物運搬を頼み、ミールに噴水部屋に来るように伝えたネームレスは農場部屋から出て行く。
この後、目覚めたヴォラーレは自分が何故倒れたかは思い出せず。ただコボルト共々エレナに絶対服従するようになった。