第三話 怪しいメールにご用心・3
「もしもし……」
極力ぶれることのないようにと、私は喉の奥に力を込め、低く圧縮した声を絞り出していた。
『こんばんは、匂坂茜里さん。僕が送ったメールは見ていただけましたか?』
電話口から返って来たのは、張り詰めた緊迫感にそぐわない、酷く脳天気な声音だった。通話の相手は、どうやら若い男のようである。
「あんた、誰なの? 何処かで私を見てるの?」
苛立ちと動揺とが綯い交ぜになって、私の声はすぐに弱々しく萎縮してしまう。
『もちろん。貴女のことは、ずっとこの“林檎の島”から拝見していましたよ』
その一方で、男の声が揺らぎを帯びることはない。
「アヴァロンって、何なのよ? あんた今、何処にいるの? さっきのメールを見る限り、私の今の状況を分かってやってるってことなのよね? だったら悪質にも程が――」
募り募っていく私の胸の違和感とは裏腹に、小憎たらしいほど落ち着き払った男は、芝居掛かった口調を崩すことのないまま、次々と言葉を紡ぎ続けた。
『茜里さん。貴女にはそれほど多く時間が残されているわけではないのですよ。だから、手っ取り早く証拠を見せてあげます。僕が貴女の大切な御方をいつでも助けることができるという、決定的な証拠をね』
じわじわと気味の悪い静けさが幅を利かせる中、男が言葉を終えるのと同時に、弛んだ琴線をぴんと張り上げるような、凛とした鈴の音が響き渡っていた。
――この鈴の音は、ミルだ。
いつの間に入ってきたのだろうか――私の足元には、慧兄の飼い猫のミルが座っていた。
ゆらゆらと黒い尻尾を揺らし、ミルは金色の瞳でじっと頭上の一点を見上げている。それはまるで、天井の向こうの遠い夜空をじっと眺めているかのようにも見えた。
『貴女にとっては説明するまでも無いことでしょうが、そこに居る黒猫は、野良だった頃、近所の子供達に苛められたせいで、小さい頃から片足が不自由なのでしたね。彼にとってはお気の毒な話ですが、それがきっかけとなったおかげで、優しい飼い主に巡り合えた事は、幸運であったと言えるかもしれません。その時、怪我をした彼を助けようとなさったのが、そこにいらっしゃる渥美慧護さんであったと……何とも涙ぐましい経緯ではありませんか』
どうしてそれを――?
私が驚愕に言葉を失っていると、まるでそれが私の代返だとでも言いたげな様子で、瞳を細めたミルが短く鳴き声をあげていた。
小さく息の漏れる音が聞こえたかと思うと、男の口調は途端に柔らかみを帯びる。
『それでは、ここからが本題です。五つ数えるうちに、僕がその子の足を治して差し上げましょう。いいですか――』
その表情を窺い知ることは出来ないものの、きっと電話口の男は、にっこりと微笑んでいるのだと思った。
男がゆっくりとカウントダウンを始めると、頭上を見つめていたミルは、耳と尻尾をぴんと硬直させたまま、身じろぎ一つしなくなってしまう。
そうして、あっと言う間にその五秒間が過ぎ去った後のこと。
「う、うそ――」
高く長く鳴き声をあげたミルは、まるでその瞬間を待ち侘びていたかのようだった。
しなやかに両足でフローリングを蹴りつけると、彼は慧兄の横たわるベッドの上に、音も無く跳び乗っていたのである。
「ミル――お前、足が治ったのか?」
気が付けば、今の今までずっとうなされたままだった慧兄が、切れ長の瞳を見開いて、ミルを見つめていた。
ミルは大きな瞳を嬉しそうに細め、“その通りだ”と言わんばかりに、先ほどまで全く動かなかったはずの後ろ足を目一杯に使って、首根っこを掻いてみせていた。
「茜里……これは夢なのか? ミルの足は、医者にも治らないって言われてたのに」
弱々しい声音で言って、私を見上げた慧兄の病状は、おそらく少しも良くなってはいない。
本当は、話をすることすら辛いに違いない。それでも慧兄が意識を手放そうとしないのは、きっと怖がっているからなのだろう。
目覚めた後、ミルの右足がまた動かなくなっていたら――彼はきっと、全てが夢の中に消え去ってしまうことを、酷く恐れているのだ。
だけど今は駄目。寝かし付けてあげなくちゃ――
ほんの少しの間くらいならと、携帯電話をサイドテーブルに置いた私は、慧兄の細長い手を両の掌に包み込む。
そうして静かに目を閉じ、二つの額をぴたりとくっつけると、私は慧兄に向かってそっと囁くように声を掛けた。
「夢じゃないよ、慧兄。ミルはちゃんと、他の猫と同じように歩けるようになったんだよ。だから今は早く寝て、起きられるようにならなくちゃ。目が覚めてからもミルの足はちゃんと動くから、大丈夫だよ」
冷却シート越しにも伝わってくる、鬱積した熱感。
たとえほんの少しでも、この熱を吸い取って上げられたらいいのに。
僅かの間、私はもどかしい思いに煩悶する。
「おやすみ、慧兄」
伏せていた顔を再び持ち上げたとき、慧兄は、苦しみに喘いでいた先ほどまでの様子が嘘のように、口許をほころばせ、寝息を立てていた。
『信じていただけましたか、茜里さん。僕に癒せぬ病など無いのだということを』
ゆっくりと拾い上げた携帯電話から、今やすっかり耳慣れてしまった男の声が聞こえてくる。
「まだ半信半疑だけど、信じてもいいわ。ミルのことが、夢じゃないなら――」
本当の危機は、まだ去ってはいない。
男の相変わらずの気取り口調が、私をぐいぐいと現実へ引き戻そうとしてくる。
けれど、それまで目にしてきた嘘みたいな顛末の全てが“現実”であるとするなら、明け透けなだけの現実よりも悪くはないと思った。
『それはよかった。今起こっていることは全て、夢ではありません。しかし、今から貴女には、ほんの少しだけ夢のような体験をしていただくことになりますが』
「どういうこと?」
『現金なお話で申し訳ありませんが、“タダで”というわけにはいかないのです。その御方を僕がお救いする代わりに、貴女にやっていただきたいことがあるのですよ』
ミルに起こった奇跡のような出来事を目の当たりにした直後であるせいか、私の心は既に、大抵のことではぐらつかないくらい、頑丈なものに様変わりしてしまっているらしかった。
「分かったわ」
実を言えば、男の台詞は大方予想していたことで、私は大してじたばたとすることもなく、その荒唐無稽な現実の全てを、甘んじて受け入れることにしていた。
逆に、あまりにあっさりとした私のリアクションを予測しきれていなかったのか、男はしばし逡巡するような間を置くと、初めて焦ったような声音を吐き出してくる。
『貴女は、聞き分けが良すぎますね……僕が言うのも何ですが、もう少し人を疑うということを覚えた方がいいのではありませんか』
「御託はいいから、さっさと話しなさいよ。時間がないんでしょ?」
ほんの少しだけ、気取り調子の男を出し抜いてやれたような気になった私は、わざとらしく棘のある言い方で、男の助言を突っ撥ねてみせていた。
『ええ、そうです。今に関して言えば、貴女の素直さは追い風と成り得る要素かもしれませんね』
「貴方のその言い回し、よく意味が分かんないわ」
『生まれつきずっとこうなもので、今更直す気はありません。慣れて頂く方が手っ取り早いかと思いますが』
前言撤回。鉄面皮すぎるこの男の上手を取ろうだなんて、今の私には到底無理な話だったらしい。
その証拠に、私の心は早くも男の掌握を受け、苛々とさせられている。
すっかり元のペースを戻した男は、私のもやもやとした気持ちなんて気にも留めない様子で、着々と話を進めようとしていた。
『余計なお話はこれくらいにしましょうか。少々荒っぽいですが、詳しいお話は、また後ほどに。まずは目を閉じてください。僕がゆっくり五つ数えますから、数え終わったら目を開けてくださいね。いいですか――』
男の言葉を必要以上に疑おうとする気持ちは、もはやすっかり消え失せてしまっている。
言われるがまま瞳を閉じると、男は再び、ゆっくりとカウントダウンを開始していた。
五、
四、
三――
カウントが半分に達すると、辺りの空気が、突如としてしんと重くなるのを感じた。
風に乗ってやってきたのは、とても甘酸っぱいフルーツの香り。
だけど、何かが変だ。
ふわふわと髪を揺らすこの風は、一体何処から――?
冬の初めのこの時期に、窓なんか開けているはずがないのに。
二――
遥か遠い場所から、身を焦がすような熱さが吹きつけてくる。
それは、ドライヤーの温風なんかじゃ比べ物にならないくらいの高熱を孕んでいた。
気が付くと、爽やかな果実の香りは、押し寄せてきた熱風によって、跡形もなく掻き消されてしまっていた。
一――
音が聞こえる。
一番近くで聞こえたのは、パチパチと薪の爆ぜるような音だった。
間を置かず遠くからやってきたのは、さっきよりも数倍勢いを連ねた熱い風。そして、怒りと悲しみの入り混じった叫び声だ。
時折そこへ、いくつかの慌ただしい音も混じってくる。とりわけ目立つものを聞き分けてみると、ひとつは馬が蹄を踏み鳴らす音、もうひとつは、金属と金属のぶつかり合うような、とても耳障りな音だと分かった。
随分と、現実感の無い音だらけだ――どれもこれも、どこか聞いたことがあるようなのに、何故だか身近には存在しないものばかりのような気がする。
電話の向こうでぷつりと信号の途切れる音がし、私は弾かれたように目を開けていた。
「え――」
大抵のことではぐらつかない心が出来上がってしまったというのは、どうやら相当に奢り切った思い込みであったらしい。
男の用意した“夢のような体験”とやらが、ここで行われるものなのだとすれば、私の予想は悉く――いや、言葉に表すこと自体が不可能なほど、めちゃくちゃに打ち砕かれてしまったことになる。
そこに横たわっていたのは、ハリウッド映画さながらの、現実感など何処にも見当たらない光景だったのである。
「ええええっ! 何これ! どういう――」
夜空が紅く燃え上がっている。冷たい空気を劈くように熱風が吹き抜けていき、足元に散らばった細切れの木片を勢い良く巻き上げていた。
たまらず目元を覆った腕でごしごしと瞼を擦ってみても、眼前に広がる地獄さながらの光景は、どれほども変わってはくれなかった。
「何なの、これ。私、慧兄の部屋に居たはずじゃ――」
呆然とへたり込んだ私の四囲をかこんでいるのは、簡素な石造りの家々である。
そこに異様なまでの違和感を感じたのは、民家のどれもが見慣れない造りをしていたという所だけではない。ひしめき合うように建てられたその家々は、皆が皆炎の赤に包まれ、火の粉を爆ぜ飛ばしながら、天にも届けと言わんばかりに、入道雲のような濃い煙を立ち上らせていたのだ。
遅かれ早かれ、この集落の建物の全てが、同じ末路を辿ることになるのだろう――燃え盛る家々の傍らで、見るも無残に炭と化し、黒い骨組を残すのみとなった廃屋が、炎の海の巻き起こした爆風によって煽られ、ガラガラと崩れ去っていた。
「何なの、これ――こんなの、まるで」
戦場みたいじゃない。
掠れ切った声は、いとも容易く嗚咽の中に飲み込まれてしまう。
空襲の後の焼け野原?
天災に蹂躙された街?
きっと私は今までも、こんな光景を目にしたことがある――但しそれは、現実とは程遠い場所でだけ。テレビ画面の向こうという、はっきりと身の安全が保障された場所から、他人事のように眺めていた“景色”のひとつにすぎないものだった。
肌を掠めていく熱。鼓膜にまとわりつく悲鳴。何かが斬り裂かれる音。そして、風に乗ってやってくる、鼻を突くような生臭い香り――これが映画のセットだとするなら、何もかもが非合法で、あまりに悪趣味である。
本能が叫びをあげていた。
一刻も早くここから去らなくてはならない。何故なら、地獄のような光景に立ち込める、この香りは――