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三国記  作者: 上沼義一
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3話 食事

名由佳の視線は川の中に落ちていて、魚の姿を探している。彼はそのまま川の端まで歩み寄り、手に持っていた竹篭を紐で腰に括りつけた後、草履だけ脱いで川の中に足を踏み入れた。無遠慮に川の中を歩いていくので、当然周囲を泳いでいた魚は離れていく。名由佳は傍にあった少し大きめの石の上に腰を下ろし、アインを見下ろす。

「よっと……」

 名由佳が冷たいと言った川の水である。天から落とされた日の光は暖かだったが、川の中は違う。にもかかわらずアインは中央より少し手前で腰を下ろした。丁度彼の肩が水につかるくらいの深さで、アインは何をするでもなくその場にあぐらをかく。

「なるほど……。たいしたものね」

 名由佳が驚きの声をあげた。腰を落とすなりアインは気配を殺した。逃げ散って行ったはずの魚が戻り、すぐに彼の傍を泳ぎ始める。

「人間は釣竿を使って魚を取るのが一般的なのではないの?」

 名由佳の持つ知識はそうであったし、現実に先ほど見た初老の男はそうしていた。

「普通はそうかもな。名由佳がどう思っているのかは知らないけど、普通の人間はそうそう気配なんて消せやしないよ。野生の動物のほうがよっぽど得意だ」

 アインは座ったまま名由佳の問いに答えた。魚達が逃げる気配は無い。

 本当にたいしたものだと名由佳は思う。野生の動物とて声をあげながら気配を消すなどという芸当をするものはそうそういないはずだ。アインは普通の人間は、と言ったが、それは即ち彼が普通でないということなのだろう。

 名由佳はそれ以上声をかけず、彼の所為を見守っていた。

 アインはゆっくりと手を動かし、それを障害物として、魚を竹篭の中へと導いていく。次の魚を招き入れるときは、入っている魚が逃げないように両手を上手く使い、手の平を広げきったくらいの大きさの川魚が竹篭の中へ吸い込まれていく。

五匹の魚が竹篭の中に入ったところで、アインは腰をあげた。

「あなたなら魚を掴み取ることくらい容易いように思えるけれど、そうはしないのね」

 アインが川の中に腰を下ろしてから十五分ほど経過している。名由佳にはあまり効率が良いやり方には見えなかった。

「別に時間が無いわけじゃなし、むしろ毎日暇を持て余しているくらいだ。急ぐ必要なんてどこにもない」

 なるほどと、名由佳は思う。人と戦争を始める前の魔族は、確かにそうして静かに時の中に身を置いていたはずである。

「あなた一人でそれだけ食べるの?」

 アインが腰をあげれば当然竹篭から水は抜けていく。彼の腰元から下がった篭の中では魚達が震えているのだろう。がさがさと揺れていた。

「いや、連れがいるんだ。一人だけどね」

「その人間も黒髪なのかしら?」

「まさか。流石にそれはないさ。変わり者であることは間違いないけどな」

 アインの緩んだ表情が、彼のその変わり者への信頼感を表していた。

「そう。それならもう戻るのね」

「ああ……。どうかしたかい?」

仮にも魔王ともあろうものがそんなわけはないだろうと思いつつも、視線を下げた名由佳が不思議と寂しそうに見えて、アインは尋ねた。

「私もお腹がすいているの。魚を取るのは簡単だけれど、ここであなたが食べていくなら、どう食べるのかも見れると思って」

 魚を焼いたり、煮たり、揚げたりして調理するという知識は彼女にもある。しかし実際にどうするかをその目で見るのはまた違うことなのだと、魚を取るアインを見てそう感じていた。

「なるほどね。俺も連れ以外と話すのなんて久しぶりだ。少しばかり付き合うか」

 アインは笑いながら草履を向こう岸に置いたまま、名由佳の方まで歩いてくる。その笑みが酷く幼く見える。

「しかし火の用意が無いな……」

 永徳は川から出るなり、向こう岸、アインがやってきた方向に視線をやった。

「一っ走り取って来るか」

「火ならば私が出せますが」

 川から上がった永徳と、岩の上に座る名由佳の視線は丁度同じ高さにあった。何ということもなく右手から炎を生み出した名由佳を見て、アインの目が驚きに包まれ丸くなるのが、名由佳には酷く滑稽だった。名由佳の右手の中で、握り拳ほどの炎が揺らいでいる。

「そういえば魔王様だったな。魔術ってやつかい。どうやるんだ?」

「説明は難しいわ……。自然とできるものだし。私の知識にある理屈で説明すれば、世界に生み出された魔族という存在は、願うことにより世界に何かを生み出すことが出来る。それを人は魔術と呼ぶ」

 名由佳は自らの右手にある炎を何気なく見ながら、頭の中に浮かんだどこかの人間が記したであろう言葉を口にした。

「魔王が子を産むのも人間のよう自分の身体から産み落とすわけではないし。そういう意味では魔族全てが世界から生み出される。だから魔族は世界を操れるのだ―――と、どこかの昔の人間の学者が言っていたはずよ。実際には魔族の内でも限られたものしか魔術と呼ばれるそれは行使できないけれどね」

「なるほど。ご高説ありがたいけど、俺にはあまり関係ないな」

 人間の中の説に注釈まで加えた名由佳に、露骨に興味なさそうにアインが返す。その様子に名由佳の口元は逆に綻んだ。


「あなたから聞いておいて酷い言い草ね。それで、この火をどうすればいいのかしら」

「ああ、ちょっと待っていてくれ」

 アインは竹篭の紐を解きその場に置いた後、木々のそびえる林の中に走って行き、すぐに両手に枝を抱えて戻ってくる。

「それじゃこいつに火をつけてくれ」

薪代わりの枝を櫓のように重ねたものをアインが指差す。名由佳は岩の上から降り、枝を挟んで永徳の逆に腰掛けた。川から出たばかりのアインが抱えていた枝は湿っていたが、名由佳が右手の炎を近づけるとすぐに燃え移った。

「いい火力だ。都合いいことにこいつは持ってきていた」

 アインは竹篭の底にある鉄の細い棒を取り出す。まさかこれからそれで貫かれることを理解しているわけでもないだろうが、鉄の棒が身体に触れた魚がびくびくと震えていた。

 アインは手馴れたもので、二つの棒に河魚を突き刺し地面の石の隙間にそれを差し込んだ。声をあげない魚が突き刺され、まだ息のあるうちに皮から焼かれていく様を見て、アインはふと口を開いた。

「で、魔王様はやっぱり人間相手に戦争始めるのかい」

 その魚を見ても、アインが残酷と感じることは無い。それは彼らが仲間ではないからだ。そういう意味では、アインからすれば仲間でない人間と魔族が戦おうと、あまり関係の無いことであるから、まるで他人事のように名由佳に尋ねたのも不思議なことではない。

「どうかしらね。少なくとも私の知る限りでは、ここ千年で人間とこうして食卓を囲んだ魔王はいない。私も少し変わっているのかもしれないわね」

「そりゃありがたいね。人間と戦争を始めるのはいいけど、ここいらではやらないで欲しいから。多少の面倒なら何とでもなるけど、名由佳相手じゃそうはいかなそうだ」

長年山中にて生きてきたからだろうか。穏やかに見える目の前の女性は、しかし背を見せれば一息に自分を屠れるだけの力を秘めていることがアインには分かった。生まれて初めて自らが敵わない相手を前にして、その事実を酷くすんなりと受け入れていた。

「そろそろいいぞ」

 アインは突き刺した棒の一つを手にとって、そのまま立ち上がる。

「行くのですか?」

 名由佳もまた自分の前に突き立った魚を取り、アインに尋ねた。

「ああ。連れも腹すかしているだろうからな」

「助かりました。―――この棒はどうすれば?」

 魚を突き刺したままの棒で、ゆっくりとアインの方を指す。

「やるよ。やり方が分かっても道具がなきゃ仕方ないだろ」

 アインは河を渡りながら言う。名由佳に背を向けたまま、向こう岸で草履を履き、そのまま林の中へと消えていった。

「―――美味しい」

 アインの背が見えなくなって、ようやく手の中の魚を口にした名由佳は、思い出したようにそう口にした。

 生まれて初めて口にしたはずの食物が、名由佳には不思議と懐かしく感じられた。


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