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三国記  作者: 上沼義一
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2話 出会い

彼は気配を露にしただけではなく、名由佳に声まで掛けてきたのだ。ついで、草を踏むがさりという音と共に、少年は日の当たる小川のほとりへ姿を現した。

「―――え?」

 驚きという感情を得たのも、名由佳にとっては初めてのことである。勿論、陽の光を受けた時。水の冷たさに触れた時。感動とともに驚きは存在したが、そういうことではない。

 太陽の光は暖かく、水は冷たいものであると、彼女は生まれながらに知識として持っていた。しかし目の前の男の存在は、彼女が世界から与えられた辞書の中には存在しない。

「本当に俺と同じ髪をしてるんだな。瞳の色も濃い」

 少年は魔王以外に持つことがないはずの黒い髪と瞳を携えていた。髪は男性にしては多少長めで耳が隠れ、後ろ髪は肩に触れる程度に伸びている。彼もまた名由佳の存在に驚いているようで、あまり大きいとは言えない切れ長の目が見開かれていた。

「俺と違って角も翼もあるし、やっぱり世間で噂の魔王様か」

 少年は手に竹で出来た籠を携えていた。魚を入れるためのものだが、それは名由佳には分からない。粗末な麻肘上、膝下までの衣服を纏っている。茶の布下から覗く肌色は薄く、名由佳ほどではないにしろ髪とは対照的に白かった。

「人間、なのですか?」

 名由佳がそう思わず尋ねたのも無理はない。歴史上に存在し得ないはずの魔王以外の黒髪である。むしろ自分が本当は魔王ではないのではないのかとさえ錯覚しそうになる。

「さぁ……。俺には学ある方々が定めた人間というものの定義なんて分からねーけど、人間の腹の中から出てきたのは間違いないらしい」

 彼は警戒を解いてはいなかった。小川を挟んで名由佳と対峙したまま、それ以上近づこうとはしない。名由佳も同様である。目の前の少年の強さを計りかねた。青年と呼ぶには幼く、少年がしっくり来るには年を取りすぎているように見える彼を、先ほど血肉へ変えた男達と違い、確実に屠れるという確信が沸かなかった。数少ない魔王の持つ本能が、名由佳に彼の危険性を訴えていた。

「どうして姿を現したのですか?」

「そっちが俺の気配に気づいたからだ。ばれちゃってるなら隠れてる意味はないだろ」

 名由佳の問いに、少年は簡潔に答えた。

「どうして気配を現したのですか。私は最初気づいてはいなかった」

 何が目的で、彼が気配を消し、名由佳を窺っていたのかは分からない。しかし今目の前で少年が警戒を解いていない以上、隠れていられるならばその方が都合が良かったのではないのかと、名由佳は疑問に思う。

「窺っていたというか、ここに人の気配があったから様子を窺っただけさ。見ての通りの髪をしているんでね。あまり他の人間と顔を合わせたくないんだ」

 少年は自嘲の笑みを浮かべる。女性的なその表情は、人によっては見惚れる程度に美しかったが、名由佳にはあまり人間の顔に対する美醜の意識は無い。

「普段はこんな山奥に人なんて物好きくらいしか来ないんだけどね。今は新しい魔王様を探そうって人間が大勢ちょこちょこやってくる。それこそ見つかったら面倒だ」

彼の言っていることは一応筋が通っていた。名由佳にも黒髪の人間が存在すれば、どういう境遇に置かれるかの想像はついた。彼と逆の位置からものを見れば、黒髪と黒い瞳のものが生まれるのが当然である種族に、ある日赤髪と赤眼の赤子が生まれればどうなるか。神の子と呼ばれるか、悪魔の子と呼ばれるか。目の前の少年の境遇が、後者であるだろうことは、話し振りで想像がつく。

名由佳は少しばかり緊張を解いた。いつでも動けるように込めていた足の力を緩める。

「それで私が本物の魔王だと考え、人間ではないから安心して気配を露にしたのですか?」

 しかしそれはそれで矛盾しているように名由佳は思う。魔王とは、元来人間の仇敵であるのだから。

「それは違う」

 初めて少年の語調が強まった。心外だと言わんばかりである。

「流石に魔王様相手に警戒解くほど馬鹿でも命知らずでもないさ。気配が出たのは単純に驚いちゃったからで、意図的にじゃない」

 言葉の通り、少年は戦闘体制こそ取っていないものの、充分に名由佳を警戒していた。

「―――なるほど」

 名由佳は少年の言い分に納得した。先ほど自分が同じ黒髪を見て驚いたばかりである。いきなり目の前に魔王と思しき存在がいれば、それは驚いて然るべきかもしれない。世界より与えられた人間は魔族の敵であるという知識が名由佳の中で薄らぎ、彼への興味が沸き始めた。

「あなたはこの山に住んでいるのですか?」

「ああ。一応ミルスタインの国土だけど、退魔聖域外のここいらは人が少ない。俺みたいな異端者には多少なり住みやすいみたいだ」

 生まれた時からその髪のせいで苦労をしてきたのだろう。年齢とは不釣合いな自嘲の笑みが消えることは無かった。

「なるほど。ここは退魔聖域の外なのですね」

 即ち今時分が出せる全力が、自分の本来の能力なのだと名由佳は認識する。世界の地図、構図、勢力圏等は名由佳の頭の中に入っていたが、ここがどこなのかまでは世界は教えてくれていなかったらしい。

「ここはどの辺りなのでしょう」

「本当に生まれたてみたいだな。ここらはガルムレインだよ。というか、退魔聖域外で人間がいる地方はここくらいなもんだ」

 男は名由佳の質問にすぐに答えてくる。嘘を言っているようにも見えなかった。警戒心は残しながらも、友好的に見える目の前の少年が名由佳には不思議だった。名由佳の脳裏に、世界の地図が浮かび上がる。巨大な大陸の内、人と魔との戦争が行われるようになってから、歴史の舞台は西方の六分の一程度に限られていた。退魔聖域が張られているのがその一帯で、それ以外の場所で人は魔族と戦闘を行うことが出来ない。東方は魔族の勢力圏内だが、前代魔王庵考は西方、ミルスタインへの進行のため、常に自身を世界の西方に置いた。東方の地には、現在人は勿論、魔族も殆ど存在しない。

 その西方、人間の国ミルスタインの勢力圏の一部に、大陸と殆どを海で引き裂かれた場所がある。大陸から帽子のように突き出たそのガルムレインと呼ばれる地方は、あまりに偏狭であるため魔族に狙われなかった。ミルスタイン王朝は魔族に襲われることのないその平和なガルムレインから物資を海路で本国へ輸送していた。

「しかし随分冷静ですね」

 名由佳は思わずそう口にしていた。人間が悪の権化とされる魔王と対しているにしては、目の前の男は飄々としすぎている。先ほどの初老の男のように、背を見せ駆けだすのが一般的な対応であるだろう。

「そうでもないんだけどね。ただ人の目から逃げるためにこんな偏狭の山奥に暮らしているんだ。これ以上奥地には逃げようもないし、そっちがここいらを縄張りにするなら挨拶くらいはしておかないとな」

 こんな偏狭といいながらも、少年の表情は笑みに包まれていた。彼の過去がどうであったかは名由佳には分からないが、彼は現状に満足しているようにも見える。

「面白い人……。名は?」

「人に名を尋ねる時はまず自分から、と言いたいとこだけどだったな。礼儀もクソもないか」

 少年は石の上を一歩進み、名由佳との距離を縮めた。

「アインだ。とある女から初めて産まれたからアイン。どこにでもあるありきたりな名前だろ」

 彼が黒髪である以上、そのとある女と何かがないはずは無いのだが、それを聞く気は名由佳には無かった。

「私は名由佳といいます。よろしく」

 生まれて初めて会話を交わした相手である。名由佳は自然そう口にしていた。

「驚いたね。魔王様から人間によろしくなんて挨拶を賜るとは」

 からかうように目を細めながら口元を歪めたアインに、名由佳は少しむっとする。思わず口から皮肉が飛んで出た。

「黒髪の人間など、人と魔の千年の歴史にも、それ以前の数千年の人の歴史にも存在はしない。人間だと思っているのはあなただけかもしれませんよ」

「なるほど。かもしれない」

 しかしアインは名由佳の皮肉を真っ向から受け止め、笑うだけだった。

「魔王様って言っても発想は人間とあまり変わらないんだな。そんな話しは生まれてこのかた何百回言われたかわからない」

確かにアインの言うとおり、誰でも目の前の男と対峙すれば、本当に人かどうかいぶかしむだろう。そういった奇異の、或いは迫害の視線から逃れるために、彼はこんな山中にいるのだろうから。

「俺のこと面白いって言ってたけど、そっちも中々面白いね。―――と、仕事をすませにゃなきゃ。信じてもらえるかはわからないけど、俺は名由佳に敵意はない。出来れば川に入らせて欲しいんだけど」

「―――っ」

 名を呼ばれたことに少なからず名由佳はうろたえた。生まれた瞬間に自らの脳裏に既にあった自分の名を、他人に呼ばれることをむず痒く感じた。

「どうかしたか? ああ、王様だから名由佳様とでも言ったほうがいいかい?」

「いいえ、かまわないわ。それより川に入って何をするのです?」

 狼狽を隠し、名由佳はアインに質問で返す。

「魚を取るのさ。昼飯だ」

 名由佳の問いを肯定と捉え、アインは一つ歩を進めた。

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