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三国記  作者: 上沼義一
11/12

2-3 もう一つの出会い

 彼女が薄暗い階段を登りきったその先には、まだ人間がたくさんいた。彼女の全身を覆う炎は、彼女の衣服を燃やしても、その髪を焦げ付かせることできなかった。

「やはり駄目です! 外には魔軍がおります! 退却も不可能です」

「ならばこのまま燃え尽きろというのか!」

「うわぁぁぁん。熱いよぉ。熱いよぉ」

「熱い、熱い、あつ……」 

 騒ぐ子供。

 騒ぐ兵。

 騒ぐ女。

 ここはどこだ、と彼女は思う。

 これは、一体なんだ? 自らに問いかける。

『お前は、幼い頃から全て理解していたのではないのかね?』

 彼女の心の中から、声が聞こえた。

『誰に教えられるでもなく、言葉を知ったお前は、自分が異常であることを知っている』

 それは知識という名の声だった。

 あらゆる書物が彼女に与えた、知識という名の彼女の全てだった。

『そうでありながら、どうしてこの光景は受け入れられないのだね?』

 それでようやく彼女は理解する。ここが戦場であるのだと。

 そうであるならば、人々が苦しみ、こうして声を張り上げるのも当然のことだった。

『理解したか。それでは一つばかりおかしなことがないかね?』

「おかしなこと?」

自然、彼女の口から声が漏れた。

『今まで書物わたしが与えた知識の中で、君の行動に矛盾がないかね?』

書物あなたが私に与えたものの中で、矛盾するもの?」

『君にとって王はいるかね? その身を全て捧げてもその者の命に従うという相手が』

「いない。そんなものは生まれてこのかた見たことがない」

 いやそもそも、彼女が『書物』とで出会った後に始めて見えた命ある存在が、目の前にで苦しむ人間達だ。 幼い頃自分を育てたであろう女性の存在は、彼女が書を読み始める前にしか顔を会わせていない。

『ならば君は人間だ。魔族ではないのだから』

「なるほど。魔族でないのであれば、今の世界で言葉を操る存在は人間だけということにはなる」

『人間には感情がある。いかに今の世のように使い捨てられ、道具のように扱われようと、確としてそれはあるのだ』

 彼女は思い出す。もう何年前に読んだかも分からない政策について記した書物の一文を。

いわく―――人間というものは魔族と違い、生まれた時より栄養だけを与え続け、後は出来る限り放置すると丸っきり赤子のままのように育つ。過去兵を量産するために強制的に孕まされる女が同時に反発したことがあった。それに対し、上記のような方法を取ったことがある。知識的な接触を何一つ行わせず、肉体だけを成長させ、子をなせる体となったところで種付けを行うというものである。しかし不思議なことに男達が近づいた瞬間、その赤子にも似た女達は逃げ出した。言葉も話せず、服を着ることもなかったその女達は、しかし他者と初めて触れ合ったその時に、奇声を発し逃げ始めた。言葉が使えるかどうかの差だけなのではないか。結局の所、知識や知能は発達せずとも、年月と共に『感情』は育っていくのではないか。そしてそれは、当人達がその感情の『捌け口』とであった時に初めて発露するものなのではないか?

「なるほど……、そうかもしれない」

 燃え盛る焔の中で、朽ちていく生命をその眼のうちに捉えながら、彼女は呟いた。

「私にもどうやら、一つ感情が芽生えたらしい」

 そう彼女が自覚した瞬間、『書物』の声は聞こえなくなる。自分の内に知識という名の他者を用意せずとも、彼女には既に感情がある。

「あなたの与えてくれた知識を、この世界で確かめたい」

 二十をゆうに過ぎている彼女が抱いた感情は、世界が広がった子供が抱くに等しい、当然のものであった。



 牡丹は焼け落ちたアズサラムの廃墟を歩いている。墨とかしているのが木なのか人なのかも定かではない。何かを探すようにきょろきょろと歩き回る小さな牡丹の後ろを、黒い巨人である射絶が億劫そうについていく。

敬心は万の軍を率いて出陣したが、結局は敬心単機でアズサラム城は陥落した。が、敬心は暫くその場に軍を留めることとし、野営の準備を始めた。新たな魔王が騒ぎに気付いて現れはしまいか、という淡い期待をもってのことである。

「ついてきてはみたものの、やっぱり中々ピンとこないなぁ」

「おめーがさっさと庵考様の遺したものに気付くなり、或いは本当は何もありませんでした、ただのクソガキでしたって証明できれば俺もこんなかったるいことしなくてすむんだがな」

「なんだかいつも以上に冷たいですね、射絶さん……」

 人間並みの戦闘力しか持たないからか、牡丹は誰に対しても基本弱気である。が、生まれてからすぐ護衛につけられた射絶とは付き合いが長いせいか、多少は砕けて話すことが出来た。

「そりゃそうだ。久々に戦場に出るんだと思ってたら、敬心の旦那一人で全部すませちまいやがった。拍子抜けったらねーぜ」

 あれだけの殺戮を行いながら気分が悪いと評した敬心とは対照的に、射絶は戦いを好んだ。

「ここは魔族の力を極端に抑える退魔聖域の中だぜ? 化け物だなあの御仁は」

 射絶自身が、ただその場にいるだけで重りでもつけられているかのような感覚を持っている。それだけで体力を消費するような類のものではなく、人間相手にそれを口で説明するのは酷く難しいものではあるが、ようするに居心地が悪く、何かをやろうにも全力が出せない場所であるのだ。

「わたしにも、何かがあるんでしょうか」

 魔王が手順を踏んで産んだわけではない以上、牡丹が庵考の感情から産み落とされた魔族であることは間違いない。しかし同じ生まれ方をした敬心と、あまりにも全てが違いすぎた。

「さてな……。それを考えるのがてめーの仕事だろうが。俺みたいな一般魔族には縁の無い話だがよ」

 対して射絶は『繭』で生まれた圧倒的多数を占める魔族の側である。本来魔王が子である魔族を生み出すには繭を作成し、彼らはそこから生まれてくる。

「それにしても庵考様が亡くなられて一年になるというのに、次代の魔王様はどこにいらっしゃるんでしょうね」

 ガルムレインで生まれて早々に隠遁生活を送っていることを、牡丹が知るはずもない。

「東方でも見つかっちゃいないんだろう?」

「敬心様にはそう伺っていますが」

 ミルスタイン本国を守る退魔聖域のあるこの一体は大陸の西方に当り、東方には広大な土地が広がっている。人と魔の戦争が始まる前は人間達が大部分を支配していたが、今はその影はない。魔族達も人間との戦争のため大半が西方に集まっており、広大な東方の地は、普段無人である。敬心は魔王が東方に生れ落ちた可能性を考え、兵の一部を捜索にあたらせてはいたが、当然ながら成果は上がっていない。

「目立つ筈なんだがなぁ。圧倒的存在感に加えて黒髪に黒の瞳」

「そうですよねぇ。丁度あんな感じで……」

 牡丹が足を止め、一つの廃墟の上を指差す。

「そうだな。丁度あんな感じだろうな―――ってぇ!?」

 牡丹の指の先に視線をやった射絶が嬌声をあげる。

 そこに黒髪の彼女がいた。彼女は一糸も纏わぬままに一夜をその場に立ち尽くし過ごした。それがそれまでの彼女の生涯の伴侶である書物達との別れの時間であったのか。あるいは何をして良いのかがはっきりとしなかったのか、それは分からない。

「魔王さま!」

 彼女の元へ牡丹が走る。呆けていた射絶も慌ててそれに続いた。

「魔王さま、まさかこのようなところにいらっしゃるなんて!」

 牡丹は彼女の前まで止まり、喜びの声をあげる。

「―――魔王?」

 彼女は一瞬考えて、すぐに理解する。

「私は魔王ではない」

 何故ならば、彼女は人の腹から生まれているし、翼も角も持ってはいない。

「記憶が曖昧になられていらっしゃるのかもしれませんな。射絶と申します。以後お見知りおきを」

 射絶は立ったまま頭を下げ、礼を示した。平伏はしない。彼らが膝を折るのは、自らの主に対してだけである。

「私は牡丹といいます!」

 牡丹は緊張と照れを含んだ笑みを浮かべながら、彼女が決まってする敬礼をした。

「ともかく、我らが陣に来ては頂けませんか」

「―――なるほど、行こう」

 彼女はすぐにそう答えた。目の前の存在が初めて見る魔族というもので、彼らが自分のことを魔王と誤解しているのは分かった。が、数十年ぶりに彼女に声をかけた初めての存在。それが牡丹と射絶であったのは、彼女にとっては真実である。言葉を交わしたのもそうだ。今までに感じたことの無い何かが、彼女の中に生まれていた。それが喜であり、嬉であり、楽であることは、彼女はまだ知らない。

「では、ご案内いたします。申し訳ございませんが、これが飛べないものでして……。徒歩でもよろしいでしょうか」

 顔をしかめつつ、射絶は横にいる牡丹を指す。

「これとか言わないでくださいよ」

 牡丹の声には不満のそれが混じってはいるが、酷く弱い。魔族でありながら空を飛べない彼女は、今回の行軍において射絶に抱えられてついてきた。その射絶に対して強く反論できないのも当然だろう。

「かまわない。私も飛ぶことは出来ないしな」

「お戯れを……。お召し物を用意したいところですが手持ちがありません。陣につくまでお待ち下さい」

 射絶は上半身に何も纏わず、その隆々たる黒い筋肉を外気に晒している。裸である彼女に対し、渡せるものは何も無い。

「かまわない。行こう」

「ご案内します」

 射絶はそういう彼女に一礼し、歩き出した。その後ろを黒髪の女と牡丹がついていく。

「一つ聞くが、私に角も翼も無いのが不思議には思わないのか?」

 裸足の女が墨とかした何かを踏みつけ進む。それを厭わず、また傷つかないことが、射絶には彼女が魔王であることの証に見えた。普通の人間ならばこうはいかない。

「魔族と違い、王は自らの意思で翼と角を消すことが出来るそうです。庵考様がそれをなさったことはありませんが」

 射絶がそれを知っているのは、生まれた時に世界から与えられた知識であり、彼自身が目にしたものではない。

「ですから翼が無いという否定的要素よりも、黒髪であるという肯定要素の方が大きいかと」

「私自身が違うと言っているのだが」

 黒髪の彼女が誘われるままについていっているのは、単純に誰かとともにいることが新鮮であったからだろう。孤独というものを感じることが出来ないほどに、彼女は常に孤独であったからだ。だから別に彼女は魔王に祭り上げられたいわけでもなく、誤解は解いておきたかった。

「失礼ですが、記憶が混乱なされているのだと私は考えております。それに魔王という存在がどうやって世界から産み落とされるのかは、我々も知りません。何か異例なことでもあったのかもしれませんしな」

「―――なるほど」

 射絶の言葉に彼女は頷いた。これまでの生全てを書物とすごしてきた彼女は、感情を排した理論的な考え方をする。確かに彼女は人間の腹から生まれたが黒髪である。人間の腹から生まれたものは人間であるが、黒髪を持つ者は元来魔王であるはずである。相反する事象が同時に成立している以上、それまでの常識では語れない異例ということである。そうである以上、彼女自身、自分が魔王である可能性に関しても否定しきれないことを理解した。

「それを確かめる術はあるのだろうか」

 疑問が浮かべば答えを求める。項を捲れば答えを与えてくれる書物と過ごしてきた彼女は、その傾向が人一倍強いのかもしれない。

「さて、私には思いつきませんが」

「そうか……」

 それきり彼女は口を閉ざした。射絶もまた話しかけなかった。

 三人はただ陣までの道を歩いていく。空を飛ぶわけでも、駆けるわけでもないから少しばかり時間がかかりそうだった。

「お名前は何とおっしゃるのですか?」

 暫くして、牡丹が彼女に問いかけた。

「名前」

 彼女は呟き、考える。名前というものは他者と区別するために与えられる。彼女には長年必要が無かったものである。

「名前は無い。与えられていない」

 それは彼女からすれば父であるカズラから与えられなかったという意味だが、牡丹と射絶には別の意味に聞こえる。魔族は生まれながらに名がある。言い方を変えれば、世界が名を与えるに等しく、生まれた時には自らの名を知っている。

「やはりご記憶が曖昧なのではございませんか」

「意識ははっきりしているつもりだが、まあいいか」

 射絶に説明しても理解は得られないだろうと、彼女は思った。どうも射絶は彼女を魔王だと信じ込んでいるのだと彼女にも分かった。

「お名前が無いと不便ですよねぇ。何とお呼びすればいいですか?」

 問いかける牡丹を見て、彼女は名前のことではなく、よく笑うものだと別のことが頭に浮かんだ。魔族とは感情が希薄であり、固体によっては無いと言い切れるとまで書物にはあったが、目の前の牡丹を見る限りとてもそうは思えなかった。

「好きに呼ぶといい」

 楽しければ笑う。嬉しければ笑う。喜べば笑う。そういうものであることを彼女は知っている。ただ、それがどういう感情であるのか、まだ知らない。それでも

「いや」

 孤独を感じることすら出来なかった彼女にとって、会話というものが心躍らないものであるはずもなかった。

「無いと不便であろうし、考えてはおこう」

 それはすなわち、これからも牡丹達と付き合いたいという、彼女の意思の裏返し。

「はい!」

 満面の笑みを浮かべる牡丹を見て、彼女もまた薄く微笑んだ。自分の口元が歪んでいるのに彼女は気づく。そうしてようやく、自分が今感じているものこそが、嬉しく、楽しいというものなのだと理解した。

 彼女が薄暗い階段を登りきったその先には、まだ人間がたくさんいた。彼女の全身を覆う炎は、彼女の衣服を燃やしても、その髪を焦げ付かせることできなかった。

「やはり駄目です! 外には魔軍がおります! 退却も不可能です」

「ならばこのまま燃え尽きろというのか!」

「うわぁぁぁん。熱いよぉ。熱いよぉ」

「熱い、熱い、あつ……」 

 騒ぐ子供。

 騒ぐ兵。

 騒ぐ女。

 ここはどこだ、と彼女は思う。

 これは、一体なんだ? 自らに問いかける。

『お前は、幼い頃から全て理解していたのではないのかね?』

 彼女の心の中から、声が聞こえた。

『誰に教えられるでもなく、言葉を知ったお前は、自分が異常であることを知っている』

 それは知識という名の声だった。

 あらゆる書物が彼女に与えた、知識という名の彼女の全てだった。

『そうでありながら、どうしてこの光景は受け入れられないのだね?』

 それでようやく彼女は理解する。ここが戦場であるのだと。

 そうであるならば、人々が苦しみ、こうして声を張り上げるのも当然のことだった。

『理解したか。それでは一つばかりおかしなことがないかね?』

「おかしなこと?」

自然、彼女の口から声が漏れた。

『今まで書物わたしが与えた知識の中で、君の行動に矛盾がないかね?』

書物あなたが私に与えたものの中で、矛盾するもの?」

『君にとって王はいるかね? その身を全て捧げてもその者の命に従うという相手が』

「いない。そんなものは生まれてこのかた見たことがない」

 いやそもそも、彼女が『書物』とで出会った後に始めて見えた命ある存在が、目の前にで苦しむ人間達だ。 幼い頃自分を育てたであろう女性の存在は、彼女が書を読み始める前にしか顔を会わせていない。

『ならば君は人間だ。魔族ではないのだから』

「なるほど。魔族でないのであれば、今の世界で言葉を操る存在は人間だけということにはなる」

『人間には感情がある。いかに今の世のように使い捨てられ、道具のように扱われようと、確としてそれはあるのだ』

 彼女は思い出す。もう何年前に読んだかも分からない政策について記した書物の一文を。

いわく―――人間というものは魔族と違い、生まれた時より栄養だけを与え続け、後は出来る限り放置すると丸っきり赤子のままのように育つ。過去兵を量産するために強制的に孕まされる女が同時に反発したことがあった。それに対し、上記のような方法を取ったことがある。知識的な接触を何一つ行わせず、肉体だけを成長させ、子をなせる体となったところで種付けを行うというものである。しかし不思議なことに男達が近づいた瞬間、その赤子にも似た女達は逃げ出した。言葉も話せず、服を着ることもなかったその女達は、しかし他者と初めて触れ合ったその時に、奇声を発し逃げ始めた。言葉が使えるかどうかの差だけなのではないか。結局の所、知識や知能は発達せずとも、年月と共に『感情』は育っていくのではないか。そしてそれは、当人達がその感情の『捌け口』とであった時に初めて発露するものなのではないか?

「なるほど……、そうかもしれない」

 燃え盛る焔の中で、朽ちていく生命をその眼のうちに捉えながら、彼女は呟いた。

「私にもどうやら、一つ感情が芽生えたらしい」

 そう彼女が自覚した瞬間、『書物』の声は聞こえなくなる。自分の内に知識という名の他者を用意せずとも、彼女には既に感情がある。

「あなたの与えてくれた知識を、この世界で確かめたい」

 二十をゆうに過ぎている彼女が抱いた感情は、世界が広がった子供が抱くに等しい、当然のものであった。



 牡丹は焼け落ちたアズサラムの廃墟を歩いている。墨とかしているのが木なのか人なのかも定かではない。何かを探すようにきょろきょろと歩き回る小さな牡丹の後ろを、黒い巨人である射絶が億劫そうについていく。

敬心は万の軍を率いて出陣したが、結局は敬心単機でアズサラム城は陥落した。が、敬心は暫くその場に軍を留めることとし、野営の準備を始めた。新たな魔王が騒ぎに気付いて現れはしまいか、という淡い期待をもってのことである。

「ついてきてはみたものの、やっぱり中々ピンとこないなぁ」

「おめーがさっさと庵考様の遺したものに気付くなり、或いは本当は何もありませんでした、ただのクソガキでしたって証明できれば俺もこんなかったるいことしなくてすむんだがな」

「なんだかいつも以上に冷たいですね、射絶さん……」

 人間並みの戦闘力しか持たないからか、牡丹は誰に対しても基本弱気である。が、生まれてからすぐ護衛につけられた射絶とは付き合いが長いせいか、多少は砕けて話すことが出来た。

「そりゃそうだ。久々に戦場に出るんだと思ってたら、敬心の旦那一人で全部すませちまいやがった。拍子抜けったらねーぜ」

 あれだけの殺戮を行いながら気分が悪いと評した敬心とは対照的に、射絶は戦いを好んだ。

「ここは魔族の力を極端に抑える退魔聖域の中だぜ? 化け物だなあの御仁は」

 射絶自身が、ただその場にいるだけで重りでもつけられているかのような感覚を持っている。それだけで体力を消費するような類のものではなく、人間相手にそれを口で説明するのは酷く難しいものではあるが、ようするに居心地が悪く、何かをやろうにも全力が出せない場所であるのだ。

「わたしにも、何かがあるんでしょうか」

 魔王が手順を踏んで産んだわけではない以上、牡丹が庵考の感情から産み落とされた魔族であることは間違いない。しかし同じ生まれ方をした敬心と、あまりにも全てが違いすぎた。

「さてな……。それを考えるのがてめーの仕事だろうが。俺みたいな一般魔族には縁の無い話だがよ」

 対して射絶は『繭』で生まれた圧倒的多数を占める魔族の側である。本来魔王が子である魔族を生み出すには繭を作成し、彼らはそこから生まれてくる。

「それにしても庵考様が亡くなられて一年になるというのに、次代の魔王様はどこにいらっしゃるんでしょうね」

 ガルムレインで生まれて早々に隠遁生活を送っていることを、牡丹が知るはずもない。

「東方でも見つかっちゃいないんだろう?」

「敬心様にはそう伺っていますが」

 ミルスタイン本国を守る退魔聖域のあるこの一体は大陸の西方に当り、東方には広大な土地が広がっている。人と魔の戦争が始まる前は人間達が大部分を支配していたが、今はその影はない。魔族達も人間との戦争のため大半が西方に集まっており、広大な東方の地は、普段無人である。敬心は魔王が東方に生れ落ちた可能性を考え、兵の一部を捜索にあたらせてはいたが、当然ながら成果は上がっていない。

「目立つ筈なんだがなぁ。圧倒的存在感に加えて黒髪に黒の瞳」

「そうですよねぇ。丁度あんな感じで……」

 牡丹が足を止め、一つの廃墟の上を指差す。

「そうだな。丁度あんな感じだろうな―――ってぇ!?」

 牡丹の指の先に視線をやった射絶が嬌声をあげる。

 そこに黒髪の彼女がいた。彼女は一糸も纏わぬままに一夜をその場に立ち尽くし過ごした。それがそれまでの彼女の生涯の伴侶である書物達との別れの時間であったのか。あるいは何をして良いのかがはっきりとしなかったのか、それは分からない。

「魔王さま!」

 彼女の元へ牡丹が走る。呆けていた射絶も慌ててそれに続いた。

「魔王さま、まさかこのようなところにいらっしゃるなんて!」

 牡丹は彼女の前まで止まり、喜びの声をあげる。

「―――魔王?」

 彼女は一瞬考えて、すぐに理解する。

「私は魔王ではない」

 何故ならば、彼女は人の腹から生まれているし、翼も角も持ってはいない。

「記憶が曖昧になられていらっしゃるのかもしれませんな。射絶と申します。以後お見知りおきを」

 射絶は立ったまま頭を下げ、礼を示した。平伏はしない。彼らが膝を折るのは、自らの主に対してだけである。

「私は牡丹といいます!」

 牡丹は緊張と照れを含んだ笑みを浮かべながら、彼女が決まってする敬礼をした。

「ともかく、我らが陣に来ては頂けませんか」

「―――なるほど、行こう」

 彼女はすぐにそう答えた。目の前の存在が初めて見る魔族というもので、彼らが自分のことを魔王と誤解しているのは分かった。が、数十年ぶりに彼女に声をかけた初めての存在。それが牡丹と射絶であったのは、彼女にとっては真実である。言葉を交わしたのもそうだ。今までに感じたことの無い何かが、彼女の中に生まれていた。それが喜であり、嬉であり、楽であることは、彼女はまだ知らない。

「では、ご案内いたします。申し訳ございませんが、これが飛べないものでして……。徒歩でもよろしいでしょうか」

 顔をしかめつつ、射絶は横にいる牡丹を指す。

「これとか言わないでくださいよ」

 牡丹の声には不満のそれが混じってはいるが、酷く弱い。魔族でありながら空を飛べない彼女は、今回の行軍において射絶に抱えられてついてきた。その射絶に対して強く反論できないのも当然だろう。

「かまわない。私も飛ぶことは出来ないしな」

「お戯れを……。お召し物を用意したいところですが手持ちがありません。陣につくまでお待ち下さい」

 射絶は上半身に何も纏わず、その隆々たる黒い筋肉を外気に晒している。裸である彼女に対し、渡せるものは何も無い。

「かまわない。行こう」

「ご案内します」

 射絶はそういう彼女に一礼し、歩き出した。その後ろを黒髪の女と牡丹がついていく。

「一つ聞くが、私に角も翼も無いのが不思議には思わないのか?」

 裸足の女が墨とかした何かを踏みつけ進む。それを厭わず、また傷つかないことが、射絶には彼女が魔王であることの証に見えた。普通の人間ならばこうはいかない。

「魔族と違い、王は自らの意思で翼と角を消すことが出来るそうです。庵考様がそれをなさったことはありませんが」

 射絶がそれを知っているのは、生まれた時に世界から与えられた知識であり、彼自身が目にしたものではない。

「ですから翼が無いという否定的要素よりも、黒髪であるという肯定要素の方が大きいかと」

「私自身が違うと言っているのだが」

 黒髪の彼女が誘われるままについていっているのは、単純に誰かとともにいることが新鮮であったからだろう。孤独というものを感じることが出来ないほどに、彼女は常に孤独であったからだ。だから別に彼女は魔王に祭り上げられたいわけでもなく、誤解は解いておきたかった。

「失礼ですが、記憶が混乱なされているのだと私は考えております。それに魔王という存在がどうやって世界から産み落とされるのかは、我々も知りません。何か異例なことでもあったのかもしれませんしな」

「―――なるほど」

 射絶の言葉に彼女は頷いた。これまでの生全てを書物とすごしてきた彼女は、感情を排した理論的な考え方をする。確かに彼女は人間の腹から生まれたが黒髪である。人間の腹から生まれたものは人間であるが、黒髪を持つ者は元来魔王であるはずである。相反する事象が同時に成立している以上、それまでの常識では語れない異例ということである。そうである以上、彼女自身、自分が魔王である可能性に関しても否定しきれないことを理解した。

「それを確かめる術はあるのだろうか」

 疑問が浮かべば答えを求める。項を捲れば答えを与えてくれる書物と過ごしてきた彼女は、その傾向が人一倍強いのかもしれない。

「さて、私には思いつきませんが」

「そうか……」

 それきり彼女は口を閉ざした。射絶もまた話しかけなかった。

 三人はただ陣までの道を歩いていく。空を飛ぶわけでも、駆けるわけでもないから少しばかり時間がかかりそうだった。

「お名前は何とおっしゃるのですか?」

 暫くして、牡丹が彼女に問いかけた。

「名前」

 彼女は呟き、考える。名前というものは他者と区別するために与えられる。彼女には長年必要が無かったものである。

「名前は無い。与えられていない」

 それは彼女からすれば父であるカズラから与えられなかったという意味だが、牡丹と射絶には別の意味に聞こえる。魔族は生まれながらに名がある。言い方を変えれば、世界が名を与えるに等しく、生まれた時には自らの名を知っている。

「やはりご記憶が曖昧なのではございませんか」

「意識ははっきりしているつもりだが、まあいいか」

 射絶に説明しても理解は得られないだろうと、彼女は思った。どうも射絶は彼女を魔王だと信じ込んでいるのだと彼女にも分かった。

「お名前が無いと不便ですよねぇ。何とお呼びすればいいですか?」

 問いかける牡丹を見て、彼女は名前のことではなく、よく笑うものだと別のことが頭に浮かんだ。魔族とは感情が希薄であり、固体によっては無いと言い切れるとまで書物にはあったが、目の前の牡丹を見る限りとてもそうは思えなかった。

「好きに呼ぶといい」

 楽しければ笑う。嬉しければ笑う。喜べば笑う。そういうものであることを彼女は知っている。ただ、それがどういう感情であるのか、まだ知らない。それでも

「いや」

 孤独を感じることすら出来なかった彼女にとって、会話というものが心躍らないものであるはずもなかった。

「無いと不便であろうし、考えてはおこう」

 それはすなわち、これからも牡丹達と付き合いたいという、彼女の意思の裏返し。

「はい!」

 満面の笑みを浮かべる牡丹を見て、彼女もまた薄く微笑んだ。自分の口元が歪んでいるのに彼女は気づく。そうしてようやく、自分が今感じているものこそが、嬉しく、楽しいというものなのだと理解した。


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