2-2 黒髪の女
地下書庫と外を繋ぐ唯一の穴からいつものように食事が差し出される。彼女はいつものようにそこから食事を取り出す。名前は無い。そもそも呼ばれたこともないし、彼女自身自分の名前など知らなかった。知らないというよりも無いというほうが的を得ているだろう。
生活に不自由を感じたことはない。
退魔聖域の範囲の端にあるこのアズサラム城の地下書庫に幽閉され続け、既に何年になるかは分からない。いかんせん、彼女は太陽の光というものを生まれてすぐここに入れられた後、見たことがないのだ。
良く生きているものだと、彼女は自分でも思った。
水だけは自由に汲み出せる場所があるにはあるが、そういう話ではない。
彼女にとって幸いだったことは幽閉された場所が書庫であったことだ。彼女は片っ端から書物を読み続けた。その内に余計、自分が異常であることを理解させられた。今のこの環境は、常人に耐えられるものではないということを、彼女が書物より知りえた知識が教えていた。
生まれて何年経つかも彼女は覚えていないが、書物で読む限りの平均的な人間の成長と見比べれば、既に成人しているのであろうということくらいしか彼女は認識していない。二十年という月日は経過しているのではないのか、と思うくらいだ。
しかし平均的な人間の成長と比べることに意味などないのかもしれない。彼女は自分が本当に人間であるかにも疑いを持っていたからだ。
幸いにもまだまだ地下にある書物は読みきれなかった。人生の殆どを読書に費やしてきたにも関わらず、まだ読み終わった本は三割といったところだった。まだ見ぬ書を読み解いていけば、何か答えが見つかるかもしれない。それにしても自分を捨てるためだけにこれだけの書物を数十年誰も利用しないとは、何という宝の持ち腐れだろうと彼女は思った。
物心がついた頃には既にここにいた。不思議なことではあったが、彼女は誰に教えられるでもなく、言葉というものを理解できた。その点についても、彼女が自分を人間であるのか疑っている点の一つである。書物にある人間とは、教えられて初めて言葉を覚えるものだからだ。
一人だけ、この場に来る人間がいたことも覚えている。物心がつく前、その女性が自分を育てたのだろうと彼女は考えていて、事実その通りだった。しかし普通の人間よりはるかに成長の早い彼女が、一人で歩き、食事を取るようになってから、その女性は現れなくなった。今ではこの場を訪れる者は存在せず、一つだけある動物が出入りするための代物のような扉から、ある一定の時間を置いて衣服と食事が放りこまれるだけだ。
その衣服と食事が無くなるから彼女は生きていると判断され、食事と衣服が届き続けている。
通常の人間の子供であれば四つの手で這うまでに半年程度の時を要し、二つの足で歩くのに一年以上かかる。時間というものに触れたことがない彼女には、正確にその意味を理解することはできなかったが、すくなくともそう短い時間ではないことは理解できた。
生まれてすぐ言語を理解し、自らの足で歩む人間などいない。それはそう。まるで書物にある魔族のようだと彼女は思った。だが彼女には角も無ければ翼もない。
ただ一つ、人よりも魔に近いであろう点を彼女からあげるとするのであれば……。
彼女はただ一枚だけこの大書庫にある鏡の前に立ち、自らの姿を見る。
書物にはこうある。
『魔族、人間、古くは聖人を含めても、髪の色というものは朱、銀、茶、緑、多数存在したが、黒髪だけは存在しない。ただ一人、魔族の王足る者を除いては』
彼女が忌み子と言われ、ここに幽閉された理由はその書物を読んだ後理解出来た。
別段彼女は父を恨んでもいないし、今の生活にも不満もなかった。
ただ時折ふと思った。
彼女は人間との付き合いをしたことがないから、今一感情というものは理解できなかったが、書物の小説などから得た知識からすれば
人間の王から黒髪の娘が生まれるとは―――ああ、それは何と言う皮肉であろう。
それは戦争ではなく、戦闘でもなく、殺戮であった。過去存在した魔族の中で、最も多く人間を屠ったであろうと呼ばれる悪魔、敬心の存在がある。肉体に特化した魔族や、伊礼のように精神に特化した魔族。一般の魔族兵と違い、魔王の感情より産み落とされる魔族達はその王の抱いた感情により、その在り様が変わる。彼の父、魔王庵考が生まれて始めて何を感じ、敬心という存在を産み落としたのかは今は触れない。ただ敬心という魔族が極端に現象における魔術を広範囲に生み出すことに特化していたというだけの話である。
繰り返すが、それは戦争ではありえなかった。軍を引き連れてアズサラムへいたった敬心は、しかし単機でもってアズサラム城の上空へ向かった。先に語ったように、階層の存在しない人間様式のアズサラム城の上から、両の手に幾度も火球を生み出しては、それを下へと放り投げた。魔族の襲撃を予想していないこの城と町は一瞬で火の海とかした。元より戦略的拠点でありえないアズラサム城には、防火の準備が無く、消火するべき兵の数も極端に少ない。成人男子は『全て』兵役を課せられるミルスタイン王朝の中で、兵がいないということは即ち女子しかいないということである。
「気分が悪いものだ……」
熱風吹き上がるアズサラム城の上空で、敬心は呟いた。逃げ惑う女子供を敬心は見下ろす。火の海から逃げた先には敬心の引き連れてきた軍がいる。火に焼かれて死ぬか、魔族兵に裂かれて死ぬか。この場にいる人間の全ては、その二択より逃れる術を持たない。
「そういえば庵考様も、嬉々として人を殺していたことなど無かったな」
敬心の表情に色は無い。魔王庵考は産み落とされた瞬間に名由佳同様に人間より襲撃を受け、その全てを屠った。そうして庵考にとって人間は敵となった。その庵考の子である敬心達もまた、生まれたときより人間は敵である。これだけ凄惨な殺戮を行いながら、彼ら魔族の誰一人として、人間への憎しみを持っていない。魔族とは、つまりはそういうものである。王こそが全てであり、彼らには感情というものが酷く希薄なのだ。そんな彼らが再び退魔聖域内に進行した理由は、庵考の遺言に他ならない。
『人王カズラを屠れ』
それこそが庵考が今際の瞬間に、敬心たち彼の子に残した遺志だった。
「戦火や、盛りて届け王の下」
韻を踏みつつ敬心はそう口にし、アズサラム城の上空を去った。
眼下に響く女達の悲鳴は、彼の耳には届かない。
女は僅かに喉に渇きを覚え、書物を置き、蛇口のある方へと向かう。ついでに食事もすませようと女は考える。万を超える書物が収められるこの地下はかなり広く、納められている棚のすぐ傍で本を読む習慣がある女は、食事の届く音には気づかない。食べたくなれば取りにいく。
「―――何?」
少し騒がしく、女には感じられた。そんなことはこの場に幽閉されてから初めてのことであった。一般人の居住地とは隔離されている上、地下にあるここには、生活の音などは届かない。
「熱い」
そう感じた。だからこそ喉が渇いたのであると、女は理解する。
食事を放り込まれる穴までたどり着くと、彼女の目にしたことの無い光景が広がっていた。常に暗く、深淵であった穴に、今は眩いほどの光が溢れている。それが炎であるのだと、彼女は少し考えてから把握する。熱く揺らめき輝くものと言えば炎である。見たことは無くとも、万の書物を読んだ彼女は、それを知っている。
穴から侵食を始めた炎は凄まじい勢いで燃え移り、書庫は炎に照らされる。炎という来訪者は、彼女に色々なことを教えた。
この地下書庫には、書物で言われる所の『明かり』というものが存在していなかったこと。そうであるならば、書物で言う『暗闇』という中で苦も無く生活を続けていたということ。そしてそれがやはりあまりに異常な環境であるのだということを、彼女は把握する。
「これが――――明かり」
思わず燃え盛る炎の一つを手に収めようとするが、炎を掴めるはずも無い。棚に燃え移った炎の中に、彼女は手をかざし続ける。
「そういえば焔は人を焦がすと読んだことがあるけれど、焦がすという程熱くは感じない」
しばらくの間彼女は炎の中に手をかざしていたが、少しずつではあるが、体のほうが拒否反応をおこしはじめているのを自覚する。それが炎が人を焦がすものでないわけではなく、彼女が異常であるからだとまでは、彼女は気付かなかった。
気がつけば焔は彼女の衣服さえ燃やしていた。
なるほど、全身が焔に包まれれば、それは多少熱いものであるのかもしれないと、彼女はようやく炎から手を引き抜いた。
炎を消すには水。これもまた彼女が書物で得た知識だった。水を飲むために行くはずだった場所へ行き、蛇口を捻り水を出し、それを体にかける。
普段水浴びをするよりも、余程心地良く彼女には感じられた。
彼女の身体は炎によって焼けなかったが、当然のことながら書庫はどんどんと燃えていく。
「―――消える」
今まで彼女の全てであった書物が燃えていく。一瞬、呆然とした。それは彼女の体が燃えないかわり、彼女の未熟な心とでも言うべきものが燃えていくかのようであった。
彼女は何かに気付き、蛇口から流れ出る水を書物という書物にかけ続けた。何かに取り付かれたようにその行為を続けるが、焔が消えることはない。
最初は穴の外側にしか見えなかった焔は、今はもう書庫の半分を紅蓮に変えていた。
そしてその焔はもう一つの事実を彼女に教えていた。
人間には不可能なことがあるのだと。
焔の中心を見つめると、紅蓮の来訪者を誘った穴の周りが崩れていた。
この炎を消すことができないことを、彼女は理解した。そうであるならば、外に出なければならないと彼女は思う。彼女をここに縛る理由はなくなったのだ。
紅蓮の焔の中に悠然と身を躍らせ、彼女は生まれて始めてその穴をくぐった。




