1部 黒髪二人 1話誕生
魔王庵考死すの報は、その日の内に人の世に駆け巡った。
人と魔との戦争が始まってから十世紀。初めて魔の王が寿命ではなく人の手により屠られた。魔族は屈強であり、人の力に十倍した。人は魔を恐れ、太古の王アンバスが人の世に残した魔族の力を弱める聖域の中で、攻め寄せる魔族の影に怯えながら毎日を暮らしていた。
魔王庵考の軍はかつてなく屈強であり、魔の力を極端に弱める退魔聖域の中にあって、人間の軍を圧倒した。現在の人類の唯一の国家であるミルスタインの王都まで迫り、人々は絶滅さえも覚悟した。
その庵考が人王カズラによって屠られたのだ。人々はその事実に喝采した。そして次代の魔王の姿を捜し求めた。魔の王が死ねば、世界のどこかに新たな魔の王がどこからともなく生まれてくる。魔王、魔族が次代の魔王を産み落とすに非ず、魔王とは世界に生み出されし存在である。即ち魔族とは滅びることあり得ず、その事実に人々は千年の時に戦い、疲れることに慣れてしまっていた。
しかし庵考をカズラが屠ったという事実が、人々を勇気付けていた。
『新たなる魔王を見つけ、殺さず活かさず監禁すれば、我らが待ち望んだ平和が手に入る。魔王を捜し、捕まえるべし』
庵考死すの報と共に各地にもたらされたその触れは、人々の心を掴んだ。
当然誰も見たことの無い次代の魔王の顔など誰も知らない。しかしその特徴は誰でも知っていた。黒い髪に黒い瞳。人は勿論、魔族ですら持つ者のいないその絶対的な特徴を、人々は求めれば良かったのだ。
何故生れ落ちたのか。それは人の子であれば幼さゆえに考えることあたわず、魔族であれば言うまでもない問いである。魔王は世界が生み出すが、魔族は王によって産み落とされる。魔族というものは生まれながらに人間でいう成人の姿であり、それ以降成長することは無い。言語も扱え、最低限の知識も有している。彼らは生れ落ちた瞬間より彼らが親、王への忠誠に支配されている。彼らが生まれた意味は王のためであり、彼らが生きる意味もまた王のためである。
では、魔の王はどうなのであろうか。世界に生み出されし魔の王は、生まれながらに考える力を有しながら、しかし何故自分が生み落とされたのかを理解できなかった。
世界に与えられた知識が、自らにたなびく黒髪をもって、自分が魔王であるのだと告げていた。
生まれながらに知識と歴史を持つ感覚というのは、人間には理解出来まい。
しかし彼女は庵考が人に屠られ、それが故に自らが生れ落ちたことを理解していた。
名由佳。頭の中に浮かんだその文字と音が、世界が自らに与えた名なのだと知る。魔族の王に相応しい、六枚の翼が彼女の背にはあった。しかし歴代の魔王と違い、竜や蝙蝠の持つような翼でなく白い羽毛が集まって出来た、翼というよりも羽のように見えるのが少しばかり名由佳には不思議だった。
生まれた場所はどこかの山の中のようだった。意識がはっきりとした時、名由佳は木々に囲まれた中にぽっかりと空いた場所の、岩の上に倒れていた。山であると思ったのは、大地が傾いていたからだ。木々が遮ることの空間に、真昼の太陽が照りつける。魔王が生まれたその時、日が真上にあるというのも滑稽なことだと彼女は思った。人は魔を総じて闇とし、夜と結びつけるものであることを彼女は知っていた。
白い絹で出来た二の腕と足元まであるローブを身に着けている。生まれながらに着衣している点には、違和感を覚えなかった。喉の渇きを覚え、彼女は歩き出す。翼で飛ぼうかとも考えたが、乱れ立つ木々が邪魔になりそうなので止めた。
知っている、出来るのに初めて歩く。それもまた不可思議な感覚だった。これから起こり、体験していく多くのことも、自分は知っているにもかかわらず初めて経験していくのだろうと想像すると、少しだけこれからの生が楽しく思えた。
そそり立つ木々。足元に生える草。所々顔を見せている花。時折顔を見せる小さな虫。どれもが初対面である。
木々の合間を縫って歩いていくと、水のせせらぎが聞こえてくる。彼女は歩くことが楽しくて、喉の渇きも忘れていた。当初の目的を思い出し、音のする方へ歩いていく。
音が大きくなるにつれ、視界に飛び込む光が増えていく。木の量が減っている。足に伝わる感触も、土の柔らかい感触から、だんだんと石ころや砂利の伝える硬いものへと変わっていた。
急に視界が開ける。小川というには少しばかり大きいかもしれない。
魔族であれば簡単だが、普通の人間ではぎりぎり飛び越えられないだろう川が流れていた。石の上を器用に歩き、名由佳は水へと近づいていく。水際にしゃがみこみ、右手をつける。冷たいと思うのも初めてのことだが、それは心地よいものなのだと頭に刻み込まれる。そのまま両の手ですくって口元に水を運ぶと、乾いた口の中が潤っていく。それがいかに感動的で、充足的であったかを表す言葉は、彼女はまだ知らなかった。
澄んだ水面に映る自らの姿を見る。
肌は酷く白く、作られた白である衣に負けないほどだった。それが漆黒の髪と対照的である。頭の黒髪の間から、白い角が一本生えていた。彼女の掌ほどの、そう大きくは無い角だった。それに対して髪は酷く長かった。背にある羽と触れ合って、少しばかりむず痒い。後で切ったほうが良いかもしれない、と名由佳は思う。
「―――ん」
それが、彼女が生まれて初めて発した声だった。一人の男がいた。茶の髪に白髪が混じり始めた初老の男が、名由佳のことを見ていた。名由佳、というよりも魔王である彼女からすれば、人間の気配に本来気づかないはずなどない。魔族は他者の気配に酷く敏感であるのだ。その王である名由佳がその男の気配に気づかなかったのは、よほど彼女の心が世界との対面に躍っていた証拠であるだろう。男の視線は名由佳の髪を追った後、背の翼、瞳へと移された。名由佳もまた、初めての人間を観察した。
男の手に釣り道具があるわけでもなく、背に薪を背負っているわけでもない。一体何の用でこんな場所にいるのか、名由佳には分からなかった。男と目が合った。初老の男は背を向けて駆け出す。声はあげていなかったが、名由佳は男が自分を恐れたのだろうと理解した。名由佳の中に、歴代の魔王に自然と生まれ出でる感情が沸きあがる。千年の時を魔と争い続けた人間を、憎いと思う心である。
背を見せて駆け出すその男を殺すのは、名由佳にとっては容易なことだった。彼女にとって人間などは脅威の対象でなく、手をかざすだけで切り裂くことが可能であり、魔術と呼ばれる魔族の象徴を相手に向かって行使するだけで、相手を屠ることが出来る。
左手に小さな火の玉が生まれ、照準を男の背に向けたところで、名由佳は手を止めた。自然、火球は彼女の手の中から消えている。男の姿が、木々の中へ消えた。彼女が火の玉を放てば、木々が燃える。生まれたばかりの自分を包んでくれたこの山に、そのような所為をするのにためらいが走った。追いかけて手で引き裂くのも簡単だが、それも億劫だった。小さく一つ息をついた名由佳は、すぐに別の視線を感じ取った。見られていることを自覚する。突如自分のやってきた方とは逆の木々の合間に、人の気配が現れた。そう遠くはない。その距離から考えて、今まで相手に観察されていたようだ。それに気づかなかった自分にはよほど緊張感が足らないのだと名由佳は思ったが、同時に先ほどの男とはまるで違う、野生の動物かと勘違いさせるほど静かな気配を不思議に思った。それにこの距離に入るまで気づかなかったのに、いきなりその場に気配が現れたということは、相手は突如気配を消すのを止めたことになる。
「へぇ……。あんたまさか魔王様かい」
名由佳が視線に気づいたことに、相手もすぐに気づいたようだ。木々の合間から聞こえてきたのは少し高めな少年の声だった。




