泥棒! :約5500文字
「泥棒!」
その声に、おれは思わず足を止めた。
夜中の帰り道、コンビニの前に差しかかったときだった。背後から突然、女のしわがれた声が突き刺さったのだ。
振り返ると、そこには腰の曲がった小柄な老婆が立っていた。上下ともにくすんだ色合いの服にサンダル履きで、裾から覗く細い足首が小刻みに震えていた。
他の通行人も足を止めて振り返り、コンビニの前でたむろしていた若者たちも会話を中断して、「おっ」と顔を向けていた。
しかし……泥棒とはいったい誰のことだ?
老婆はこちらを睨みつけているが、おれの横を誰かが逃げるように走り去ったわけでもなければ、ひったくりらしいバイクが通り過ぎたわけでもない。
「この、泥棒!」
おれが首をかしげた、そのときだった。老婆は腹の底からひり出すように、そう怒鳴った。
おれは反射的に後ろを振り返った。が、やはりそれらしい人影は見当たらない。走って逃げる者も、足早に立ち去ろうとする者もいなかった。ただ、会社員風の男がすっとスマートフォンを構えただけだ。
もう一度老婆のほうを向くと、老婆は一歩前に進み出て、枯れ枝のように細い腕をゆっくりと持ち上げた。
「泥棒!」
……いや、おれ?
おれはぎょっとし、目を見開いた。老婆の震える指先は、おれの胸をまっすぐ指していたのだ。
「あの、え?」
おれは戸惑いながらも、どうにか口角を持ち上げ、愛想笑いを浮かべた。
「えっと、人違いだと思いますけど……」
刺激しないよう声を抑え、おれは老婆に一歩近づいた。だが、老婆はまるで犬のように顔を歪め、いっそう強くこちらを睨みつけた。半開きの口元からは、今にも涎が垂れそうだった。
これは……あれだな。
おれは小さく息をついた。
十中八九、被害妄想だ。くたびれた服に逆立ったぼさぼさの髪、険しい顔つき、異様な雰囲気――かわいそうなことに、ボケているのだ。
徘徊老人というやつかもしれない。今頃、家族が血相を変えて探しているのかも。そういえば、駅を出たときに行方不明者を知らせる町内放送が流れていたような、いなかったような。
もう一度放送されないだろうか。そんなことを考えながら、何気なくおれは周囲を見回した。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
周囲の人々が皆、スマートフォンを構えていたのだ。先ほどの会社員風の男をはじめ、足を止めた通行人たちがいつの間にかおれを囲い、無数の黒いレンズを向けていた。
これは、まさか……撮られているのか?
「泥棒! 泥棒!」
老婆が声を張り上げると、周囲から「おお……」とどよめきが漏れた。確信を得たかのような響きだった。
コンビニの前にいた若者たちも、いつの間にかこちらへ近づいてきており、にやにやと笑いながらスマートフォンを掲げ、おれの顔を画面に収めようとしていた。
「ちが、違いますよ!」
おれは慌てて腕で顔を覆った。
「あんたは泥棒だ! 間違いない! この泥棒!」
老婆はさらに声を荒げ、指を突きつけたまま叫び続けた。
周囲から「マジ……?」「スリ?」「犯罪者」といった声が上がり、葉擦れのようにざわざわと広がっていった。
「と、とにかく違いますから」
おれはそう言うと、踵を返して歩き出した。話が通じそうな雰囲気ではない。そもそも、おれにだって何が何だかわからないのだ。
そう判断した――が、次の瞬間、腕を掴まれた。
反射的に振り返ると、老婆の顔がおれの肘のあたりからぬっと現れた。
「その顔。間違いないよ……」
細く骨ばった指なのに、掴む力は異様に強かった。たとえ骨をへし折ってでも、あるいはへし折れてでも逃がさないという執念が滲んでいた。その目は、白目が黄ばみ、黒目は大きくぎらついていた。唇を噛み、コンビニの白い光に照らされて、顎にかけて垂れた一筋の涎が一瞬浮かび上がった。
「あのー、お手伝いしましょうか?」
会社員風の男がスマートフォンをこちらに向けたまま近づいてきた。善意の第三者を装っているようだが、声は上ずり、興奮が透けていた。
老婆が男のほうに顔を向けた。
おれはその一瞬の隙を見逃さなかった。思いきり腕を振り、老婆の手を振りほどいた。
「あっ!」と老婆が声を上げた。何かが地面に倒れたような音も聞こえた。勢いで転んだのかもしれない。だが確かめている余裕などなかった。おれはそのまま駆け出し、スマートフォンを構えた人々の間を横切った。
「どろぼおおう! どろぼおおおおう! ああああああぁぁぁぁぁ!」
背後からしわがれた叫び声が追いすがってきた。
なんだ、なんなんだ……。ちょっと見れば、あの老婆がおかしいことくらいわかるだろう。それなのに、なぜみんな、おれを犯罪者と決めつけているんだ。
……いや、どうでもいいのだろう。目の前にSNSに投稿する格好のネタが転がったというだけで、連中にとって事実など二の次なのだ。
ちらと振り返ると、闇の中で白い光がいくつも揺れていた。スマートフォンのライトだ。連中が追ってきている――。
おれは前を向き直し、全力で走った。背後から複数の足音が迫り、笑い声や叫び声が聞こえてくる。
普段使っている道から外れ、見慣れない角を曲がり、人とすれ違うたびに顔を伏せながら、ただひたすら走り続けた。
やがて小さな広場の前に出た。おれは中へ駆け込み、ベンチの背もたれに手をついて息を吐き出した。外灯が一本だけ立つ園内には雑草が生い茂り、人の気配はなかった。
息が切れ、横腹が刺すように痛んだ。喉は焼けるように渇き、心臓は檻から出たがる犬のように肋骨の内側で激しく暴れていた。
「あ、いたいた!」
「ほら、あそこ!」
「あの人だ!」
呼吸を整えようと大きく息をついた、そのときだった。弾んだ声が響き、おれは反射的にそちらを向いた。
入口のほうから数人の若者がスマートフォンを掲げながら近づいてきていた。だが、さっきの連中とは顔ぶれが違うようだ。
まさか――。
「あいつだよ。ほら、この動画のやつ」
もう拡散されているのか――。
おれはひゅっと息を呑んで後ずさりした。足がもつれ、その場に尻もちをついた。すると連中は「おおーっ!」と声を上げて走り寄ってきた。
おれは四つん這いのまま身を翻し、わたわたと立ち上がると、再び走り出した。
現代は娯楽の消費が早いという。流行した話題はすぐに次の話題へと移り、とりわけネットの炎上などは毎週のように別の誰かが標的になっている。本人が何を言おうと、情報はより人目を引くように切り取られ、加工され、次から次へと人へ渡っていく。
だからなのか、情報の伝達速度が異様に速い。乗り遅れれば損をするとでも思っているのだろうか。なんてことだ。いいのか国民よ! もっとあれだ、あれを大切に――と、だんだん考える余裕もなくなってきた。息が上がり、頭の中が白くかすんでいく。胸の苦しさと足の重さに意識ごと引きずられるようだった。
人とすれ違うたびに、相手は「おっ?」という顔をして振り返った。当然だろう。夜道を全力で走っている人間など、そうそう見かけない。しかも背後からは、まるで神輿の掛け声のように「泥棒ー!」と威勢のいい声が飛んできていた。
それがまた何も知らない者に動画を検索させ、事情を知るなり家族や知り合いに拡散する。そうして、おれを追う連中は増え続け、そこかしこに白い光が蛍のように散りばめられていた。さらには遠くのほうで赤いランプの光まで見えた。
まるでおれ自身がネットを泳ぎ回る情報になってしまったかのようだった。
おれはなるべく人けのなさそうな道を選び、走り続けた。やがて背後から聞こえる声が少しずつ遠ざかり、足音もまばらになっていった。何度か振り返り、追ってくる光が途切れたのを確認すると、おれは道沿いの竹藪へ飛び込んだ。
枝葉を掻き分けて奥へと進み、少し開けた場所を見つけると、膝を抱え込んで身を小さくし、息を潜めた。湿った土と青臭い葉の匂いが鼻を突き、耳元でぶうんと虫の羽音がした。
しばらくすると、ばたばたと駆ける足音や怒声、哄笑が竹藪の前を通り過ぎていった。
おれはさらに身を縮め、がたがたと震えた。足音は次第に遠ざかっていったが、気配が完全に消えるまで、おれは身じろぎひとつできなかった。
もはや否定したところで誰も話を聞いてくれないだろう。
もし警察に捕まったら終わりだ。いや、もちろん警察も馬鹿ではない。事情を説明すれば誤解は解けるだろう。あの老婆が突然、おれを泥棒呼ばわりし、それを面白がった周囲の人間が撮影しながら追いかけてきた、ただそれだけの話なのだから。
だが、問題は捕まる瞬間だ。
その場面も撮影され、瞬く間に拡散されるだろう。職場や家族にまで知れ渡れば、たとえ後になって勘違いだったと分かってもらえたとしても、一度広まった映像や噂は完全に消えることはない。誰の心の隅にも『でも……』『もしかしたら』という疑念の欠片が残り続ける。
そうなれば、もしおれが本当に何かをしでかして――たとえゴミのポイ捨てのような些細なことであっても――、その瞬間を見られれば、『あの人、やっぱりやってたんじゃないか』と疑惑が再燃するに違いない。過去まで遡って黒く塗り替えていくのだ。
下手をすれば、ほんの少し機嫌を損ねただけで『そういえばあの人、泥棒って騒がれてたよね』と面白おかしく噂されることもあるかもしれない。
本人がどれだけ否定したところで、人は自分の見たいようにしか見ない。『言い訳だ』『嘘つき』と謗られ、挙句、のちに無実が明らかになったとしても、今度は『なんでもっと強く否定しなかった』『本当はやましいことがあるんじゃないか』と責任の矛先をこちらへ向けてくる。
おれはぎゅっと唇を噛んだ。気づけば目の奥が熱くなり、視界がじわりと滲んでいた。
こんな理不尽があっていいのだろうか……。おれは何も悪いことなんてしていない。それなのに面白半分に追い立てられ、弁明の機会すら与えられないまま、犯罪者として扱われている。これではまるで生贄じゃないか。捕まえられて、火炙りにされ、その様子を連中は笑いながら眺めている。昔の人間がやっていたことと大して変わらないではないか。違いといえば、親指を下に向けるか上に向けるか、それくらいなものだ。
これは誰の身にも起こりうることなんだぞ。自分が同じ立場になったらどうするつもりなのか。今、スマートフォンを向けている連中だって、いつか追われる側に回るか分からないのに。
いや、そのときになってようやく自分のしたことに気づくのだろう。あるいは、気づかないまま『どうしておれがこんな目に……』などと被害者ぶるのかもしれない。かつて自分が誰かを追い詰めたことなど、きれいさっぱり忘れて。
ああ、どうして――。
「あんた……」
ざりっと、地面に積もった笹の葉を踏む音がすぐ背後でした。
おれはびくりと肩を震わせ、振り向いた。
すると、そこにはあの老婆が立っていた。竹の隙間から差し込む街灯と月の光を受け、乱れた白髪の毛先が透けている。顔は濃い影に覆われ、数本の歯だけがぼうっと浮かんで見えた。
「泥棒……」
「あ、あの、おれじゃないんです」
おれは両手を顔の前で小さく上げ、声を絞り出した。
「誤解なんです……本当に……」
とうとう涙がこぼれた。おれは顔を伏せ、目尻を拭った。
「どうして、どうしてこんな……」
「あんた……盗んだだろ……」
「だから違うんですよ……おれじゃないんです……」
「十円ゼリー……」
「……十円ゼリー?」
おれはゆっくりと顔を上げた。
「チョコとスナック菓子もおぉぅ……」
「あっ」
おれは思わず声を漏らした。おれを見下ろす老婆の顔を改めて見た瞬間、記憶の奥底から一人の女の顔が浮かび上がった。
子供の頃、よく行っていた駄菓子屋のおばちゃんだ。
ああ、間違いない。痩せ細り、あの頃よりずっと老け込んでいたが、確かに面影が残っていた。埃っぽくて薄暗い、あの小さな店の情景まで鮮明に蘇ってきた。
だが、二十年以上も前の話だぞ。それに、あの駄菓子屋はおれが中学を卒業する頃に閉店したはずだ。てっきり、おばちゃんが具合を悪くしたのだと思っていたが、まさかまだ生きていたとは。
まあ、あの頃六十代か七十代だったとしても、まだ生きていておかしくはないか。いや、幼かったおれには老人に見えていただけで、“おばちゃん”と呼んでいたあたり、実際にはそこまで歳を取っていなかった可能性もある。
「泥棒……!」
駄菓子屋のおばちゃんは唸るように言った。
泥棒……万引き……。確かに覚えはあった。
何度か駄菓子を買うついでに、一個か二個ほどおまけにポケットに入れたことがある。
だが、まさか気づかれていたとは……。いや、それはひとまず置いておくとして、そんなことをずっと覚えていたというのか。それとも、認知症の影響で昔の記憶だけが鮮明に残っているのだろうか。新しいことは覚えられなくても、古い記憶だけは妙に残っているという話を聞いたことがある。
どちらにしても、これはすごいぞ。
怒れる老婆。罪を追い続ける執念の化身。こんな話、そうそうないぞ。動画を投稿すれば、かなり話題になるに違いない。
おれはそっとズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
そしてライトを点け、老婆の顔へ向けた。
その瞬間だった――。
老婆はおれの顔を両手でそっと掴むと、親指をおれの両目に突き刺した。




