キミには感謝が足りない?あなたには自覚が足りない
「エレノーラ。君には感謝が足りない」
王宮の応接室で、王太子グラシエルはそう言い放った。
「私が君を婚約者に選んでやったのだぞ。それなのに、最近の君は私の頼みを断ってばかりだ」
エレノーラは手元の書類を閉じた。
「殿下。私たちの婚約は、国王陛下から私の父に打診されたものですが」
「細かいことはどうでもいい!」
「そうですか」
「それに、君が私の仕事を手伝うのは当然だろう。将来、王太子妃になるのだからな!」
エレノーラは王子を見つめた。
予算案の作成。領地から届く報告書の確認。貴族たちとの面会調整。式典の準備。隣国との交易協定に関する折衝。
ここ三年間、王子が後回しにした仕事の大半を、彼女が片づけてきた。
もちろん、すべてが彼女の仕事だったわけではない。
むしろ、本来なら王太子であるグラシエル自身が行うべき仕事ばかりだった。
「殿下」
「なんだ?」
「私が今まで何をしてきたのか、ご存じですか?」
「君が私を支えてきたことくらい、わかっている!」
「では、先月の予算案について説明していただけますか?」
「……は?」
「第三項の支出が増額された理由です」
「そんなもの、財務官に聞けばいいだろう!」
「先週、財務官から説明を受ける機会がございましたよね?」
「忙しかったのだ!」
「では、隣国との交易協定は?」
「それも君が進めていただろう!」
「先方からの返答を待たせている件については?」
「だから、君が――」
王子は言葉を止めた。
エレノーラは微笑んだ。
「つまり、殿下は何もご存じないのですね」
「なんだと!」
「いや、あなたには自覚が足りない」
その言葉に、王子の顔が歪んだ。
「婚約者のくせに、私を侮辱するのか!」
「いいえ。事実を申し上げているだけです」
「もういい! 君との婚約など、こちらから破棄してやる!」
エレノーラは一瞬だけ目を伏せた。
それから、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
「……なに?」
「婚約破棄をお受けいたします」
「待て。君は自分が何を言っているのかわかっているのか?」
「もちろんです。明日から、殿下のお仕事は殿下ご自身でなさってください」
彼女は席を立った。
「今までありがとうございました」
そして、二度と振り返らなかった。
***
翌朝。
グラシエル王子は、いつものように執務室へ入った。
机の上には、書類が積み上がっていた。
「なんだ、これは?」
「殿下。昨日までエレノーラ様がお預かりになっていた書類です」
侍従が答えた。
「なぜここにある?」
「エレノーラ様から、すべてお返しいただきました」
「ならば、彼女に持っていかせればいいだろう!」
「殿下。エレノーラ様は、すでに婚約者ではございません」
「……そうだったな」
王子は舌打ちした。
仕方なく一番上の書類を手に取る。
予算案だった。
文字が多い。
表も多い。
どこを読めばよいのか、さっぱりわからない。
「財務官を呼べ!」
***
財務官は、すぐにやってきた。
「殿下。予算案について、何かご質問でしょうか?」
「この数字はなんだ?」
「来年度の公共事業に関する支出です」
「なぜこんなに増えている?」
「先週、エレノーラ様にご説明したとおり、北部の橋梁が老朽化しておりまして――」
「エレノーラの話はするな!」
財務官は口を閉じた。
「とにかく、この予算案を作り直せ!」
「かしこまりました。では、殿下のご希望をお聞かせください」
「……私の希望?」
「どの項目を増額し、どの項目を削減するか、方針をいただければ作成いたします」
「それは、お前たちが考えることだろう!」
財務官は困った顔をした。
「殿下。予算の最終的な方針を決定されるのは、王太子殿下でございます」
「ならば、適当にやっておけ!」
「適当に、でございますか?」
「そうだ!」
財務官はしばらく黙っていた。
そして、深々と頭を下げた。
「承知いたしました。では、決裁をいただくまで、こちらの予算案は保留とさせていただきます」
「なっ、なぜだ!」
「方針が決まっておりませんので」
財務官は書類を持ち帰った。
王子は机を叩いた。
「融通の利かない連中め!」
***
三日後。
交易協定の締結が延期された。
隣国から届いた書簡には、王太子本人による回答を求める旨が記されていた。
「なぜ、私が返事をしなければならない!」
「協定の締結には、殿下の署名が必要でございます」
「ならば、エレノーラに署名させればいい!」
「エレノーラ様は、王太子殿下ではございません」
「そんなことはわかっている!」
侍従は黙って頭を下げた。
結局、王子は書簡の内容を理解するために、政務官から説明を受けることになった。
しかし、説明が終わるころには夕方になっていた。
「明日、返事を書く!」
ところが翌日、王子は別の書類に追われ、返事を書く時間を失った。
さらに翌日には、式典の準備が遅れていると報告された。
その翌日には、北部の橋の修繕計画が止まっていると聞かされた。
王子がエレノーラに押しつけていた仕事は、彼女がいなくなった途端、次々と表面化した。
もちろん、王宮には優秀な官僚がいる。
しかし、彼らは王子の代わりに決定を下すことはできない。
王子が判断を先延ばしにすれば、仕事も先へ進まない。
そして、止まった仕事の責任は、最終的に王子自身へ戻ってくる。
「どうして、誰も私を助けないのだ!」
王子の叫びに、侍従は答えなかった。
今まで助けてくれていた人間に、感謝どころか罵声を浴びせてきたのは、ほかでもない王子自身だったからだ。
***
一週間後、国王はグラシエルを呼び出した。
「グラシエル。北部の橋の修繕が止まっているそうだな」
「財務官が予算案を作り直しているのです」
「なぜだ?」
「私の指示を待っていると……」
「では、なぜ指示を出さない?」
王子は口ごもった。
「交易協定も延期されたと聞いた」
「それは、先方が細かい確認を求めてきたためです」
「式典の準備も遅れているそうだな」
「それも、担当者が――」
「グラシエル」
国王の声が、部屋に響いた。
「お前は、自分が何をしているのかわかっているのか?」
王子は顔を上げた。
「私は王太子です!」
「だから何だ?」
「王太子には、周囲が協力するのが当然でしょう!」
国王は目を閉じた。
長い沈黙のあと、口を開く。
「お前は、協力してもらうことと、仕事を押しつけることの違いもわからないのか」
「そんなことは――」
「エレノーラ嬢は、三年間、お前の仕事を支えてくれていたそうだな」
「婚約者なのですから、当然です!」
その瞬間、国王の表情が変わった。
「……当然?」
「はい!」
「では、なぜ彼女がいなくなった途端、お前は何一つ満足に進められなくなったのだ?」
王子は答えられなかった。
「お前が彼女に感謝していたのなら、彼女が何をしてくれていたのか、少しは知っていたはずだ」
「それは……」
「だが、お前は何も知らなかった。知ろうともしなかった。それでいて、彼女には感謝が足りないと責めたのか」
国王は机の上の報告書を閉じた。
「しばらく王太子としての公務を縮小する。お前は政務官たちと一緒に、今まで自分が放置してきた仕事を一つずつ処理しろ」
「父上!」
「これは罰ではない。お前が王太子として必要なことを学ぶための時間だ」
「私は王太子なのですよ!」
「ならば、その地位にふさわしい仕事をしろ」
王子は何も言えなかった。
***
それから一か月後。
王宮では、グラシエル王子の婚約破棄が正式に公表された。
同時に、王太子の公務の一部が一時的に国王の直轄に戻され、王子は政務官たちの指導のもとで実務を学ぶことになった。
貴族たちの反応は冷ややかだった。
「エレノーラ嬢が支えていたから、あの程度で済んでいたのか」
「彼女に感謝が足りないと説教していたそうだぞ」
「自分がどれだけ助けられていたかも知らずに、よくそんなことが言えたものだ」
王子は噂を止めようとした。
しかし、否定するには、否定できるだけの実績が必要だった。
そして、彼にはそれがなかった。
一方、エレノーラは実家の領地へ戻り、父の仕事を手伝い始めた。
彼女の仕事ぶりを知っていた貴族たちから、相談や依頼が舞い込むようになった。
やがて、彼女は領地の財政改革を成功させ、隣国との交易でも成果を上げた。
王宮で王子の仕事を肩代わりしていたときには、誰も彼女の功績を表立って評価しなかった。
だが、彼女が自分のために働き始めると、その能力は誰の目にも明らかになった。
***
半年後。
グラシエルは、ようやく一つの予算案を自分でまとめ上げた。
何度も修正を受け、政務官に質問し、財務官に叱られながら、どうにか完成させたのだった。
「……終わった」
机に突っ伏した王子の前に、政務官が立っていた。
「殿下。お疲れさまでした」
「ああ……」
王子は顔を上げた。
「エレノーラは、これを毎日のようにやっていたのか?」
「はい」
「私の代わりに?」
「はい」
王子は黙り込んだ。
ようやく理解したのだ。
彼女は自分の仕事を手伝っていたのではない。
自分が仕事をしなくても済むように、すべてを片づけてくれていたのだ。
しかも、自分はその相手に感謝が足りないと責めた。
「……私は、何をしていたんだ」
政務官は答えなかった。
王子は椅子に座り直した。
「エレノーラに謝罪の手紙を送る」
「承知いたしました」
「返事が来るまで、待つつもりだ」
政務官は一礼して、部屋を出た。
***
エレノーラのもとに、王子から手紙が届いたのは、それから数日後のことだった。
彼女は封を切り、目を通した。
そこには、自分の無知と傲慢さを認める言葉が並んでいた。
最後には、もう一度会って話がしたい、と書かれていた。
エレノーラは手紙を読み終えると、机の引き出しから便箋を取り出した。
そして、短く返事を書いた。
『謝罪は受け取りました。ですが、婚約を再び結ぶつもりはございません。どうか、ご自身の人生を、ご自身で歩んでください』
彼女は手紙を封筒に入れ、使者に渡した。
それで終わりだった。
王子がどれほど反省しようと、どれほど仕事ができるようになろうと、彼女が再び彼を支える理由にはならない。
彼が学ぶべきことは、もう彼女の仕事ではなかった。
エレノーラは窓の外を見た。
春の風が庭の花を揺らしている。
彼女は微笑み、新しい仕事の書類を開いた。
もう、誰かに感謝されるために働く必要はない。
自分の力を、自分のために使えばいいのだ。
それを知った彼女は、王宮にいたころよりも、ずっと自由だった。




