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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第2章

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第四十三話 緑青の孤島と風化の頁

 朝靄の中、アルビオン号はゆっくりと速度を落とし、エメラルドグリーンに輝く入江へと錨を下ろした。切り立った断崖が朝日を浴びて金色に輝き、その麓には鬱蒼とした緑が広がっている。波間には、これまで見たことのない色鮮やかな魚たちが群れをなし、透き通った水の中を優雅に泳いでいた。数日にわたる航海の疲れも、この光景を前にすると、不思議と忘れられていくようだった。


「ここが、最初の寄港地……」


 エルノアは甲板の縁に立ち、その美しい光景に思わず息を呑んだ。海図にはただ「緑青の島」とだけ記されたその孤島は、これまで見てきたどの土地とも違う、原始的で力強い生命力に満ちていた。潮の香りに混じって、湿った土と青々とした葉の香りが、風に乗って漂ってくる。


「よし、小舟を降ろすぞ。エルノア、ナビィ、行くぞ」


 カイの声には、いつになく高揚した響きがあった。未知の土地への上陸は、船乗りとしての血を騒がせるものなのだろう。エルノアとナビィは頷き、身支度を整えた。三人を乗せた小舟は静かな入江の水面を滑り、白い砂浜へと近づいていく。船を降りる直前、エルノアはサッチェルバッグの中身をもう一度確認し、手帳とペンが無事であることを確かめた。



 上陸したエルノアたちは、見たこともない鮮やかな植物に囲まれた小径を歩き始めた。大きな葉が幾重にも重なり合い、その隙間から差し込む光が、地面に複雑な模様を描いている。頭上では、見慣れない鳥たちが、澄んだ声で鳴き交わしていた。


「まあ……なんて美しい島なのでしょう。この花、見たことのない色をしています」


 エルノアが道端に咲く花に見とれていると、手帳を取り出し、その花弁の繊細な色合いを、素早く丁寧にスケッチに書き留めた。旅の中で出会う植物の一つひとつも、彼女にとっては大切な記録の対象だった。


 ナビィが測量道具を手に、島の地形を熱心に記録し始めた。羅針盤と測量儀を交互に確認しながら、几帳面な手つきで紙に線を書き加えていく。


「この島の地図、まだ正確なものがないんです。私が測量して、きちんとした海図に残しますね」


「頼りにしているぞ、ナビィ」


 カイもまた、周囲の木々を興味深そうに観察していた。幹に触れ、樹皮の質感を確かめるように何度も撫でている。


「この木材……。見たことのない木目だ。もしかしたら、船の補修に使えるかもしれねえな」


 カイは木の枝を軽く叩き、その音の響き方まで確かめていた。船大工としての職業病か、興味を持つと止まらない性分らしい。


 三人がそれぞれの興味に胸を躍らせながら島の奥へと進んでいった、その時だった。



「――動くな!」


 鋭い声とともに、樹上から素早い影が飛び降りてきた。弓を構えた少女が、エルノアたちの目の前に着地し、矢先をまっすぐこちらに向けている。着地の際に土を蹴り上げるほどの俊敏さで、その身のこなしからは、この島の地形を知り尽くしていることが窺えた。


「な……!」


 カイが咄嗟に身構えるが、少女の瞳には迷いのない鋭さが宿っていた。緊張した空気が、島の静けさを一瞬にして塗り替えていく。


「この島に、何をしに来た。先祖の聖域を荒らすつもりなら、容赦はしない」


「お待ちください。私たちは、争うつもりはありません」


 エルノアはゆっくりと両手を上げ、敵意がないことを示した。杖にも手を伸ばさず、ただ静かに、相手の警戒心を解くように微笑みかける。


「私はエルノア、旅の記録者です。こちらはカイさんとナビィさん。私たちは、この船で航海をしている旅人です」


「記録者……?」


 少女の弓を構える手が、わずかに緩んだ。それでも完全に警戒を解いたわけではなく、油断のない視線がエルノアたちの一挙一動を追っていた。


「私はシエル。この島で、先祖から受け継いだ薬草摘みをしています。この島には、外の者が土足で踏み荒らしてはならない、大切な聖域があるの」


 シエルは弓を下ろしながらも、警戒の色を完全には消さずに続けた。腰に下げた薬草袋が、彼女の言葉の真実さを静かに裏付けているようだった。


「聖域、ですか」


「ええ。先祖代々の言葉が刻まれた、古い文書の館。……でも、もう誰も、そこに何が書かれているのか、読むことができないの」


 シエルの声には、隠しきれない悔しさが滲んでいた。



「もしよろしければ、その聖域を見せていただけませんか。私は、破壊者ではありません。記録を守り、後世に残す司書として、旅を続けてきました」


 エルノアの真剣な眼差しに、シエルはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頷いた。周囲の木々のざわめきだけが、しばしの沈黙を埋めていた。


「……分かった。でも、少しでも変な真似をしたら、容赦しないから」


 シエルに案内され、三人は島の中央部にある古い遺跡へと足を踏み入れた。苔むした石段を登った先に現れたのは、崩れかけた石造りの建物だった。かつては壮麗な図書館だったのだろう、内部には無数の石碑と、朽ちかけた羊皮紙の残骸が並んでいる。天井の一部は崩落し、そこから差し込む光が、埃の舞う館内を淡く照らしていた。壁面には、かつて美しい彩色が施されていたであろう壁画の跡も、色褪せながらうっすらと残っていた。長い年月の重みを感じさせる静けさが、館内全体を包み込んでいた。


「これは……」


 エルノアは息を呑んだ。長年の潮風と湿気にさらされ続けた石碑の表面は、文字の輪郭すらほとんど判読できないほど、深く風化していた。羊皮紙も茶色く変色し、触れれば崩れてしまいそうなほど脆くなっている。館内を歩くたび、足元で乾いた紙片が小さく音を立てて崩れていった。


「ここに、島と世界の成り立ちが記されていたはずなの。先祖が大切に守ってきた、私たちのルーツ。……でも、もう誰も読めない。私が生まれる前から、ずっとこの有様だった」


 シエルは石碑の表面をそっと撫で、悔しそうに肩を落とした。長年、誰にも読まれることのなかった文字の上に、指先が虚しく滑るだけだった。



「シエルさん。少し、私に試させていただけませんか」


 エルノアはサッチェルバッグから、光の街プリズマで得たクリスタルインクを取り出した。長年、司書として数え切れないほどの古い書物と向き合ってきた経験が、目の前の風化した石碑を前に、静かに研ぎ澄まされていく。


「――石面の風化を防ぐ魔法。消えた墨跡を、浮き立たせる魔法」


 これまでの旅で幾度となく使ってきた、大魔法ではないささやかな生活魔法。エルノアは両手を石碑にそっと当て、クリスタルインクの光を、風化して削れた溝の一つひとつに、丁寧に注ぎ込んでいった。指先に神経を集中させ、石の表面に残るわずかな凹凸を、一つも見逃さないよう慎重になぞっていく。


「シエルさん、この光が、消えかけた文字の輪郭を探し出してくれるはずです」


 光は石の表面に染み込むように広がり、目には見えないほど微かに残っていた文字の刻み跡を、そっとなぞるように浮かび上がらせていく。エルノアは慎重に、しかし着実に、魔法を石碑の隅々にまで行き渡らせた。傍らで見守るシエルは、息を詰めるようにしてその様子を見つめていた。



「あ……!」


 シエルが驚きの声を上げた。石碑の表面に、これまで見えなかった古代文字が、淡い光とともに、鮮やかに浮かび上がってきたのだ。周囲に立ち込めていた埃さえも、その光に照らされて、きらきらと輝いて見えた。カイとナビィも、思わず息を呑んでその光景に見入っていた。


「読める……。読めるわ……!」


 シエルは震える指先で、蘇った文字をなぞった。エルノアもまた、その文字を静かに読み解いていく。


「これは……。海流の底に沈んだ『蒼穹の都』についての記述ですね。そして、海を拓くための『七つの鍵』についても、触れられているようです」


「蒼穹の都……。七つの鍵……。私、初めて聞く言葉だわ」


 シエルの瞳から、堪えきれなくなった涙がこぼれ落ちた。碑文にはさらに、遠い昔、この島の先祖たちが海の彼方から流れ着いた経緯や、彼らが守り続けてきた海の掟についても、断片的に記されていた。文字の合間には、波を模した装飾や、七つの光る玉を描いたと思われる図案も刻まれており、それがおそらく「七つの鍵」を象徴するものなのだろうと、エルノアは推測した。


「先祖が、必死に遺そうとしていたものが、ようやく蘇ったのね……。ありがとう、エルノアさん。あなたのおかげで、私たちのルーツを、ようやく知ることができる」


 エルノアは静かに微笑み、丁寧に文字を書き写していった。カイとナビィも興味深そうに碑文を覗き込み、これから始まる新たな航海の手がかりに、胸を高鳴らせていた。長い航海の果てに、こうして確かな手がかりを得られたことに、三人はしばらくの間、言葉もなくその碑文を見つめ続けていた。



「エルノアさん、これを受け取って」


 遺跡を出たところで、シエルは小さな古びた羅針盤をエルノアに差し出した。表面には、繊細な貝殻細工の装飾が施されている。夕暮れの光を受けて、その細工がほのかに虹色の輝きを放っていた。


「これは、私たちの島に伝わる『潮の羅針盤』。海の導きを示してくれる、大切な道具なの。あなたたちの旅を、きっと助けてくれるはずよ」


「まあ……こんな貴重なものを、いただいてもよろしいのですか」


「ええ。あなたが蘇らせてくれた記録は、私たち島の民にとって、何よりの宝物になった。この羅針盤も、きっと同じくらい価値のあるものだと思うから」


 シエルは羅針盤の使い方を、丁寧にエルノアに教えてくれた。針が指す方角だけでなく、その揺れ方の強弱によって、海の荒れ具合まで読み取れるのだという。


 ナビィは蘇った碑文の内容を、丁寧に測量図へと書き加えていった。地図の余白には、シエルから聞いた島の伝承も、小さな文字でびっしりと書き込まれている。カイもまた、シエルから島の耐水性に優れた木材について、幾つかの補修技術を教わっていた。


「この木の樹脂を使えば、船底の防水がもっと長持ちするはずだ。今度、詳しく教えてくれ」


「ええ、いつでも。……あなたたちがまた、この島に来てくれるなら」


 シエルは少し照れくさそうに笑った。最初に会った時の刺々しさは、もうすっかり消え去っていた。カイもまた、初めて見せる彼女の柔らかな表情に、どこか安堵したような笑みを浮かべていた。



 夕陽が入江を茜色に染める頃、アルビオン号は再び出航の準備を整えていた。シエルは砂浜に立ち、三人を見送りに来てくれた。


「エルノアさん、カイさん、ナビィさん。どうか、良い旅を」


「シエルさんも、お元気で。この島の記録、大切にしてくださいね」


「ええ、必ず。……あなたたちが来てくれて、本当によかった」


 シエルは砂浜に立ったまま、いつまでもこちらを見つめていた。その瞳には、もう警戒の色は微塵もなく、ただ温かな別れの寂しさだけが浮かんでいた。


 三人を乗せた小舟が、静かに入江を離れていく。シエルはいつまでも手を振り続け、その姿は次第に小さくなっていった。夕陽に照らされた彼女の輪郭は、まるで島そのものが、旅人たちを見送っているかのようだった。波間に反射する茜色の光が、これまでの三人の航海を静かに祝福しているようにも見えた。



 その夜、エルノアは甲板の月明かりの下、手帳を開いた。潮の羅針盤を傍らに置き、静かにペンを走らせる。波の音が、静かに船体を打つ音だけが、辺りに響いていた。


『〇月〇日。緑青の島にて。失われかけた言葉が息を吹き返す瞬間を見ました。先祖の想いは、長い年月を経てもなお、確かにそこに刻まれ続けていたのですね。潮の羅針盤が指す次なる海へ、私たちの旅は続いていきます』


 書き終えたエルノアは、羅針盤に目を落とした。針は静かに揺れ動き、やがて北東の海域を、力強く指し示した。貝殻細工の装飾が、月光を受けてほのかに輝いている。


「あちらに、蒼穹の都と、七つの鍵が眠っているのでしょうか」


 エルノアは手帳をそっと閉じ、胸に抱いた。夜風が心地よく頬を撫でる中、アルビオン号は羅針盤の示す方角へと、静かに舵を切っていった。甲板の向こうでは、カイが操舵輪を握り、ナビィが星図と羅針盤を見比べながら、新たな航路を慎重に確認している。三人の旅は、まだ見ぬ海の彼方へと、確かな一歩を踏み出していた。緑青の島で得た記録と羅針盤は、これから先の航海においても、きっと大きな支えとなってくれることだろう。


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