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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第2章

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第四十話 無題の手帳と明日への記号

 忘却の主が咆哮を上げると同時に、その巨体が黒い津波となって天蓋の回廊へと押し寄せてきた。虹色に輝いていた光の河は、瞬く間に暗闇に呑まれ、回廊全体が悲鳴を上げるように激しく明滅する。天井から差し込んでいた星々の光すらも、その黒い波に次々と呑み込まれていった。天蓋の回廊そのものが、まるで生き物のように軋み、崩れ落ちようとしているかのようだった。


「――くっ!」


 エルノアはとっさに二冊の手帳を胸に抱き、その場に踏みとどまった。だが、津波の余波が触れただけで、体の奥から何かがごっそりと引き抜かれるような、凄まじい感覚に襲われる。まるで自分自身の輪郭が、少しずつ薄紙のように剥がれ落ちていくかのようだった。


「あ……。私、は……」


 旧大陸で司書のように書物と向き合っていた頃の記憶が、白く霞んでいく。旅の始まりに出会ったカイル、ルチアの笑顔、ボドのパン工房の香り――一つ、また一つと、大切な記憶が輪郭を失っていく恐怖に、エルノアの膝が震えた。指先から力が抜け、手帳を取り落としそうになる。まるで、自分がこれまで積み重ねてきたすべての時間が、根こそぎ奪われていくかのような、深い喪失感だった。


「いや……。消えないで……。私の、大切な記憶……!」


 世界各地でも、同じ現象が急速に広がっているのだろう。回廊全体に響く微かな悲鳴のようなものが、エルノアの耳に届いた。誰かが大切な人の名前を、誰かが交わした約束を、今まさに失いかけているのだ。フォルグのセレスも、霊峰カイルのフレヤも、この瞬間、同じ苦しみに苛まれているのかもしれない――そう思うと、エルノアの胸は張り裂けそうになった。旧大陸で出会った、数え切れないほどの人々の顔も、脳裏でちらちらと明滅しながら、今にも消えてしまいそうだった。



 激痛と恐怖の中、エルノアは二冊の手帳を、これまでにないほど強く抱きしめた。使い込まれた『無題の皮革手帳』と、レオンの想いが宿る『黒い皮革手帳』。その重みだけが、消えかけていく自分自身を、辛うじて繋ぎ止めてくれているようだった。


 目を閉じ、歯を食いしばりながら、エルノアは必死に自分自身に問いかけた。私は何のために、ここまで旅を続けてきたのだろう。答えはすぐに、胸の奥から静かに浮かび上がってきた――誰かと交わした温もりを、決して手放したくないからだ。


 その瞬間だった。エルノアの脳裏に、これまでの旅路すべてが、鮮やかな奔流となって蘇り始めた。それは単なる記憶の羅列ではなく、一つひとつの出会いが確かな温度を持って、彼女の胸に流れ込んでくるようだった。


 時計塔のカイル。絵本作家になったルチア。パン職人のボドと孫娘クララ。ニコラと使い魔パフ。ゴルゴタでのつらい記憶。アイリスたちオートマタの優しさ。星詠みの聖域で知った、本当の名前「リア」。フローラの温室。アニマとの出会い。あばれネズミ団とのドタバタ。ベルとマルクの本音。クロードとリリアンのお茶会。ルーカのポトフ。ステラの夜空のパッチワーク。ピコと風乗りの日傘。リリーとアレンの花束。ノアの影。マルコの白い革靴。セフィとルカのオルゴール。フェリシテでの、誰も救えなかった悲劇。マルタの宿での再起。ステラのドレス。レイの手紙。アルンのオルゴール。港町レテの記憶の受け皿。大書庫都市ビブリオンの空白年代。静寂の森で知った、封印の真実。まどろみの谷での最大の危機。時の揺りかごでの覚醒。丘の上での新たな旅立ち。カントのリュカ。ルミエールのセシル。ポルト・ボヌールのマルセル。テラ・ボニータでのくすぐったい騒動。プリズマのジュリアン。沈黙の回廊のアーク。フォルグのセレスと父親。霊峰カイルのフレヤ。そして、天蓋の回廊で出会った、レオン――。


 一人ひとりとの出会いが、まるで無数の光の粒となって、エルノアの周りを取り囲んでいく。悲しみも、喜びも、後悔も、感謝も、そのすべてが今の自分を形作っていることを、エルノアは全身で実感していた。



「――忘却は、悪ではない」


 どこからか、穏やかな声が響いた。レオンの残影だった。エルノアの脳裏に、優しく語りかけてくる。


「人は忘れるからこそ、大切に書き留め、温もりを残そうとする。忘れることを恐れるのではなく、忘れた先にある想いを、大切にすればいい」


「レオンさん……」


「私もかつては、忘れることをただ恐ろしいものだと思っていた。だが、旅を続ける中で気づいたのだ。忘れてしまうからこそ、人は誰かとの時間を、より一層大切に紡ごうとするのだと」


「あの影の正体を、よく見てごらん。あれは、誰にも思い出してもらえなかった、淋しい記憶たちの悲鳴なのだよ」


 エルノアは目を凝らし、迫り来る黒い津波を、改めて見つめた。その中には、無数の顔が浮かんでは消えていく。誰にも語られず、誰にも書き留められず、忘れ去られていった人々の、悲しみや孤独の残滓。それらが集まり、絶望の力となって、世界を無へと還そうとしていたのだ。老いた母を待ち続けたまま忘れられた子どもの顔、誰にも気づかれず消えていった小さな約束の残滓――それら一つひとつが、確かにかつて誰かの心に存在していた温もりの、成れの果てだった。


「……あなたたちも、本当は、忘れられたくなかったのですね」


 エルノアの瞳から、涙が溢れた。目の前の脅威を、打ち滅ぼすべき敵として見ることは、もうできなかった。


「破滅させるのではなく……。私が、あなたたちのことを、書き残します」



 エルノアはサッチェルバッグから、光の街プリズマで得たクリスタルインクを取り出した。その小瓶を両手で包み込み、静かに、しかし力強く詠唱を紡ぐ。


「――本を編み、綴じ合わせる魔法。インクを、永遠に定着させる魔法」


 司書として書物と向き合っていた頃から磨き上げてきた、二つの生活魔法。それを今、これまでのどんな瞬間よりも大きな規模で展開する。かつて小さな一冊の本を修復するために使っていたその技術が、今、世界そのものを繋ぎ止めるための力へと姿を変えていく。


 クリスタルインクに、これまでの旅で得たすべての情動と五感の記憶――風鳴りの谷の音、雨上がりの丘の香り、港のスープの味、泥湯の温もり、光の街の色彩――を注ぎ込んでいく。インクは瞬く間に、これまで見たこともないほど深く、美しい輝きを帯びていった。まるで、これまで出会ってきたすべての人々の想いが、一滴一滴に溶け込んでいくかのようだった。


 エルノアは『無題の皮革手帳』を開き、そのインクを浸したペンを、迫り来る黒い津波に向かって、大きく振るった。


「あなたたちの悲しみも、忘れられた痛みも、すべて私がこの手帳に書き残します……!」


 空中に、巨大な文字が描かれていく。それは言葉というよりも、感情そのものが形になったような、光り輝く筆跡だった。ペン先が走るたびに、津波は否定されることなく、むしろ優しく包み込まれるように、一筋の美しい漆黒のインクへと姿を変えていく。



「――ヴォ……オオオ……」


 忘却の主の咆哮が、次第に苦悶ではなく、どこか安堵したような響きへと変わっていった。無数の淋しい記憶たちが、ようやく誰かに見つけてもらえたことに、静かに涙しているようにも感じられた。


 黒く渦巻いていた津波が、まるで吸い込まれるように、手帳のページへと流れ込んでいく。エルノアはペンを止めることなく、その一つひとつに、優しい言葉を添え続けた。


「あなたも、誰かを想っていたのですね」「あなたの涙も、確かにここにありました」「忘れられていたとしても、あなたは、確かに存在していたのです」


 書き綴るたびに、影の輪郭は徐々に薄れ、代わりに回廊いっぱいに、これまで見たことのないほど眩い虹色の光が満ちていった。世界各地で失われかけていた人々の記憶が、まるで潮が満ちるように、静かに元の場所へと戻っていく。フォルグの街では、再びセレスが父の名を呼び、霊峰カイルでは、フレヤが妹との思い出を胸に微笑んでいることだろう。旧大陸の街々でも、カイルやルチア、ボドやクララたちが、それぞれの日常を、変わらず穏やかに過ごしているに違いない。


 エルノアの腕は、書き続けるうちに次第に重く痺れていったが、彼女は決してペンを止めなかった。目の前で救われていく一つひとつの記憶が、これまでの旅で出会ってきた、名も知らぬ誰かの物語と、確かに重なって見えたからだった。



 やがて、忘却の主だった巨大な影は、すべてが光の粒となって、手帳の中へと吸い込まれていった。天蓋の回廊には、静けさと、これまでになく澄んだ光が満ちている。長く続いた戦いの緊張が解け、エルノアはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。


「終わった……のでしょうか」


 エルノアが手帳を見下ろすと、ページには、これまでの旅の記録と、影として彷徨っていた無数の淋しい記憶たちの物語が、美しく、切なく綴られていた。それはもう、ただの旅日記ではなく、世界そのものの記憶を抱きしめた、一冊の書物になっていた。ページをそっと指でなぞると、そこに綴られた一人ひとりの物語が、確かな温もりを持って伝わってくる。回廊に満ちた静寂の中、エルノアはしばらくの間、その重みと温かさを、じっくりと噛みしめていた。


 その時、サッチェルバッグの中の『黒い手帳』が、ふわりと淡い光を放ち、宙に浮かび上がった。エルノアの『無題の皮革手帳』もまた、共鳴するように輝きを増していく。二冊の手帳はゆっくりと近づき、まるで長年離れ離れだった片割れが再会するかのように、そっと重なり合った。


 光が収まった後、そこにあったのは、一冊の手帳だった。表紙には、これまでどちらの手帳にもなかった、金色の美しい装飾が、密やかに浮かび上がっていた。旅の記憶と、レオンが守り抜いた想いが、確かに一つに結ばれた証だった。


「これが……私たちの、答えなのですね」


 エルノアはその手帳を、両手でそっと抱きしめた。レオンの想いと、自分自身が紡いできた旅の記憶が、一つに結ばれた証だった。胸の奥から込み上げてくる感情に、しばらくの間、言葉を失っていた。しばらく手帳を見つめていると、まるで返事をするかのように、表紙の金色の装飾がほのかに輝いた。それは、これから始まる新しい旅路への、静かな祝福のようにも感じられた。



 事件が解決し、エルノアは静かに地上へと戻った。抜けるような青空の下、彼女は丘の上に腰を下ろし、生まれ変わった手帳をそっと開いた。遠くには、これまで旅してきた新大陸の街々の輪郭が、うっすらと見渡せた。長い戦いを終えたばかりだというのに、不思議と疲労よりも、静かな充足感の方が、エルノアの胸を満たしていた。


 前半のページには、これまでの旅の記録と、影として救われた無数の記憶の物語が、美しい筆致でびっしりと綴られていた。だが、ページをめくっていくと、後半にはまだまだ、終わりのない真っ白なページが、無限に広がっていた。


「ふふ……。まだまだ、これからも書き続けられるのですね」


 エルノアはペンを取り、真新しいページに、静かに文字を綴った。


『〇月〇日。世界の果てにて。記憶とは失われるものではなく、優しく受け継がれていくもの。私の手帳は完成し、そしてまた新しい白紙が始まりました』


 書き終えたエルノアは、手帳をそっと閉じ、胸に抱いた。空には、これまで見たどの空よりも澄み渡った青が広がっている。風が緩やかに丘を吹き抜け、紺銀色の髪をそっと揺らした。


「さあ……。次は、どんな出会いが待っているでしょうか」


 サッチェルバッグを肩にかけ、ペンを胸元にそっと差したエルノアは、まだ見ぬ未知の大陸と、新たな出会いを求めて、晴れやかな笑顔で、新しい一歩を踏み出した。これまでの旅路のすべてが、これから先の道を照らす、確かな光となっていた。


 振り返れば、天蓋の回廊があった空の彼方には、これまで見たことのないほど澄み渡った虹が、静かに架かっていた。世界のどこかで、今この瞬間も、誰かが誰かの名前を呼び、誰かが誰かの笑顔を思い出しているのだろう。その温もりの連なりこそが、エルノアがこれまで守り、これからも守り続けていくものだった。


 新大陸核心編と呼ぶべき長い旅路は、こうして一つの区切りを迎えた。だが、旅そのものが終わったわけではない。むしろ、まだ見ぬ白紙のページが広がる限り、エルノアの旅は、これからも続いていくのだ。


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