第三十四話 泥まみれの聖者とくすぐったい手帳
港町ポルト・ボヌールを発ってから数日、エルノアは緩やかな丘陵地帯を抜け、湯気の立ちのぼる盆地へと差しかかっていた。硫黄とも花ともつかない独特の匂いが漂い始めたかと思うと、街の入り口に着く頃には、辺り一帯から歓声と、何やらぐちゃぐちゃとした音が響いてきた。
「まあ……いったい、何のお祭りなのでしょう」
目の前に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。大人も子どもも老人も、街じゅうの住民が例外なく全身泥まみれになり、大声で笑い合いながら泥を投げつけ合っている。案内板には、こう記されていた――泥湯と触覚の街、テラ・ボニータ。年に一度の「泥感謝祭」の真っ最中らしい。
エルノアが呆気に取られて立ち尽くしていると、路地の奥から小さな影が飛び出してきた。丸っこい体をした半透明の生き物――泥精霊ポロンだ。
「きゅいっ!」
可愛らしい鳴き声とともに、ポロンはエルノアの顔面めがけて、まん丸の泥玉を勢いよく投げつけた。
「――ひゃっ!?」
避ける間もなく、エルノアの端整な顔は一瞬にして泥だらけになった。旅先で幾度となく修羅場をくぐってきた魔女も、これには言葉を失うしかない。
「な、なんてこと……。せっかくの旅装が……」
呆然と立ち尽くすエルノアに、通りがかった青年が目を輝かせながら駆け寄ってきた。片眼鏡をかけ、白衣の裾を泥だらけにしたその青年は、興奮した様子でエルノアの顔をまじまじと覗き込む。
「素晴らしい! 実に素晴らしい泥のつき方だ! 頬骨のラインに沿った付着角度、これはまさに理想的なサンプルだ……!」
「あ、あの……」
「私はギルバート。この街で触覚と記憶の関係を研究している者です。ぜひ、私の研究室にいらしてください!」
訳の分からぬまま、エルノアは強引に青年の研究室へと連れて行かれてしまった。
研究室の中は、瓶詰めにされた様々な泥のサンプルや、奇妙な器具でひしめいていた。ギルバートは興奮冷めやらぬ様子で、エルノアに椅子を勧める。
「触覚というのはですね、記憶の中でも特に見過ごされがちな感覚なんです。肌で覚えたぬくもりというのは、頭で覚えるどんな知識よりも強く……ああ、失礼、つい熱くなってしまって」
「いえ、興味深いお話です。……あの、ところで」
エルノアは自分のサッチェルバッグと、その中の『無題の皮革手帳』が泥に汚れてしまわないか、気が気ではなかった。旅の記録は、彼女にとって何より大切なものだ。
「手帳が汚れてしまわないよう、少し魔法をかけてもよろしいですか」
「ええ、どうぞどうぞ」
エルノアは手帳を取り出すと、指先に淡い光を灯し、慣れた手つきで詠唱した。
「――水も泥も、優しく弾く魔法」
撥水と撥泥を兼ねた、いつもの生活魔法だ。手帳の革表紙が、ふわりと淡い光の膜に包まれる。これでもう、多少の泥がついても安心のはずだった。
ところが。
「あ、そうそう! ちょうどいい、これも試してみてください」
ギルバートが得意げに取り出したのは、とろりとした質感の粘土色のオイルだった。
「これは私が開発した『触覚保存オイル』です。物に染み込ませると、その物が触れた感触を、より鮮明に保存できるようになるんですよ!」
「まあ、それは素敵ですね」
深く考えずに頷いたのが、運の尽きだった。ギルバートが調子よく手帳の表紙にオイルを一滴垂らした瞬間、先ほどエルノアがかけたばかりの生活魔法と、ぱちん、と小さな火花を立てて反応した。
「……あら?」
手帳の表紙が、ぽわん、と一瞬だけ淡い虹色に光る。
「ひ、ひひっ……!」
どこからか、くぐもった笑い声が聞こえた気がした。エルノアとギルバートは、顔を見合わせる。
「今の……」
「まさか、ですよね……?」
恐る恐る、エルノアはペンを取り、手帳を開いて試しにひと文字書いてみようとした。ペン先が紙に触れた瞬間。
「ひひひひひっ! く、くすぐったいですぅ~!」
手帳が、盛大に身をよじった。
「て、手帳が喋りました……!?」
「触覚が過敏になりすぎたんだ! 私のオイルとあなたの生活魔法が予想外の反応を……! まさに新発見だ!」
「喜んでいる場合ではありません、ギルバートさん!」
エルノアが慌てて手帳を押さえようとした瞬間、手帳は自らのページをばさばさとはためかせ、まるで羽のように使って、窓の隙間からするりと飛び出していった。
「あ、待ってください、私の手帳ー!!」
いつもの落ち着いた口調も忘れ、エルノアは大慌てで窓から飛び出し、街へと駆け出した。
「ひゃっほう! くすぐったくて止まりませんー!」
手帳は上機嫌に笑い声を上げながら、泥まみれの街を縦横無尽に飛び回る。追いかけるエルノアの後ろから、面白がったギルバートと、さらには面白がった泥精霊ポロンまでもがついてきた。
「あの手帳、なんだか楽しそうだね!」と沿道の子ども。
「魔女様も交ざってるぞ、面白い!」と泥だらけの大人たち。
手帳は泥だまりの上をぴょんぴょん飛び跳ね、街の名物である泥のウォータースライダーへと吸い込まれるように滑り込んでいった。
「まっ、待ってくださいー!!」
エルノアもやむを得ず、後を追って勢いよくスライダーへ飛び込んだ。ローブも帽子も泥まみれになりながら、盛大な水しぶき、もとい泥しぶきを上げて、巨大な泥プールへとダイブする。
「――ぶはっ!」
顔中泥まみれになって浮かび上がったエルノアの目の前には、プールの中央で泥の彫像のふりをして息を潜めている手帳の姿があった。
「ひひっ……見つかっちゃった……」
「見つけましたよ、この……このいたずらっ子さん……!」
エルノアは笑いを堪えきれず、思わず口元を緩めながら手帳に手を伸ばす。ようやく捕まえた手帳は、なおもぷるぷると震えながらくすぐったがっていた。
「落ち着いてくださいね。今、楽にしてあげますから」
エルノアはサッチェルバッグから、旧大陸の旅で摘んでおいたしっとりとしたハーブを取り出し、泥プールの温かい湯に浸しながら、静かに詠唱した。
「――肌触りを、優しく和らげる魔法」
両手で泥まみれの手帳をそっと包み込み、揉み解すように魔法を纏わせていく。ハーブの落ち着いた香りが、手帳に染み込んだ過敏な触覚をゆっくりと鎮めていった。
「ひひ……ふふ……ん……」
やがて手帳の震えは静まり、代わりにページの手触りが、まるでシルクのようにしっとりと滑らかに変化していった。くすぐったがりが治まった証だろうか、手帳はふわりと満足げに一度だけ身じろぎすると、大人しくエルノアの手の中に収まった。
「ふふ、よかった……。もう大丈夫みたいです」
その様子を遠巻きに眺めていた街の人々は、次から次へと繰り広げられたドタバタ劇に、我慢できずに大爆笑していた。ギルバートも興奮した様子で駆け寄ってくる。
「素晴らしい! 触覚の記憶というのは、理屈で語るものではなく、こうして全身で笑い転げる体験そのものだったのですね!」
「ええと……そういうことに、しておきましょうか」
すっかり泥まみれになったエルノアは、開き直ったように小さく笑うと、傍らでこちらを覗き込んでいたポロンに向かって、手のひらいっぱいの泥をやり返した。
「きゅいっ!?」
「ふふ、やられてばかりでは終わりませんよ」
ポロンも負けじと泥玉を投げ返し、いつしかエルノアも周囲の人々に混じって、柄にもなく声を上げて笑っていた。
祭りが落ち着いた夕刻、エルノアは街の温泉宿で丁寧に体と旅装を洗い流し、温かい湯にゆっくりと浸かった。すっかり綺麗になった『無題の皮革手帳』を膝に乗せ、そっとページを開く。あの触覚保存オイルの効果は完全には消えなかったようで、指先が触れるたびに、手帳はほんのりと心地よさそうに震えた。
エルノアはペンを取り、静かにインクを走らせる。
『〇月〇日。泥湯の街テラ・ボニータにて。文字を書き込もうとすると、今でも手帳がほんの少し震える気がします。記憶は頭で残すだけでなく、皮膚に触れる温もりや、全身で笑い転げた感覚の中にも刻まれるのだと知りました。……それにしても、しばらく泥は見たくありません』
書き終えて手帳を閉じると、ふっと笑みがこぼれた。今日一日の騒動を思い返すと、まだ頬が緩んでしまう。
「ふふ……。こんな旅の一日があってもいいですよね」
エルノアは温かい湯に肩まで浸かりながら、窓の外に広がる湯気混じりの夜空を見上げた。明日はまた、荷物をまとめて次の街へ向かうことになる。しっとりと極上の手触りに生まれ変わった手帳を大切に抱え、彼女は晴れやかな顔で、旅の続きに思いを馳せていた。




