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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第1章

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第十二話 時間を貯金する街とゆっくりなお茶会

 言の葉の街ルビィを後にしたエルノアが辿り着いたのは、誰もが忙しなく早足で行き交う、なんとも慌ただしい街だった。


 「まあ……皆さん、随分とお急ぎのようですね」


 街の名は『クロノス』。石畳の広場を、住民たちはまるで何かに追われているかのような速さで歩いていく。誰一人として立ち止まって空を見上げる者も、道端で世間話をする者もいない。時折すれ違う人々の挨拶も、「ど」「ちは」といったように、極端に短く切り詰められていた。街の建物の壁には、いたるところに大小さまざまな時計が取り付けられ、秒針の音がまるで街全体の心臓の鼓動のように絶え間なく響いている。街灯にも小さな時計が埋め込まれ、夜になれば針の動きが淡く発光する仕組みになっているのだと、後になって知った。


 小腹が空いたエルノアは、近くのカフェに入ってみることにした。席に着き、紅茶を注文する。テーブルの上には「お客様の貴重なお時間を無駄にいたしません」という札が誇らしげに立てられていた。周囲の席では、誰もが黙々と食事を掻き込み、瞬く間に席を立っていく光景が繰り返されている。


 「かしこまりました」


 店員はそう答えるや否や、わずか三秒ほどでカップを運んできた。しかも、その紅茶はすでに冷めきっていて、一口サイズに切り分けられた小さなパンが添えられている。店内を見回すと、他の客たちも皆、忙しなく食事を掻き込むようにして、あっという間に席を立っていった。


 「あの、これは……蒸らす前なのでは?」


 「蒸らす時間は無駄ですので、あらかじめ蒸らし終えたものをご用意しております。当店の紅茶は、注文から提供まで平均二・八秒を実現しております」


 誇らしげに胸を張る店員に、エルノアはただただ驚くばかりだった。壁に貼られたメニュー表にも「お待たせいたしません」という文言が大きく掲げられ、注文から提供までの平均時間が秒単位で記されている。よく見ると、道行く人々は皆、腰のあたりに小さなガラス瓶を提げている。中には、うっすらと光る霧のようなものが漂っていた。


 「あれは……何でしょう」


 隣の席の客に尋ねてみると、その紳士は忙しなく時計を確認しながら答えてくれた。


 「ああ、あれは『時間貯金瓶』だよ。暇な時間や待ち時間を瓶に封じ込めて、街の銀行に預けておくのさ。忙しい時にそれを解き放てば、倍速で動けるようになる。この街では、誰もが効率よく生きることを美徳としているんだ」


 「なるほど……。ですが、そうして貯めた時間は、最終的にどのようにお使いになるのでしょう」


 「そりゃあ、もちろん、いつか本当に大切な瞬間のために使うのさ。……いや、正直に言うと、いつ使うかなんて、あまり深く考えたことはないな。ただ、貯めておかないと不安になるんだ」


 紳士は少し困ったように笑ってから、慌てて懐中時計を確認した。彼の言葉には、自分でも整理しきれていない本音が滲んでいるようだった。


 「おっと、いけない。もう三十秒も無駄話をしてしまった」


 そう言い残すと、紳士はコーヒーを一気に飲み干し、足早に店を出ていってしまった。


 


 


 


 


 街を歩くうち、エルノアは小さな時計工房の前で、しゃがみ込んで泣いている少女を見つけた。工房の看板には、精巧な歯車の意匠が施された時計がいくつも飾られている。


 「どうかされましたか?」


 「……別に。ただ、お父さんに怒られただけ」


 少女はリリアンと名乗った。年の頃は十二歳ほどだろうか、目元を擦りながらも、しっかりとした口調で答えてくれた。工房の裏手にある小さな台所には、まだ焼き上がっていない林檎のパイ生地が置かれている。甘酸っぱい林檎の香りが、かすかに漂っていた。


 「これは……アップルパイですか?」


 台所には、砂糖と林檎を煮詰めるための小さな鍋も置かれていた。丁寧に洗われた道具の数々からは、リリアンがどれほど真剣にこのお菓子作りに向き合っているかが伝わってくる。壁には手書きのレシピカードが貼られ、几帳面な祖母の字で丁寧な手順が書き記されていた。


 「うん。おばあちゃんから教わったレシピなの。りんごをじっくり煮詰めて、生地もゆっくり寝かせて焼くのが美味しさの秘訣なんだって。……でも、お父さんはそんな時間、無駄だって言うの」


 リリアンは膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。祖母が生きていた頃、二人でキッチンに並んで、気長にパイ生地をこねていた記憶が、彼女にとってはかけがえのない宝物だった。それを「無駄」と切り捨てられることが、何よりも辛かったのだろう。


 悲しそうに俯くリリアンの声には、大好きな祖母の思い出を否定されたような、深い寂しさが滲んでいた。その元へ、工房の奥から厳しい表情の男性が現れた。彼女の父、クロードだった。


 「時間は金だ。無駄な工程は排除しろと、何度言ったら分かるんだ」


 クロードの声には、苛立ちと同時に、どこか切羽詰まったような焦りが滲んでいた。彼はエルノアの存在に気づくと、軽く会釈をしてから、事務的な口調で用件を尋ねてきた。


 「時計工房のクロードだ。何か御用ですかな。手短にお願いしたい」


 クロードの部屋に案内されると、そこには棚一面にずらりと並んだ、無数の時間貯金瓶があった。どれもラベルが几帳面に貼られ、几帳面に整理されている。「独身時代・待ち時間」「開業準備期間」「通勤の隙間時間」など、細かく分類された文字が並んでいた。


 「随分と丁寧に管理されているのですね」


 「当然だ。時間は限りある資源だからな。無計画に浪費するなど、愚か者のすることだ」


 クロードは誇らしげに胸を張ったが、その視線はどこか棚の奥、一際古びた瓶に向けられていた。それに気づいたエルノアは、思わずそちらへと視線を向けた。埃をかぶったその瓶だけは、他の瓶とは違い、几帳面なラベルがついていなかった。長く触れられていない様子から、それが特別な意味を持つものであることが、なんとなく伝わってきた。


 「そんなにたくさんの時間を溜め込んで、一体いつお使いになるのですか?」


 エルノアが尋ねると、クロードは一瞬言葉に詰まった。


 「将来、本当に大切な仕事をする時のためだ」


 「具体的には、どのようなお仕事に?」


 「それは……」


 クロードは口ごもった。長年溜め込んできたはずのその時間を、実際に何に使うのか、彼自身も、もうよく分からなくなっているようだった。棚に並ぶ瓶の一つを手に取り、ラベルを見つめる彼の目には、どこか虚しさのようなものが浮かんでいた。窓から差し込む夕暮れの光が、その横顔を静かに照らしていた。


 「妻が生きていた頃は、いつか一緒にゆっくり旅行でもしようと思って、時間を貯めていたんだ。……だが、彼女はもういない。それでも、貯める癖だけが抜けなくてな」


 思いがけない告白に、エルノアは静かに耳を傾けた。クロードの声には、これまでの効率主義的な口調とは違う、ふとした人間らしい弱さが滲んでいた。


 「彼女が亡くなってから、私はますます仕事に打ち込むようになった。時間さえあれば、いつか何かを取り戻せると思っていたのかもしれない。……だが、実際にはただ時間を積み上げているだけで、何一つ使えていない」


 窓の外から、リリアンが工房の裏庭で一人、りんごの皮を剥いている姿が見えた。その小さな背中を見つめながら、クロードは深いため息をついた。


 


 


 


 


 その夜、根を詰めすぎたクロードが、工房でふらりと倒れそうになった。時間貯金瓶を何本も一気に解き放ち、無理をして仕事を続けていたツケが、ようやく身体に出たのだろう。


 「クロードさん、少し休んでください」


 エルノアは彼を椅子に座らせ、そっとカップにハーブティーを注いだ。杖の先からほのかな熱を灯し、『温もりを保つ生活魔法』をかける。効率重視のこの街では滅多に見られない、じんわりとした湯気が立ち上り、優しい香りが部屋いっぱいに広がっていった。


 「これは……」


 クロードが戸惑ったように呟いた、その時だった。工房の外から、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。リリアンが、時間をかけてじっくり焼き上げたアップルパイの香りだった。窓の外では、リリアンが緊張した面持ちで、焼きたてのパイを両手で大切そうに抱えて立っている。父の反応を恐れながらも、それでもどうしても届けたいという想いが、その表情から伝わってきた。


 「無理はしなくていいですよ。ただ、少しだけ、彼女の想いを受け取ってあげてください」


 エルノアの静かな言葉に、クロードは黙って窓の外に目をやった。娘の緊張した顔を見て、何かを思うところがあったのだろう、彼はゆっくりと立ち上がり、扉を開けにいった。その足取りは、いつもの機敏さとは違う、どこか迷いを含んだ慎重なものだった。


 「果実が甘くなるのにも、お茶が美味しく出るのにも、どうしても必要な『無駄な時間』があるみたいです」


 エルノアは静かにそう語りかけた。ハーブティーの湯気がゆっくりと立ち上る様子を見つめながら、クロードは何も言えずにいた。


 


 


 


 


 ハーブティーを一口飲み、リリアンが持ってきたあたたかいアップルパイを口にした瞬間、クロードの目が大きく見開かれた。


 「これは……」


 優しい甘さと、じんわりとした温もりが、口の中いっぱいに広がっていく。それは、まだ妻が生きていた頃、家族三人で笑い合いながらお茶を飲んでいた、すっかり忘れていた懐かしい記憶を呼び覚ますものだった。長らく忘れていたその味に、クロードは思わず言葉を失った。


 脳裏に、幼いリリアンを膝に乗せて、妻と三人で笑い合っていた休日の光景がよみがえる。あの頃は、時計を気にすることなく、ただ穏やかに時間が流れていた気がした。日曜の朝、焼きたてのパンの匂いと、妻の笑い声、そしてまだ小さかったリリアンのはしゃぐ声。どれも、忙しさにかまけて、いつの間にか思い出す暇さえなくなっていた光景だった。いつの間にか、その温もりを忘れて、時間を数字としてしか見られなくなっていた自分に、クロードはようやく気づいた。


 クロードはしばらく黙り込んだあと、棚から一つの時間瓶を取り出した。ラベルには「最高級・厳選時間」と几帳面な文字で書かれている。それは、彼が最も大切に、誰にも使わせずに取っておいた瓶だった。長年しまい込まれていたその瓶の表面には、うっすらと埃が積もっていた。


 「今日の午後は……この時間を贅沢に『無駄遣い』することにしよう」


 パチンと蓋を開けると、瓶の中から柔らかな光がふわりと溢れ出した。それは陽だまりのような暖かい光で、部屋全体をゆっくりと満たしていった。


 「お父さん……」


 驚くリリアンに、クロードは久しぶりに柔らかな笑みを見せた。目元には、長年の疲労とは違う、穏やかな安らぎが浮かんでいた。


 「今まで、お前の作るお菓子を、ゆっくり味わったことがなかったな。すまなかった」


 「ううん……。作ってよかった」


 リリアンは涙ぐみながらも、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、これまで見た中で一番、年相応に無邪気なものだった。父親の言葉一つで、こんなにも表情が変わるものかと、エルノアは静かにその様子を見守っていた。


 時計の針がゆっくりと刻む中、三人は静かで豊かなお茶会を楽しんだ。誰も時計を気にすることなく、ただゆったりと流れる時間の中で、他愛のない話に花を咲かせた。窓の外では、相変わらず街の人々が忙しなく行き交っていたが、この部屋の中だけは、まるで時が止まったかのような穏やかさに包まれていた。


 リリアンは祖母から教わった思い出話を、クロードは若い頃に妻と出会った時のなれそめを、それぞれ嬉しそうに語った。エルノアはその話に耳を傾けながら、こんなにも豊かな時間の使い方があるのだと、旅の中でまた一つ、大切なことを学んだ気がした。


 


 


 


 


 街を後にする日、クロードはエルノアに小さな空の時間瓶を手渡した。


 「これを持っていってくれ。……あんたにも、いつか無駄遣いしたくなる時間があるといい」


 「まあ……ありがとうございます」


 クロードの表情には、出会った時のような険しさはもうなかった。手渡された瓶は小さく軽かったが、その重みは、決して見た目ほど軽くはないのだろうと、エルノアは静かに感じ取った。


 傍らでは、リリアンが名残惜しそうにエルノアの袖を引いていた。


 「エルノアお姉ちゃん、また来てね。今度はもっと美味しいパイを焼くから」


 「ふふ、楽しみにしていますね」


 エルノアはリリアンの頭を優しく撫でた。すっかり明るくなった彼女の表情を見て、この街を訪れてよかったと、心から思った。


 エルノアはそれを大切にサッチェルバッグへ納め、街道の木陰に腰を下ろした。振り返ると、クロードとリリアンが並んで手を振っている姿が見えた。父娘の間に流れる空気は、出会った時とはまるで違う、穏やかで温かいものに変わっていた。


 『無題の皮革手帳』を開き、静かにペンを走らせる。


 『〇月〇日。時間を貯金する街クロノスにて。時間は溜め込むものではなく、誰かと温かいものを分け合うために使うものなのかもしれません。今日飲んだお茶は、いつもよりほんの少し甘く感じました』


 書き終えた文字を見つめ、エルノアは満足そうに微笑んだ。振り返れば、時計塔の鐘が正午を告げる音が、街中に響き渡っていた。それでも、さっきまでとは違って、その音がどこか穏やかに聞こえるのは、きっと気のせいではないだろう。この街の人々もまた、いつかクロードのように、大切な時間の使い方に気づく日が来るのかもしれないと、エルノアは静かに思いを馳せた。


 手帳を閉じると、ゆったりとした足取りで、エルノアは次の街へと歩き出した。急ぐ理由など、どこにもなかった。道端に咲く小さな花に目を留め、時折立ち止まっては深呼吸をしながら、エルノアはその一歩一歩を、大切に踏みしめていった。

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