* 壊れた夜に残ったもの *
※一部暴力的・性的な意図を含む描写が登場します。苦手な方はご注意のうえ、お読みください。
ニールは速やかにアヴェリス家の私設警備へと引き渡された。会場の混乱を最小限に抑えるため、手際よく静かに処理が進められ、夜会の華やかさに翳りが差すことはなかった。
偶然にも、リシェルが助けた令嬢は――アヴェリス公爵の長女だった。
事情を知った侍女たちによって、リシェルの身なりはすぐに整えられた。ずれていたドレスはきちんと直され、乱れた髪も手早く整えられる。
身なりが整い終わるころには、館の外では夜会も終わりを迎えていた。
酔いはすでに、だいぶ薄れていた。
* * *
夜会が終わった広間には、すでに客の姿はない。
煌びやかなシャンデリアの明かりだけが、余韻のように天井を照らし、静まり返った空間に微かに弦楽の残響が漂っていた。賑わいはすっかり過去のものとなり、先ほどまでの喧騒が嘘のように静けさに包まれている。
給仕たちが片づけに動く中、リシェルはその一角に佇んでいた。深夜の余熱に冷たい空気が混じり始めた広間で、ほんのりと葡萄酒の香りだけが残っている。
その向かい、公爵がゆっくりと歩み寄り――
「このたびは……娘を守ってくださり、心より感謝いたします。あの場にあなたがいなければ、どうなっていたか……」
その口調は威厳に満ちているが、父としての安堵がにじんでいた。
「当然のことをしたまでです。公爵様のお心遣いも、ドレスや髪のご配慮も、ありがたく頂戴いたしました」
リシェルは騎士として一礼を返す。控えめだが、礼儀正しく、凛とした立ち居振る舞いだった。
その少し離れた場所で――
ノアと令嬢が、穏やかに会話をしていた。
ふたりの距離は適切だったが、雰囲気は和やかで、笑顔が何度か交わされるのが見えた。令嬢の上品な金髪が揺れ、ノアは時折、小さく頷いていた。
その姿は――絵のように美しかった。
(ああ……よく似合ってる)
そう思ってしまった自分に、リシェルは息を詰めた。
令嬢は優雅で、聡明で、美しい。
ノアは若き名家の令息として申し分のない立場にあり、彼女の隣に立つ姿は、まるで物語の一幕のようだった。
(……誰もが納得する。誰もが、祝福するだろう)
そう思えば思うほど、胸の奥にじわりと広がるこのざらついた痛みが、無性に煩わしかった。
わかっている。それが“正しい”ということは、痛いほど。
なのに。
胸の奥が、じりじりと焼けるように痛んだ。
自分はただの上司で、ただの騎士。年上で、平民のくせに。
(……何考えてるんだ、私は)
ばかみたいだ、と心の中で吐き捨てる。
そのくせ目が離せない自分が、いちばん厄介だった。
その時。
ふいに令嬢が片手を額に当て、ふらりと身体を傾けた。
「っ……」
ノアが即座に支え、「失礼します」と言って、そのまま自然に彼女の体を抱き上げた。
「立ちくらみのようですので、お部屋までお送りします」
ノアは彼女をその腕に抱えたまま、ゆるやかに立ち上がる。
互いを見つめる視線のあいだに、誰も割り込めない静けさが満ちていた。
令嬢は少し頬を赤らめながら、小さく礼を述べた。
「……ありがとうございます」
二人の視線が交わる。言葉ひとつないまま、ゆっくりと見つめ合うような一瞬――
その静けさに、リシェルは既視感を覚えた。
――あの夜。酔って足をもつれさせた自分を、そっと支えてくれたノア。
背を預け、腕の中に落ちたときの、温もりと心地よい静寂。
忘れるはずもない、確かに胸に刻まれた記憶。
いま、そのぬくもりが、他の誰かに向けられている。
(……あれは酔っ払いを助けただけだ。全然違うだろ……)
そう思おうとするたび、心の奥にじわりと染みるような痛みが広がっていく。
知らなければよかった。
思い出さなければよかった。
こんな気持ち、抱く資格なんてないのに。
それでも、目が離せなかった。
優しく令嬢を抱えるノアの腕と、彼を見上げる彼女の微笑みに――
自分でもどうしようもないほど、胸が締めつけられていた。
ノアは令嬢を侍女に託され、ゆっくりと広間を後にする。
その後ろ姿を、リシェルはただ黙って見送った。
「ふむ……」
隣で、公爵が低く呟く。
その目は、去っていくふたりの背に向けられていた。
感情は読めないが、どこか静かな含みを持つ声音だった。
やがて、公爵はリシェルの方に再び視線を戻し、柔らかく微笑む。
「今宵の件――お疲れでしょう。我が家の馬車をご用意いたします。どうか、お先にお帰りください」
アヴェリス公爵の声は穏やかで、表情にも笑みが浮かんでいた。だが、そこに温かさはなかった。
(……なるほど。邪魔だから帰れってことか)
リシェルはそう受け取った。
美しい令嬢と、その隣で微笑むノア。
すでに絵は完成していた。
そこに自分の立ち位置なんて、最初から用意されていなかったのだ。
「……ご配慮、痛み入ります」
礼だけはきちんと返し、背筋を伸ばして一礼する。
けれどその胸の奥は、見えない何かに殴られたように、ずしりと痛んでいた。
そして、会場を後にする。
馬車の待つ扉までの距離が、やけに遠く感じた。
空気は冷えているはずなのに、胸の奥のほうが熱い。
(歳上の平民女が、何を期待していたのか)
ノアと令嬢の姿が脳裏にちらつく。
あまりにもお似合いで、釣り合っていて――
それに比べて、自分は。
「……身の程を知れ」
リシェルは唇を噛み、何かを振り払うように馬車へと歩を進めた。
静かに開かれた馬車の扉。
中に身を滑り込ませると、扉が音もなく閉じ、馬車はゆっくりと動き出した。
* * *
馬車が動き出して間もなく――それは、突然だった。
(……来た)
リシェルは息を呑む。
いつもなら、戦いを終えた後に訪れる“反動”。
自分の中のスイッチを無理やり入れた代償。
――低く、喉を震わせる声。
それと同時に、腰をなぞる指先の感触が蘇る。
強引に引き寄せられた体。
押し倒されたときの、ソファの冷たさ。
(やめろ――)
――肩口にかかる手。
布が滑り落ちる感触。
空気が触れた左肩の、あの生々しい冷たさ。
耳元に落ちた熱い吐息。
首筋に、迫る熱。
(やめて――)
眉間にしわを寄せ、目をきつく閉じる。
それでも、まぶたの裏であの男の顔が浮かぶ。
重なってくる。感覚が。音が。温度が。肌の震えが。
理性はすでに悲鳴をあげていた。
握り込んだ拳が震える。奥歯が軋むほど噛みしめても、胸の内側がざわついて止まらない。
皮膚の奥がざわざわと泡立ち、なにか汚れたものに全身を塗り込められるような感覚に襲われる。
(気持ち悪い……)
心の奥に堅く封じたはずの感情が、隙間を見つけて一気に溢れだす。
怖い。
悔しい。
情けない。
恥ずかしい。
呼吸が浅くなる。
見えない手に首を絞められているような感覚に、息が詰まりそうになる。
――いつもなら、剣を振ってごまかしていた。
切っ先に神経を集中させて、余計なものをすべて斬り落とすように。
だが、今はそれすらできない。
この狭い馬車の中では、ただ黙って揺られ、じっと耐えるしかなかった。
指が震え、冷や汗が背を這う。
視界が滲む。胸の奥が軋む。
熱く流れ出した涙が、頬を伝って落ちるのを、もう止められなかった。
(だめ……もっていかれる……)
何か大切なものが、自分の奥底から引き剥がされそうな感覚。
感情なのか、誇りなのか、何かはわからない。
ただ、それを繋ぎ止めていなければ、自分が“自分”でいられなくなる気がした。
唇を噛んでも、奥歯を噛みしめても、震えは止まらない。
(……や……だ)
喉の奥から何かが漏れそうになり、必死に唇を噛みしめた。
けれど、もう――限界だった。
崩れる――
そのときだった。
馬車が急に止まり、勢いよく扉が開く音が響いた。
冷たい夜気とともに現れたのは、銀髪の青年――ノアだった。
肩で息をし、額に汗を滲ませ、まっすぐにリシェルを見ていた。
その姿を見た瞬間、張りつめていたものが音もなく崩れた。
「ど……うして……」
かすれた声。自分でも、自分のものとは思えなかった。
見られたくなかった。こんな、みっともない自分を。
ノアは一言も言わない。ただ、リシェルの前に立ち尽くしていた。
怒りでも同情でもない、ただ真っ直ぐな眼差しで。
そして彼は、御者に短く告げた。
「……急にすまなかった。出発してくれ」
それだけを言い残し、静かに扉を閉めた。
ゆっくりと、けれど確実に。
その音が、リシェルの胸の奥をやさしく打った。
――今にも壊れそうだった何かが、ぎりぎりのところで繋がれた。
* * *
夜の馬車は、静かに進んでいた。
窓の外には闇が広がり、時おり街灯が通り過ぎては、室内の影を揺らす。
リシェルは、ノアの腕の中にいた。
ふいに崩れそうになった心を、何かにすがるように、彼の胸に顔を埋めていた。
ただ、温もりがあった。
それだけで、かろうじて繋ぎとめられていた。
凍りついた心の隙間から、ほんの少しずつ、感覚が戻ってくる。
外では風が鳴り、車輪が石畳を叩いていた。
けれど、馬車の中は息を潜めたように静かだった。
どれくらいそうしていただろう。
少しずつ、リシェルの呼吸が整ってくる。
ノアが、静かに言った。
「……一人にして、ごめん」
その声は、とても静かで、けれど確かに震えていた。
「リシィを……あんなふうに一人で帰した公爵が、悔しかった。
リシィを襲ったアイツが、許せなかった。殺してやりたいって思った。
でも――」
声が、わずかに詰まる。
「一番許せないのは、守りきれなかった自分だ。
こんなに大切で……どうしようもないくらいに好きで……
なのに、貴女があんな目に遭ってる時、俺は……何もできなかった……」
夜の静けさが、そのままノアの想いを引き立てる。
「こんなにも――貴女を失いたくないのに」
それは、まるで自分を責めるような声だった。
けれど、そのまっすぐな痛みが、リシェルの胸を強く打つ。
"好き"
その一言が、音もなく胸に落ちる。
ずっと、何かを封じてきた。
期待なんてしてはいけないと、分かっていた。
なのに――こんな言葉を向けられたら、どうしていいかわからない。
「……ノア、違うよ」
かすれた声が、自然とこぼれた。
「君は、いつも守ってくれる。
……私を、何度も救ってくれた。今日も、ずっと」
頬を伝う涙が、今度はあたたかかった。
ぼろぼろの心に染みわたる、優しい雨のようだった。
ノアが、少しだけ顔を上げる。
涙をたたえたままの瞳が、まっすぐにリシェルを見ていた。
どちらからともなく、ゆっくりと顔が近づく。
この空間には、もう余計なものは何もなかった。
上下も、立場も、年齢も、すべてが今は意味を持たない。
ただ、心と心が――惹かれ合っていた。
音もなく、唇が重なる。
やさしくて、あたたかくて、泣きたくなるような口づけだった。
壊れかけた心をそっと繋ぎ直すように、時間を忘れて、二人はただ寄り添っていた。
闇の中を走る馬車の中。
ほんの短い時間が、永遠のように、静かに流れていた。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。