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9/17

* 壊れた夜に残ったもの *

※一部暴力的・性的な意図を含む描写が登場します。苦手な方はご注意のうえ、お読みください。

ニールは速やかにアヴェリス家の私設警備へと引き渡された。会場の混乱を最小限に抑えるため、手際よく静かに処理が進められ、夜会の華やかさに翳りが差すことはなかった。


偶然にも、リシェルが助けた令嬢は――アヴェリス公爵の長女だった。


事情を知った侍女たちによって、リシェルの身なりはすぐに整えられた。ずれていたドレスはきちんと直され、乱れた髪も手早く整えられる。

身なりが整い終わるころには、館の外では夜会も終わりを迎えていた。


酔いはすでに、だいぶ薄れていた。



* * *



夜会が終わった広間には、すでに客の姿はない。


煌びやかなシャンデリアの明かりだけが、余韻のように天井を照らし、静まり返った空間に微かに弦楽の残響が漂っていた。賑わいはすっかり過去のものとなり、先ほどまでの喧騒が嘘のように静けさに包まれている。


給仕たちが片づけに動く中、リシェルはその一角に佇んでいた。深夜の余熱に冷たい空気が混じり始めた広間で、ほんのりと葡萄酒の香りだけが残っている。


その向かい、公爵がゆっくりと歩み寄り――


「このたびは……娘を守ってくださり、心より感謝いたします。あの場にあなたがいなければ、どうなっていたか……」


その口調は威厳に満ちているが、父としての安堵がにじんでいた。


「当然のことをしたまでです。公爵様のお心遣いも、ドレスや髪のご配慮も、ありがたく頂戴いたしました」


リシェルは騎士として一礼を返す。控えめだが、礼儀正しく、凛とした立ち居振る舞いだった。


その少し離れた場所で――


ノアと令嬢が、穏やかに会話をしていた。


ふたりの距離は適切だったが、雰囲気は和やかで、笑顔が何度か交わされるのが見えた。令嬢の上品な金髪が揺れ、ノアは時折、小さく頷いていた。


その姿は――絵のように美しかった。


(ああ……よく似合ってる)


そう思ってしまった自分に、リシェルは息を詰めた。


令嬢は優雅で、聡明で、美しい。

ノアは若き名家の令息として申し分のない立場にあり、彼女の隣に立つ姿は、まるで物語の一幕のようだった。


(……誰もが納得する。誰もが、祝福するだろう)


そう思えば思うほど、胸の奥にじわりと広がるこのざらついた痛みが、無性に煩わしかった。


わかっている。それが“正しい”ということは、痛いほど。


なのに。


胸の奥が、じりじりと焼けるように痛んだ。


自分はただの上司で、ただの騎士。年上で、平民のくせに。


(……何考えてるんだ、私は)


ばかみたいだ、と心の中で吐き捨てる。

そのくせ目が離せない自分が、いちばん厄介だった。


その時。


ふいに令嬢が片手を額に当て、ふらりと身体を傾けた。


「っ……」


ノアが即座に支え、「失礼します」と言って、そのまま自然に彼女の体を抱き上げた。


「立ちくらみのようですので、お部屋までお送りします」


ノアは彼女をその腕に抱えたまま、ゆるやかに立ち上がる。

互いを見つめる視線のあいだに、誰も割り込めない静けさが満ちていた。


令嬢は少し頬を赤らめながら、小さく礼を述べた。


「……ありがとうございます」


二人の視線が交わる。言葉ひとつないまま、ゆっくりと見つめ合うような一瞬――

その静けさに、リシェルは既視感を覚えた。


――あの夜。酔って足をもつれさせた自分を、そっと支えてくれたノア。

背を預け、腕の中に落ちたときの、温もりと心地よい静寂。

忘れるはずもない、確かに胸に刻まれた記憶。


いま、そのぬくもりが、他の誰かに向けられている。


(……あれは酔っ払いを助けただけだ。全然違うだろ……)


そう思おうとするたび、心の奥にじわりと染みるような痛みが広がっていく。


知らなければよかった。

思い出さなければよかった。

こんな気持ち、抱く資格なんてないのに。


それでも、目が離せなかった。

優しく令嬢を抱えるノアの腕と、彼を見上げる彼女の微笑みに――

自分でもどうしようもないほど、胸が締めつけられていた。



ノアは令嬢を侍女に託され、ゆっくりと広間を後にする。

その後ろ姿を、リシェルはただ黙って見送った。


「ふむ……」


隣で、公爵が低く呟く。


その目は、去っていくふたりの背に向けられていた。

感情は読めないが、どこか静かな含みを持つ声音だった。


やがて、公爵はリシェルの方に再び視線を戻し、柔らかく微笑む。


「今宵の件――お疲れでしょう。我が家の馬車をご用意いたします。どうか、お先にお帰りください」


アヴェリス公爵の声は穏やかで、表情にも笑みが浮かんでいた。だが、そこに温かさはなかった。


(……なるほど。邪魔だから帰れってことか)


リシェルはそう受け取った。

美しい令嬢と、その隣で微笑むノア。

すでに絵は完成していた。

そこに自分の立ち位置なんて、最初から用意されていなかったのだ。


「……ご配慮、痛み入ります」


礼だけはきちんと返し、背筋を伸ばして一礼する。

けれどその胸の奥は、見えない何かに殴られたように、ずしりと痛んでいた。


そして、会場を後にする。


馬車の待つ扉までの距離が、やけに遠く感じた。

空気は冷えているはずなのに、胸の奥のほうが熱い。


(歳上の平民女が、何を期待していたのか)


ノアと令嬢の姿が脳裏にちらつく。

あまりにもお似合いで、釣り合っていて――


それに比べて、自分は。


「……身の程を知れ」


リシェルは唇を噛み、何かを振り払うように馬車へと歩を進めた。


静かに開かれた馬車の扉。


中に身を滑り込ませると、扉が音もなく閉じ、馬車はゆっくりと動き出した。



* * *



馬車が動き出して間もなく――それは、突然だった。


(……来た)


リシェルは息を呑む。

いつもなら、戦いを終えた後に訪れる“反動”。

自分の中のスイッチを無理やり入れた代償。


――低く、喉を震わせる声。


それと同時に、腰をなぞる指先の感触が蘇る。

強引に引き寄せられた体。

押し倒されたときの、ソファの冷たさ。


(やめろ――)


――肩口にかかる手。

布が滑り落ちる感触。

空気が触れた左肩の、あの生々しい冷たさ。


耳元に落ちた熱い吐息。

首筋に、迫る熱。


(やめて――)


眉間にしわを寄せ、目をきつく閉じる。

それでも、まぶたの裏であの男の顔が浮かぶ。

重なってくる。感覚が。音が。温度が。肌の震えが。


理性はすでに悲鳴をあげていた。

握り込んだ拳が震える。奥歯が軋むほど噛みしめても、胸の内側がざわついて止まらない。

皮膚の奥がざわざわと泡立ち、なにか汚れたものに全身を塗り込められるような感覚に襲われる。


(気持ち悪い……)


心の奥に堅く封じたはずの感情が、隙間を見つけて一気に溢れだす。

怖い。

悔しい。

情けない。

恥ずかしい。


呼吸が浅くなる。

見えない手に首を絞められているような感覚に、息が詰まりそうになる。


――いつもなら、剣を振ってごまかしていた。

切っ先に神経を集中させて、余計なものをすべて斬り落とすように。


だが、今はそれすらできない。

この狭い馬車の中では、ただ黙って揺られ、じっと耐えるしかなかった。


指が震え、冷や汗が背を這う。

視界が滲む。胸の奥が軋む。

熱く流れ出した涙が、頬を伝って落ちるのを、もう止められなかった。


(だめ……もっていかれる……)


何か大切なものが、自分の奥底から引き剥がされそうな感覚。

感情なのか、誇りなのか、何かはわからない。

ただ、それを繋ぎ止めていなければ、自分が“自分”でいられなくなる気がした。


唇を噛んでも、奥歯を噛みしめても、震えは止まらない。


(……や……だ)


喉の奥から何かが漏れそうになり、必死に唇を噛みしめた。


けれど、もう――限界だった。


崩れる――


そのときだった。


馬車が急に止まり、勢いよく扉が開く音が響いた。


冷たい夜気とともに現れたのは、銀髪の青年――ノアだった。

肩で息をし、額に汗を滲ませ、まっすぐにリシェルを見ていた。


その姿を見た瞬間、張りつめていたものが音もなく崩れた。


「ど……うして……」


かすれた声。自分でも、自分のものとは思えなかった。

見られたくなかった。こんな、みっともない自分を。


ノアは一言も言わない。ただ、リシェルの前に立ち尽くしていた。

怒りでも同情でもない、ただ真っ直ぐな眼差しで。


そして彼は、御者に短く告げた。


「……急にすまなかった。出発してくれ」


それだけを言い残し、静かに扉を閉めた。

ゆっくりと、けれど確実に。


その音が、リシェルの胸の奥をやさしく打った。


――今にも壊れそうだった何かが、ぎりぎりのところで繋がれた。



* * *



夜の馬車は、静かに進んでいた。

窓の外には闇が広がり、時おり街灯が通り過ぎては、室内の影を揺らす。


リシェルは、ノアの腕の中にいた。

ふいに崩れそうになった心を、何かにすがるように、彼の胸に顔を埋めていた。


ただ、温もりがあった。

それだけで、かろうじて繋ぎとめられていた。

凍りついた心の隙間から、ほんの少しずつ、感覚が戻ってくる。


外では風が鳴り、車輪が石畳を叩いていた。

けれど、馬車の中は息を潜めたように静かだった。


どれくらいそうしていただろう。

少しずつ、リシェルの呼吸が整ってくる。


ノアが、静かに言った。


「……一人にして、ごめん」


その声は、とても静かで、けれど確かに震えていた。


「リシィを……あんなふうに一人で帰した公爵が、悔しかった。

リシィを襲ったアイツが、許せなかった。殺してやりたいって思った。

でも――」


声が、わずかに詰まる。


「一番許せないのは、守りきれなかった自分だ。

こんなに大切で……どうしようもないくらいに好きで……

なのに、貴女があんな目に遭ってる時、俺は……何もできなかった……」


夜の静けさが、そのままノアの想いを引き立てる。


「こんなにも――貴女を失いたくないのに」


それは、まるで自分を責めるような声だった。

けれど、そのまっすぐな痛みが、リシェルの胸を強く打つ。


"好き"


その一言が、音もなく胸に落ちる。


ずっと、何かを封じてきた。

期待なんてしてはいけないと、分かっていた。

なのに――こんな言葉を向けられたら、どうしていいかわからない。


「……ノア、違うよ」


かすれた声が、自然とこぼれた。


「君は、いつも守ってくれる。

……私を、何度も救ってくれた。今日も、ずっと」


頬を伝う涙が、今度はあたたかかった。

ぼろぼろの心に染みわたる、優しい雨のようだった。


ノアが、少しだけ顔を上げる。

涙をたたえたままの瞳が、まっすぐにリシェルを見ていた。


どちらからともなく、ゆっくりと顔が近づく。


この空間には、もう余計なものは何もなかった。

上下も、立場も、年齢も、すべてが今は意味を持たない。


ただ、心と心が――惹かれ合っていた。


音もなく、唇が重なる。


やさしくて、あたたかくて、泣きたくなるような口づけだった。


壊れかけた心をそっと繋ぎ直すように、時間を忘れて、二人はただ寄り添っていた。


闇の中を走る馬車の中。

ほんの短い時間が、永遠のように、静かに流れていた。

ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。

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