* その想いが変わるとき *
郊外の丘の上、木々のざわめきだけが響く静かな墓地。
石でできた立派な墓標が二つ、寄り添うように並んでいる。
ひとつは国家の盾と謳われた騎士、父のもの。
そしてその隣には――母の名が刻まれた、静かな墓標。
リシェルはふたつの墓前に、季節の野花をまとめた素朴な花束と、父が好んだ辛口の酒を供えた。
ゆっくりと膝をつき、両手を合わせて目を閉じる。
(……父さん、母さん、久しぶり。
私、ついに第三部隊の隊長になったんだ。
まだまだ、父さんには届かないけど……でも、精一杯頑張ってるよ)
心の中でそう語りかけると、風がそっと頬を撫でた。
どこか、両親に背中を押されたような気がして、自然と口元が緩む。
ふと隣に目をやると、ノアも目を閉じ、深く頭を下げていた。
静かに、けれど真剣に祈っている姿が、どこか大人びて見える。
(……ちゃんと祈ってくれてるんだ)
それがなぜか嬉しくて、リシェルはつい、ぽつりと話し始めた。
「母さんはね、私を産んですぐに亡くなったんだ」
ノアが静かに顔を上げ、リシェルに視線を向ける。
「だから、その分……父さんが、愛情たっぷりに育ててくれた。
『お前は母さんの忘形見だから』って、よく言ってたな」
風に髪が揺れる。
リシェルの瞳は、どこか懐かしさに潤んでいた。
「大きくて、強くて、でもすごく優しかった。……時には厳しくてさ。
でも、そんな父さんが……大好きだったんだ」
ノアは言葉を挟まない。ただ、静かに耳を傾けていた。
「だから、戦死した時……
九歳の私は、全部を失ったと思った」
声が少しだけ震えた。
「でもね――色々あって、気づいたんだ」
リシェルはゆっくりと胸に手を置く。
「私の中に、父さんはちゃんと残ってた。
剣の構えも、人を守るために使う強さも……教わったこと全部、忘れてなかった」
まっすぐに、墓標を見つめるその瞳は、もう迷っていない。
リシェルはそっと顔を上げ、隣に立つノアを見つめた。
「……だから、ノアが、“私を見て父さんがどんな人だったか分かる気がする”って言ってくれて、すごく嬉しかった」
言葉を結んだ瞬間、ゆるく微笑んだその目から、一粒の涙が静かにこぼれ落ちる。
ノアは一瞬だけ目を見開いたあと、ゆっくりとその視線をリシェルに向ける。
「……リシィのお父さんも、きっと誇りに思ってる」
その穏やかな呟きに、リシェルは小さく笑って「ありがと」と返した。
静かに、風が通り過ぎていく。
木々のざわめきの中で、父への想いと、それを誰かに伝えられたことで得た小さな救いが、空へと還っていくようだった。
* * *
王都の端にひっそりと佇む、小さな孤児院。
かつてリシェルが暮らしていた場所。今でも時折こうして、差し入れを届けに訪れていた。
その日も、両手いっぱいの紙袋を抱え、リシェルとノアは玄関をくぐる。
「久しぶり、院長様。これ、いつものやつ」
「まあまあ……またこんなにたくさん。ありがとう、リシェル」
「はじめまして。リシェルの部下のノアです。今日は便乗してお邪魔します」
笑顔で挨拶するノアに、院長はふんわり目を細めた。
そこへ、奥から駆けてくる子どもたちの足音。
「あっ、リシィだー!」「遊ぼう!リシィー!」
元気な声とともに、小さな手が次々とリシェルの手を取る。
「ちょ、ちょっと待って、まだ荷物が……」
「俺、運んどくよ。リシィは、行っておいで」
ノアがにこりと笑って紙袋を引き取る。
「それじゃ、お言葉に甘えて――いってくるね」
リシェルは、子どもたちに引っ張られるまま、笑顔で庭の方へ駆けていった。
日差しの中、リシェルは夢中で子どもたちと遊んでいた。
木登り、剣ごっこ、鬼ごっこ――次から次へと全力で応じている姿に、子どもたちは歓声を上げる。
昔と変わらず、リシェルは人気者だった。
ふと気づけば、空の色が柔らかく傾き始めていた。
「リシィ」
声がして振り返ると、ノアが玄関先から手を振っていた。
「もうこんな時間? ごめん、待たせてしまったな」
「いいんだ。楽しそうだったし」
微笑むノアの表情に、なぜか少しドキリとする。
* * *
帰り道。
二人は馬車に揺られながら、宿舎へと向かっていた。
「今日はありがとう。なんだか色々付き合わせちゃったな」
リシェルが気を遣うように言うと、ノアは少し思案するように目を細め――そして、にっこりと笑った。
「じゃあ、ご褒美……もらおうかな」
「え?」
聞き返す間もなく、ノアはするりと隣に滑り込み、そのまま腕を伸ばしてきた。
「ちょ、ちょっと!? ノア――」
ふわりと、ためらいのない動きでリシェルの肩を引き寄せる。
密着する距離。
触れ合う肩と肩、伝わる体温――
鼓動が、かすかに重なる。
リシェルの心臓が、やけにうるさい。
なのに、ノアは平然としたまま、彼女を腕の中に抱き込んでいた。
「わ、私……汗くさいんだ……だから、ほら、離れたほうがいい」
逃げるように口をついた。
「ん、そう?」
そう言ったノアは、リシェルの首筋へ顔を寄せる。
「ちょっ、ちょっと……どこ嗅いでんのっ!?」
首筋に、あたたかな吐息。
次いで、そっと顔をうずめてくる。
「……いい匂いだよ、リシィ」
低く甘い声が、耳元に落ちた。
「――っ!」
吐息が首元にかかり、リシェルはびくりと身をすくめた。
ノアが顔を上げ、まっすぐリシェルを見つめる。
「ふふ……可愛い。顔、真っ赤」
ノアがいたずらっぽく微笑む。
リシェルの思考がようやく追いつく。
「ま、また、からかったな……!」
「あはは、ごめん。でもさ――」
ノアの声が、ふっと低くなった。
「今日のリシィ、ほんとにかっこよかった。
みんなに優しくて、誰よりもまっすぐで――
惚れ直した」
「は、はぁっ!?」
言葉の意味を脳が処理するより早く、ノアの腕がもう一度、彼女の背に回される。
そして――その額が、そっとリシェルの額に触れた。
「ねえ、リシィ」
ごく近い距離で、ノアが囁く。
「……今、すごくキスしたい」
「――――!?」
一瞬、世界が止まったような錯覚。
ノアのラピスブルーの瞳が、まっすぐ自分を映している。
触れそうなほど近い唇。吸い寄せられるような距離。
けれど、ほんの紙一重で触れない。
「……嘘。冗談」
ノアがふっと微笑んで、額を離す。
「でもさ、冗談に聞こえなかったでしょ?」
「……っ!」
リシェルは全力で顔をそらした。
耳まで熱い。鼓動がうるさくて仕方ない。
ノアは、頬を赤らめて視線を逸らす彼女をじっと見つめ、ふっと微笑んだ。
そのまま、リシェルをそっと引き寄せ、やさしく頭を撫でる。
「ごめんね。でも……もう少しだけ、こうさせて。お願い」
切なげに落ちたその声は、彼の胸の奥から零れたようにまっすぐで。
リシェルの中にあったわずかな抵抗すら、静かに溶かしていった。
(ほんと、ずるい……)
悔しいほど、心が揺さぶられる。
けれど、ノアの腕の中は――どうしようもなく、あたたかくて。
ただ、そのぬくもりに、そっと身を預けることしかできなかった。
そうして、二人を乗せた馬車は、静かに宿舎への道を進んでいく。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。