* 二人きりの休暇 *
騎士団宿舎の入り口には、昼の陽が静かに降り注ぎ、石畳を白く照らしていた。
その中で、一人立っていたリシェルは、着慣れぬ私服の裾をぎこちなく直しながら、そわそわと落ち着かない様子で周囲を見回す。
「お待たせ、リシィ」
声がした方を振り向けば、ノアが黒いコートを翻し、軽やかに歩み寄ってきた。
「……えっ、あ……ああ」
戸惑いを隠しきれない返事をした瞬間、ノアは自然な所作でリシェルの右手を取る。
「どうぞ。足元、気をつけて」
停まっていた馬車の扉が、ノアの手で開かれる。
エスコートなんて、慣れていない。
思わず手を引こうとするが、ノアの手は優しく、だがしっかりと彼女を導いて――
「……ありがとう」
しぶしぶ乗り込むも、内心は混乱していた。
(なんで……こうなったんだっけ)
――と、静かにまぶたを伏せる。
* * *
朝靄の残る石畳の上を、靴音だけが乾いた音を立てていた。
いつもと同じ時間。いつもと同じ道。
けれど、今日のリシェルの足取りは、目に見えて重たかった。
(……行きたくない)
そう思うのは、たぶん初めてだった。
行き先は騎士団の訓練場。
彼女が十年以上、日課として通い続けた場所だ。
剣を持って、ひたすらに鍛錬を積み重ねることで、ようやく今の自分を保ってきた。
なのに、今日ばかりは。
(……いるんだろうなぁ)
ノア・ディアスフィールド。
今は部下で、騎士団の新人――けれど、その名を思い浮かべただけで、胸がざわつく。
ここ最近、なぜか彼も早朝練習に顔を出すようになった。
時間も、場所も、完全に被っている。
まるで七年前と同じように――ふたりきりの訓練場。
(……どんな顔して会えばいいんだ……)
ため息混じりに額へ手を当てた。
思い出すのは、昨晩のことだった。
――額が、ふわりと触れた。
「……頼むからさ。今だけでも、甘えてよ」
その囁きは、息のすぐ先で響いた。
低く、まっすぐで、温かくて――
一瞬、胸の奥がふっとほどけてしまった。
(だめだ、思い出すな)
ノアの腕がそっと背中に回され、ゆっくりと包み込むように抱きしめられたあの瞬間。
強く引き寄せられたわけでもないのに、なぜか逆らえなかった。
気がつけば、張り詰めていた力が抜け、身体を預けていた。
どうして、あんなに無防備になってしまったのか。
どうして、あんなに心地よく感じてしまったのか。
思い出しただけで、顔から火が出そうだった。
――それだけじゃない。
歓迎会の夜、酒に酔って足元がふらついたあの日のことも。
「……大丈夫。ゆっくり休んで」
優しい声とともに、ふわりと抱き上げられた感触が、まだ残っている気がする。
ノアの腕の中で、身を預けて、抵抗もせずに、ただ静かに目を閉じたあの瞬間。
(……あんな、あんな姿を……ノアに――完全に、甘えて……!)
己の記憶に殴られるような羞恥で、思わず頭を抱えたくなる。
いや、叫びたい。地面に倒れ込んで、顔をうずめて、記憶を全消去したい。
(……バカ、私のバカ……)
あんな姿、ノアには絶対見せたくなかった。
よりによって、二度も。
もう、顔を合わせるなんて無理だ――そう思いながら、訓練場の扉の前に立つ。
(……でも、逃げるわけにはいかない、よな……)
深く息を吸い込み、リシェルはそっと扉に手をかけた。
冷たい朝の空気の中で、剣の音が一つ、澄んで響いていた。
* * *
訓練場の扉を開けた瞬間、空気が少しだけ張り詰めた。
朝の冷気に混じる鋭い剣閃。
すでに誰かが木剣を振っているのがわかった。
予想どおり、そこにいたのは――ノアだった。
リシェルが入ってきたことにすぐ気づいたのか、彼は一度だけ剣を止めて振り返る。
「おはよう、リシィ」
いつもの、どこか無邪気な声だった。
昨夜、あれほどに距離を近づけてきたというのに、その様子はまるで変わらない。
「……おはよう」
リシェルは短く返す。
俯きがちになったのは、顔が熱くなるのを隠すためだ。
(……あれ? 何も言ってこない)
てっきりまた昨夜のことを持ち出して、からかわれると覚悟していたのに。
拍子抜けするほど、いつもと同じ調子だった。
――迷って、でも、言わずにいられなかった。
「……あのさ、ノア」
「ん?」
木剣を軽く持ち直しながら、ノアがこちらを見る。
やわらかい表情に、リシェルは一瞬、言葉を飲み込みかけたが――
「昨日の夜のこと……それに、歓迎会の時のことも。迷惑かけた。……ごめん」
視線は合わせられなかった。
うつむいたまま、小さく息を吐く。
「え、そんなの気にしてないよ?」
あっさり。まるで本当に何でもないかのように返事が返ってきた。
「……え?」
「俺が勝手にやっただけだし。リシィがちょっとでも楽になれたなら、むしろ嬉しいくらい」
ぽかん、とリシェルは固まった。
予想と違いすぎて、脳が追いつかない。
(あ、あれ……?)
もっと何か言われると覚悟していた。
“恥ずかしい顔だった”とか、“あのまま寝ちゃったね”とか。
なのにこの反応。
呆気にとられながらも、同時に――ほっとしている自分がいた。
(……よかった)
その安心がじわりと胸に広がりかけた時。
「……あ、でも」
ノアが急に声の調子を変える。
思わず背筋が伸びた。
「そんなに気にしてるんだったら、一つ頼み事、聞いてもらえるかな?」
「え……?」
ノアは剣を肩に担ぎながら、まるで雑談の続きをするみたいに言った。
「今日、第三部隊は休暇だよね。……で、リシィ、お父さんのお墓参りに行くんだろ?」
「……っ、な、なんでそれを」
驚いた表情のまま、リシェルが問い返すと――
「ああ、歓迎会で団長と話してたの、たまたま聞いちゃってさ」
「あ……」
確かに、団長にそんな事を言った気がする。
それを聞いていたとは。
「それで、できれば俺も同行させてほしいんだ」
「……なんで?」
素朴な疑問が口をついた。
ノアは、少しだけ真剣な目でリシェルを見つめると、まっすぐに言った。
「リシィのお父さんって、グレイスフォード元団長――この騎士団の“国家の盾”って呼ばれてた、あの人だよね」
「……うん」
「人望が厚くて、剣の腕も凄くて、たくさんの人を守ってきた英雄なんでしょ。
俺は直接会ったことないけど……でも、リシィを見てると、なんとなくどんな人だったのか、わかる気がするんだ。
だから、尊敬しててさ。騎士になったからには、一度挨拶したいなって思ってるんだ」
「……っ」
思わず胸が熱くなった。
誇り高く、強く、優しい父を受け継いでいる。――そう言われた気がして、心から嬉しかった。
「……そう言うことなら、ぜひ来てほしい。父も、喜ぶと思う」
そう答えたとたん、ノアは満面の笑みを浮かべた。
「やった、よかったー! これって、二人きりで出かけるって事だから、正直断られるかと思ってた!」
言った瞬間、リシェルの思考が止まった。
(……え?)
つまり今のって――
(え、え、まさか……今の、デートみたいな意味で……!?)
真っ赤になって言葉を失うリシェルを前に、ノアはケロッとした顔で続ける。
「じゃ、昼頃に宿舎入り口で待ち合わせね。ちゃんと着替えてきてね」
「ちょ、ちょっと待って!? なにその“デート行く前”みたいな言い方!!」
「え? だってせっかく街にいくんだから、騎士服じゃ変でしょ」
「た、たしかに!」
あわあわと取り乱すリシェルの姿を、ノアは心底楽しそうに眺めていた。
その笑顔に、抗議の言葉はすべて霧散して――
やっぱり彼には、敵わないと思い知らされるのだった。
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