* 再会の腕の中で *
それから、二人は毎朝、欠かさず稽古を行った。
ノアは十一歳とは思えないほどのみ込みの早さで、教えた技術を吸収していく。
動きの端々に聡さがにじみ出ていて、リシェルは時折、ほんの少しだけ圧倒されることがあった。
(……本当に、すごい子だな)
そう感じるたび、どこかくすぐったくも誇らしい気持ちが胸に広がった。
稽古は決して甘くはなかった。
容赦なく打ち込むし、妥協もしない。それでもノアは、一度も弱音を吐かなかった。
真剣な眼差しで剣を構え、何度転んでも、砂を払ってまた立ち上がる。
「今日はここまで」
そう声をかけると、ノアは剣を納めて近づいてきた。
汗でくしゃくしゃになった髪、膝に土がついたままの服。なのにその顔は、どこか誇らしげで嬉しそうだった。
「よく頑張ったね」
リシェルがそう言って、そっと頭を撫でると――
ノアはためらいなく抱きついた。
「ありがとう。明日も絶対来るから。リシィ、待っててね!」
満面の笑みで言ったその言葉は、どこまでも素直で力強かった。
リシェルは驚きつつも、自然とその小さな背に手を添えた。
どこか懐かしく、胸がじんと熱くなる。
かつて孤児院で面倒を見ていた子たちの面影が、ふとノアに重なった。
そんな日々はあっという間に過ぎ、旅は終わりを迎えた。
馬車がディアスフィールドの屋敷に到着すると、ノアはリシェルの前に立ち、まっすぐ見上げた。
「リシィ、ありがとう」
「ノア、毎朝よく頑張ったね。私も……一緒に稽古できて、すごく楽しかったよ。ありがとう」
リシェルが微笑みかけると、ノアは一瞬黙り込んだ。
やがて、拳をぎゅっと握りしめて、少しだけ声を震わせながらも静かに言葉を紡ぐ。
「僕は、もっと強くなる。騎士になって、絶対にリシィを守るから。
だから――それまで、ちゃんと待ってて。……どこにもいかないでね」
リシェルは驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んで頷いた。
「うん、楽しみにしてるよ」
そして二人は別れた。
ノアの小さな背中が屋敷の中へと消えていくのを、リシェルはいつまでも見送っていた。
* * *
まさか本当に騎士になるなんて――
あの頃と同じように、優しく髪を撫でた。
次の瞬間。
すっと伸びてきたノアの腕が、ためらいもなく彼女の背を抱きしめた。
それは静かで、でも抗えない力強さを秘めた動きだった。
「……っ」
息が詰まる。
少年の面影を残すはずの腕が、思ったよりも広く、逞しい。
彼の胸板に押し寄せるように抱きしめられ、リシェルの体はすっぽりと収まってしまった。
「ノ、ノア……?」
戸惑いの声がこぼれるその耳元へ、低く落ち着いた声がそっと滑り込む。
「隊長。自分はもう……子供ではありません」
呼吸が止まりそうになる。
「身長も、剣の腕も……貴女を追い越したつもりです。
だから今度は、私が貴女を守ります」
あたたかな息が頬にかかる。
囁きは甘く、けれどどこか切実で、リシェルの胸の奥へじんわりと染み込んでいく。
胸がぎゅっと締めつけられ、熱が走った。
思わず、身を引く。
ノアの腕から離れたはずなのに、体の奥がまだ熱を帯びている気がした。
その熱を打ち消すように、リシェルは慌てて笑みを作る。
「……そんな真面目な顔しないで、ね? 昔みたいに、もっと気安く話してよ!」
軽く流すつもりだった。
けれど、それは明らかに逆効果だった。
ノアの目元がふわりと緩み、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「……じゃあ、遠慮しないで甘えさせてもらおうかな、リシィ」
胸がどくん、と跳ねた。
その呼び名――久しぶりすぎて、ひどく懐かしい。
けれど、あの頃よりもずっと低く、やさしい声色が耳に残る。
「……っ、ちょ、ちょっと……」
何か言い返そうとしたのに、ノアのまなざしに射抜かれたように、言葉がつかえて出てこなかった。
「リシィ……ずっと、会いたかった」
耳元に落ちたその囁きに、胸が一瞬止まりそうになる。
「――あの時の約束、守ってくれたんだね。
……俺のこと、待っててくれて、嬉しい」
旅の終わり、ディアスフィールド邸の前で別れ際に交わしたあの約束。
まるでそれをなぞるように、ノアの腕が再び伸びて――ためらいもなく、リシェルを抱きしめた。
驚きとともに、熱が全身を駆け抜ける。
だが、リシェルはその腕の中で目を瞬かせ、思わず口を開いた。
「べ、べつにノアのために待ってたわけじゃ……」
そう言った瞬間、ノアの腕がほんの少しだけ緩んだ気がした。
視線を上げると、彼がわずかに眉を下げ、悲しそうに笑っていた。
「――……っ」
慌てて、リシェルは言い添える。
「い、いやっ、ノアがどうでもいいって意味じゃなくて! ちがうんだ、えっと……!」
騎士団を辞めるなんて考えたこと、一度もなかったから……と続けようとした時、
くくっと小さな笑い声が落ちる。
「わかってるよ」
ノアが目を細めて、楽しそうに笑う。
「リシィって、相変わらず真面目すぎるね」
「ちょっ……歳上をからかうんじゃない!」
頬を膨らませて小さく抗議するその姿に、ノアの瞳がさらにやさしく細まる。
「でも……力になりたいって気持ちは、本当なんだ」
その言葉に、リシェルの胸の奥が、ふわりと揺れる。
ノアは腕に力を込めて、優しく強く抱き寄せる。
リシェルの呼吸が乱れ、身体が自然と彼に預けられていった。
そして、彼の声が耳元で甘く低く囁かれた。
「――強がってるの、気づいてないと思った?」
その一言に、リシェルの心拍が跳ね上がる。
「俺の前くらい、ちゃんと頼って。
……リシィが弱ってる時は、俺が支えるから」
その囁きは、すぐ耳のそばで響いた。
低く甘い声が、肌をくすぐるように入り込んでくる。
熱を帯びた吐息が耳殻を撫で、リシェルの全身がびくりと震えた。
(――だめだ、こんな……)
鼓動が、耳の奥で爆発しそうになる。
まるで心臓の音が、ノアにまで聞こえてしまいそうで――
リシェルは思わず、はっとしてノアの胸に軽く手を当てると、そっと距離を取った。
「そ、そろそろ戻らないと……みんなが探してるかも……」
ふらり、と立ち上がった足が、不意にぐらついた。
さっきの酒が、まだ効いていたらしい。
「ほら、無理しすぎ」
言うが早いか、ノアの腕がすっと伸びる。
そして――リシェルの体はふわりと宙に浮いた。
「ちょ、ちょっと待って!? 何してるのっ!?」
まるでお姫様みたいに――両腕で抱き上げられていた。
顔が一気に熱くなる。
「部屋まで送る。今のリシィじゃ、一人じゃ歩けないでしょ?」
「で、でも……みんなが……っ!」
「宴会はもう終わりかけてたし、大丈夫。何か言われたら、俺がなんとかしとくから」
耳元でさらりと告げられる言葉が、妙に頼もしくて――
それがまた悔しいほど、心に響く。
真っ赤になって暴れるリシェル。
けれど、ノアの腕の中では、その抵抗すら風のように軽くて。
「ちょ、自分で歩けるから……!」
「本気でそう思ってるなら――もっと暴れていいよ?」
囁く声はやけに近くて、低くて甘い。
胸元の鼓動が伝わる距離に、息が詰まりそうになる。
「でもさ、力……全然入ってない」
「っ……!」
「わかってる? 今のリシィ、すごく無防備だよ」
ノアの目が細められ、ふと真剣な色を帯びる。
「……お願いだ、リシィ。今だけでいい、俺に甘えて」
耳元に落ちた言葉が、やけに深くて、優しくて――
なのに、ぞくっとするほど甘く響いた。
思わず言葉を飲み込む。
ノアの腕の中で、もう何も言い返せなかった。
心地よい体温。しっかりと支えられる腕。
ざわついていた鼓動も、次第に静まっていく。
「……大丈夫。ゆっくり休んで」
ノアの声は穏やかで、優しかった。
命令でも、説得でもない。
ただ、彼の言葉に――甘えてもいいと思わせる、不思議な安心感があった。
(……あったかい)
こんなふうに、誰かに身を預けるのは――いったい、いつぶりだろう。
酔いのせいなのか、それとも彼の体温のせいなのか。
リシェルは抗うこともなく、そっと目蓋を閉じた。
ノアの腕の中で、小さく息を吐き――
そのまま、静かに眠りへと落ちていった。
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