* 二人の出会い *
※残酷な描写あり
宴の喧騒が遠くなる。
リシェルは広場の片隅、空になった樽の上に腰を下ろしていた。
春の夜風が頬をなでる。少し冷たいが、そのひんやりとした空気が熱った身体に心地よかった。
「……お疲れ様です」
静かな声とともに、ふいに一つの影が現れた。
ノアだった。
手には小さな木のコップ。その中身を差し出しながら、言う。
「どうぞ。酔いに効く薬草が入ってます」
リシェルは一瞬、目を丸くした。
会場では気づかせるそぶりなどしすなかったはずなのに。
「どうして……?」
「隊長は終始、皆のために裏方に徹していました。
それは労いのためだけじゃなく、弱い酒から自分を遠ざけるため……でしょう?」
「……あたりだ。すごいな」
リシェルは素直に感心し、薬草の香りのする液体をぐいと飲み干した。
喉に残る苦みが、なぜか落ち着く。
「変わりませんね」
ノアがぽつりと呟く。
「え?」
「七年前。私は貴女に救われたんです。……覚えてませんか?」
リシェルが目を向けると、ノアは淡々とした表情のまま、まっすぐにこちらを見ていた。
けれど、その瞳の奥には、言葉にならないほどの切なさが静かに揺れていた。
(……あ)
リシェルの脳裏に、遠い過去の光景がよみがえる。
稽古の合間、汗だくで笑っていた少年。
剣を振るうたびに、何度も転んで、それでも立ち上がった、あの姿。
「……あ! 君、あの時のノアなのか!?」
リシェルが声を上げると、ノアは少しだけ目を細めて、微笑んだ。
その笑みは、かつての無邪気な少年を思わせる――けれど、どこか大人びた空気を纏っていた。
「はい。……やっと、会えましたね」
言葉は素朴だったが、その響きには確かな思いが込められていて。
無意識に、胸の奥がざわつく。
「そうか。立派になったなあ……」
思わず、そっとノアの頭に手を伸ばす。
くしゃり、と髪をなでる感触に、昔の面影が確かに重なった。
* * *
──七年前。
侯爵家のノア・ディアスフィールドは、王都から領地へ向かう長旅の最中だった。
家族と数人の従者を乗せた馬車に揺られ、二週間かけて南の屋敷を目指していた。
旅の三日目。
森沿いの山道にさしかかったそのときだった。
「……っ、魔物だ!」
前方から飛び出してきた異形の影。
数は三、四……いや、それ以上。
護衛の騎士たちが応戦するが、次々と馬が倒され、馬車は立ち往生した。
ノアは馬車から降ろされ、安全な場所へ誘導されかけたその瞬間だった。
一体の魔物が、側面の茂みから、まるで獲物を狙うように飛びかかってきた。
目の前が暗転する。
迫る顎、耳を劈く唸り声。
(……あ、もうダメだ)
心が凍った。
だが、痛みはなかった。
衝撃も、なにも。
おそるおそる目を開けると、自分の目の前には――
一人の騎士が、盾のように立ちはだかっていた。
赤黒い血が、じわりと腕を染めている。
魔物が、その左腕に深く噛みついていた。
「っ……」
叫ぶ暇もなかった。
リシェルは、顔色一つ変えず魔物の首を蹴り外し、剣を振り抜いた。
獣の断末魔が響き、地に沈む。
「……もう大丈夫。私から、離れないでください」
振り向いたリシェルの顔は、恐怖も焦りもなかった。
ただまっすぐ、ノアの瞳を見つめ、そう言った。
それから、戦いが終わるまでの間――
リシェルはずっと、ノアの傍を離れなかった。
魔物の残党が襲いかかれば、即座に剣を振るい、間合いに入る隙を一切与えなかった。
だが、左腕からは絶えず血が流れている。衣服を伝い、手首から滴が落ちていく。
(……血が……!)
ノアの喉がひゅっと鳴った。
リシェルの左腕には、深い痕が残り、血が衣服を赤く染めている。
それでも――彼女は、顔色ひとつ変えなかった。
痛みを感じていないはずがない。
それでも歯を食いしばることも、声を漏らすこともなく、ただ剣を構え続けていた。
まるで、最初から自分の傷など眼中にないかのように。
(……騎士様、すごい……)
ノアの胸に、焼けつくような熱が灯る。
怖いはずだったのに、不安より先に、尊敬と驚きが込み上げていた。
今、目の前にいるのは――
確かに、命を懸けて自分を守っている一人の騎士だった。
その姿はあまりにも眩しくて、だけどどこか、ひどく儚くも見えて。
ノアは思わず息を呑んだ。
やがて、戦乱が落ち着いた。
辺りに静寂が戻る。魔物の気配も消え、空気が冷たく澄みわたる。
リシェルは剣を納め、ノアの方へゆっくりと振り返った。
「落ち着きましたね。……怖かったでしょう」
その声は、どこまでも穏やかだった。
まるで、自分の腕から血が流れていることなど気にも留めていないかのように。
「よく頑張りましたね」
ノアの頭に、ぽんと手を乗せられる。
――その瞬間。
リシェルの体がふらりと傾き、そのまま地面に崩れ落ちた。
「……き、騎士様!?」
叫びに近い声が、思わず喉から漏れた。
* * *
──翌朝。
薄明かりの中、静かな広場に木剣が風を裂く音が響いていた。
リシェル・グレイスフォードは無駄のない動きで、素振りを黙々と繰り返していた。
そこへ、遠慮がちな足音が近づいてくる。
「……おはようございます、騎士様」
手を止めて振り返ると、そこには昨日の少年――ノア・ディアスフィールドがいた。
彼はきちんとした所作で頭を下げる。
「昨日は助けていただき、ありがとうございました。お怪我の具合は……?」
「ええ、隊の治癒師が癒してくれました。おかげさまで、すっかり元通りです」
「それは……良かったです」
ノアは、ふっと安堵の息をもらして笑みを浮かべた。
その顔には、どこか幼さとまっすぐな気配が混じっていて、リシェルは無意識に少し気を抜く。
「実は、お願いがあって来ました」
「お願い、ですか?」
ノアは一歩、前に出た。
「自分も、強くなりたいと思いました。貴女のように……ですから、どうか、剣を教えていただけませんか」
リシェルは思わず目を見開く。
侯爵家の御子息である彼が、わざわざ自分のもとへ教えを乞いに来た――その真剣な眼差しに、少し言葉を失う。
「……嬉しいお申し出ですが、ノア様はご身分もおありですし、私などに師が務まるかどうか……」
「いえ。師が誰であるかより、誰に教わりたいかだと思っています。私は……貴女に教わりたいんです」
ノアの声は、決して強くはないが、ひどくまっすぐだった。
その目に宿るものを見て、リシェルはふっと息をつき、小さく笑った。
「……分かりました。それでは、毎朝早くに稽古を行う、ということでよろしいですか?」
「はい、ありがとうございます! 騎士様」
リシェルは、苦笑まじりに首をかしげる。
「“騎士様”って呼ばれるの、どうにもむず痒くて苦手なんです。私はリシェル・グレイスフォード。親しい者からは“リシィ”と呼ばれています。ノア様も、よろしければ……」
ノアは少し驚いたように目を丸くした。
「では……“リシィ”と、呼んでも?」
「ええ。ありがとうございます、ノア様」
「……“様”は、やめてください」
ノアが、少し真剣な顔つきで言った。
その声音はあくまで穏やかだが、なぜかリシェルの心にすっと届く。
「騎士として教えを乞うのに、師に敬語を使わせるなんて、変です。だから、俺にも敬語はやめてください」
リシェルは少し驚いたように目をしばたたき――やがて、照れたように小さく笑った。
「……わかった。じゃあ、二人きりのときはお互い敬語なし、ってことでいい?」
「うん、それがいい!……よろしく、リシィ」
「よろしく、ノア」
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。