キミが選ぶもの
夜は深く沈み、ガラス越しに瞬く《星紗の宵》の灯火は、遠い異国の幻のように、ゆるやかに揺れていた。
ルイ・アガペルは、灯りの届かぬ書斎の隅に身を沈めていた。音楽は遠く、喧騒もどこか他人事のように遠ざかる。ただ一つ、己の呼吸だけが、静かに夜に溶けてゆく。
「舞踏会に“出さなかった”だって? それは語弊がある。彼が“出る道”を選ばなかっただけのこと。私は、選択肢を与えただけだよ。」
低く、独白めいたその声は、まるで誰かを諭すようでもあり、己に語りかけるようでもあった。
「私はね、人が何かを信じている姿を見ると、時折、胸の奥が疼くのだ。まるで火を入れられる前の蝋燭の芯を眺めるような感覚でね。
だが芯だけでは灯らぬ。火がいる。熱が、痛みが、あるいは――絶望という名の火種が。」
机の上には封を切られた任務命令があった。帝国の印が押された羊皮紙は、ひどく無機質で、そこに記された言葉は、情というものをまるで知らぬ。
「秩序が人を守る。そう信じているらしい。
父という秩序の象徴に見放されながら――いや、捨てられながら、
なおその檻の中で、“自由”を夢見るなど、矛盾以外の何物でもない。
それでも……それでも、彼は信じているのだろう。ならば、確かめるほかあるまい。」
言葉は柔らかく、それでいてひどく冷たい。
水面をなぞる氷の指先のように、触れたものの内側を静かに凍らせてゆく。
「だからこの任務を与えた。
村には何がある? 人々は何を守り、何に従い、何に屈しているのか――
それを“彼自身の目”で見せるために。
私はただ、扉を少しだけ開いたに過ぎない。」
その響きは、祝福にも似た優しさを帯びていたが、耳を澄ませば、そこには明確な残酷さが宿っていた。
「私が知りたいのは、彼が“何を選ぶ”かではない。
“何に目覚めるか”――だ。
誰の声に耳を傾けるのか。
誰の涙に膝を折り、誰の命を見捨てるのか。
信仰か、自由か? 否、それは問いとして浅い。
……檻の中にいる者は、檻を愛する。
それが“守ってくれている”と錯覚するからだ。
だが本当は、檻こそが君たちの翼を腐らせている。
彼も、まだ信じているのだろう。
秩序に救いがあると。
裏切られてもなお、焼け落ちた宮殿の幻を心に抱いている。
まるで、いつか父が振り向くかのように。
そして彼は、“自由”も孕んでいる。
ほんの少しの怒り。ほんの少しの疑問。
けれど、そのどちらにも踏み込めない。
足を引くのは優しさか、臆病か――
どちらにせよ、それは決断ではない。
そう、彼は日和見主義だ。
信仰と懐疑の狭間で揺れる、愚かで、美しい未完成。
だが私は知っている。
最初に堕ちたのは、“私”だった。
光を持つ者が、闇と呼ばれた日から、この問いは繰り返されてきた。
――人は檻の外に出たとき、本当に救われるのか?
それとも、“秩序”こそが最後に残る甘美な呪いなのか?
目を覚ませ、少年。
こちらに来い。
秩序を捨てろ――そして、お前自身の光で、燃えろ
、立ち止まるな。
私は、お前が『選ぶ』瞬間を見たいのだ。」
ルイの眼差しは窓の外の光を捉えていた。
だがその視線は、はるか遠く、宙の奥底にある何かを見ていた。
まるで、人の選択に潜む“魂の傾き”そのものを、見透かそうとしているかのように。
焚火の中で跳ねる小枝を見る眼。それは温もりを求める眼ではなかった。
――ただ、その火が何を焼くかを眺めている、焰の傍観者の眼だった。




