咲いた花 — それは儚き証
「……私は、うまくやれるかしら」
それは問いではなかった。
呟きに似た、心の綻びだった。
ノアは、彼女の言葉にすぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと一歩踏み出し、舞いの流れをもう一度整えた。
「うまくやる必要はない。君は――君であればいい」
その声は、夜明けの空気のようだった。
冷たさを含んでいるのに、どこかで温もりを帯びていた。
彼の言葉に、エレナはほんの一瞬だけ目を閉じる。
そして、ふと笑った。
それは仮面ではない、彼女だけの笑みだった。
――舞踏会という名の舞台が、すでに始まっていることを、
彼女はようやく思い出していた。
「……君であればいい、なんて、軽々しく言うのね」
言葉には鋭い棘があった。だが、それは毒ではなかった。
むしろその裏側に、心のどこかが救われたことへの、照れくささが滲んでいた。
ノアは、ほんのわずかに肩を竦めた。
「僕には重みのある言葉は言えない。代わりに――背中くらいなら、貸せるかもしれないけど」
「ふふ……ずいぶん謙虚な王族ね」
「王族なんて、誰もが虚飾でできている。だから僕くらいは、実体のあるものになってもいいと思ってさ」
その声には、皮肉と、ほんの少しだけ皮を剥いた誠実さがあった。
二人の歩幅はぴたりと揃う。
舞うというより、まるで浮かぶように――彼らの周囲だけ時間がひとつの円を描いていた。
音楽は一段落し、旋律が静かに溶けていく。
名残惜しさのような間を置いて、エレナが口を開いた。
「……ねえ、ノア。もし、私がこの先で躓いたら……」
「手を取るよ。たとえ君が、誰よりも強くても、そうする」
それは即答だった。
迷いのない、けれど決して押しつけがましくはない声。
エレナは答えず、ただわずかに視線を落とし、静かに頷く。
それだけで十分だった。
彼の言葉は、彼女にとって「理解」の音だったから。
やがて二人はゆっくりと手をほどいた。
舞踏の時間は終わった。だがその余韻は、互いの肌に、心に、まだ微かに残っていた。
まるで、見えざる糸がどこかで繋がっているように。
それは恋ではない。
けれど、記録にない感情が、静かに輪郭を得つつあった。
名も階位も与えられぬまま、それは世界の因果に干渉しはじめていた。
――確かに、何かが芽吹いた。
それは戦場では育たぬもの。
光のあたる場所にしか咲かぬ、儚く繊細な花のようなもの。
エレナは、まっすぐに彼を見つめた。
その視線は、まるで静かな湖面に映る朝日のように澄みわたり、揺るぎない決意と温かな祈りを秘めていた。
彼女の瞳は、まだ知らぬ運命を越えて、ただただ「いま」の彼を見つめていた。
「ありがとう……
貴族の舞台も、剣の舞台も、案外、難易度は変わらないのだわ。
そう、どちらも似たようなもの。華やかさの裏に隠れた、見えない重さがあるのよね。」
ノアは、わずかに微笑む。
「じゃあ君は、二つの素晴らしい舞台に立てる。僕には到底できない芸当だ。」
「でも、あなたは――どんな舞台にも必ず自分の色を残すわ。無理に染まらずにいられるのは、特別な才能よ」
その言葉を口にした瞬間、彼女の方がはっとした。
(……私、いま、“特別”って……)
だがノアは、気づいたのか気づかぬふりか――そっと目を伏せて答えた。
「色を残すのは、いつか消える証拠さ。僕の痕跡が、君の未来の邪魔にならなければいいけどね」
その言葉の奥に潜む影を、エレナは見逃さなかった。
だが今は、それを追わない。
それは彼の孤独であり、まだ踏み込んではいけない森の深さだった。
だからこそ、彼女はそっと言った。
「なら、せめて……“その色”、綺麗なままでいて」
それは祈りにも似た、静かな願いだった。
そして二人は、もう一度だけ視線を交わす。
今度は言葉ではなく――沈黙の中に芽吹く感情を確かめ合うように。
舞踏会の幕はまだ上がっていない。
けれど、彼らの舞台は、もう始まっていた。




