ノイズたちは、教室で息をする
レインバルドの朝は、重たい霧と、たまに響く魔馬の蹄音、そして鐘の音で始まる。
帝都の石畳を進んでゆくのは、帝国屈指の名門〈ウィンダム〉家の威信を体現する、「ランデヴー型」と呼ばれる儀礼馬車であった。その漆黒の外装は朝の霧をはじき、丹念に磨き上げられた真鍮の金具が、曇天にわずかな光を返す。
牽かれているのは、蒼鹿毛の魔馬たち――ただの馬ではない。
毛並みは深い群青にわずかに銀灰を帯び、鬣と尾は月光を吸ったかのように白く、淡く揺れている。彼らは魔力を宿した霊獣〈アーケインホース〉。帝国魔導軍でも、選ばれし近衛騎士のみに与えられる存在だ。
霧の濃い朝――彼らの足取りは、音もなく石畳を滑り、まるで大気に乗って運ばれているかのようだ。
魔力に応じた微細な動きは、御者の手綱よりも先に意図を読み、霧を分けるように道を拓く。
車体の側面には、〈ウィンダム〉家の金糸の紋章が誇らしげに輝き、窓辺には舶来のオルガンザ地に細密な手刺繍が施されたレースカーテンが揺れている。
霧の中、陽の差さぬ空の下でも、その繊細な意匠はほのかに浮かび上がり、帝都の朝に気品を添える。
この馬車が通るのは、学園の敷地外――それでも、その存在感は充分だった。
たまにしか見られぬ光景であるにもかかわらず、人々はすぐさま道を開け、帽を取り、目を伏せる。
それが〈ウィンダム〉という名であり、帝国に刻まれた伝統という名の重厚な鎧だった。
セラフィエル学園に通う王家、貴族、そして偉大な軍人の子弟たちは、今日も凛と制服を正し、刻まれた時間に忠実に集っている。
――その群れの中で、ノア・エヴァンスだけは、既に静かに目を閉じていた。
伝統の重みが、その瞼を押し下げるかのように。
「……また寝てるのか?正直、最初から起きていたとは思えないな」
隣の席から、穏やかだがわずかに諭すような声が響く。
レタル・レギウスは伊達メガネの奥から静かにノアを見つめ、上着はだらしなく開けているが、その佇まいにはどこか落ち着きがあった。
「いや、ちゃんと起きてたよ。君の声が大きいから、目が覚めただけだ」
「それは褒めているのか、それとも嘲っているのか、半々に聞こえるな」
ノアは頬杖をつき、黒板の講義をまるで無視していた。
帝国軍の魔法運用講義。普通なら緊張感で満ちる場だが、彼には既知の情報の繰り返しに過ぎなかった。
「……また、まるで『死んだ魚の目』みたいな表情をしているな。そんな顔をされると、女の子たちが心配してしまうのだが」
「誰が心配するんだよ」
「私だよ」
「うげぇ、気持ち悪りぃ。てか男だろ…」
「酷いじゃないか…そこまで言わなくても…」
レタルの口調には軽さもあるが、優しさと共に隠された真剣な視線があった。
その言葉は、空虚の中に差し込む一筋の光のようにノアの胸に届く。
けれども、ノアの瞼は重く閉じられたままだった。
世界の色彩は彼にとってまだ強すぎて、朝の光はそのまぶたを押し上げることができない。
「はぁ……天才というのは、退屈に見えるものだな」
レタルは静かに息をついた。だが、その瞳は微かに笑っていた。
彼は魔力の放出量において歴代最高の少年。だが、その才能に意味を見いだせずにいるのは、誰よりも自分自身だった…
「今日、演習出る?」
「出るけど、倒しすぎるとアホ教官に怒られるからな。手加減の計算がマジ面倒」
「優等生コメントっぽいのに、イラッとするのはなんでかなぁ?」
ふたりの会話は、教室の空気をどこか非現実的に変えていた。
その場にいる他の生徒たちは、彼らに話しかけることすらできない。
まるで異質な音を放つ楽器のようだった。
⸻
数講義を終えた後、演習場。
今日は簡易な実戦模擬訓練の日だ。
しかし訓練は他のクラスと合同で行われた。
数人ずつの班に分かれての魔力行使訓練。
そこに、今日初めてノアと同じ班に配属された少年がいた。
「……」
エゼル・ノクス。
赫金に輝く髪は陽の光に照らされ、どこか神々しく、儚かった。そして、魔人特有の縦に細長いスリット状の瞳孔と耳。反逆の意志が燃え上がるとき、深緑の瞳は赤色に染まり、世界の理すら捻じ曲げる。
彼は長い睫毛の下で、どこか沈んだ眼をしている。
魔力量:学園記録最高値。
だがその力の源――「宿しているモノ」は、まだ誰にも知られていない。
(アイツ……たしか、入学初日に魔力計壊したイカした奴か)
ノアがちらりと見る。エゼルと目が合った。だが、すぐに逸らされた。
(感情、読みにくいな……というより、ほとんど“ない”な。魔法の類か?)
レタルは、そんな二人を見てふふっと笑った。
「わー、エヴァンス家の亡霊と、魔力お化けの怪物君。すっごい組み合わせじゃないか。」
「レタルも入ってるんだけどな」
「僕はマスコットだから。場を和ませる秀才が当てはまるね。」
「それ、誰かに言われた?」
「ううん、今自分で決めたよ。」
演習開始の合図が鳴る。
空気が一瞬にして張りつめた。
そしてその中で、ノアはふと考える。
(この空気……何かが、変わり始めてる気がする)
自分も、レタルも、エゼルも。
それぞれ“異常”を抱えた存在。
だが今はまだ、その異常が交錯するには――ほんの少しだけ、時が足りない。