夢の中でも問題児。
誰が言い出したのかは、もはや重要ではない。
発端は、たった一枚のくだらない書類だった。
何気ない提案――冗談だった。本人もそう言っていた。
「貴族の威厳は高さに宿る」と。
だがそれが、正式な通達となり、寮を騒がせ、そして――脚立が舞った。
誰がどう間違えたのか、もしくは、間違えてなどいなかったのか。
ひとつ確かなのは、混乱の裏には、ひときわ目立たぬ微笑をたたえる“あの顔”があったということ。
舞踏会前日、午後のセラフィエル学園。
“蒼鷲”寮の一角にある私室――副寮長ジュリアン・マール・エグレアの部屋には、ひときわ澄んだ空気が流れていた。
白を基調とした家具が規則正しく配置され、床には埃一つなく、磨き上げられた木目が静かに光を返している。壁際には装丁の美しい本が背表紙の高さで揃えられた書棚が立ち、ペン立ての中の羽根ペンはすべて筆先が揃っていた。無駄な装飾は一切ないが、その簡素さこそが、持ち主の美学と気品を物語っている。
その静謐な空間の中心で、ジュリアンは黒檀の机に肘をつき、片手で額を押さえていた。指先はわずかに震えている。机の上に置かれた一枚の通達書を、彼は半ば信じがたい表情で睨んでいた。
「……これが、公式通達?」
声音は低く、乾いていた。
整然とした室内に、不穏な一滴がぽたりと落ちる――そんな静謐な破綻の気配が走る。
「ええ、間違いなく学園上層部からのお知らせです。」
フィリップ・ド・ベルモンドは自信満々に頷いた。
それは、確かに封蝋の割られた正式文書だった。
「『舞踏会における威厳の保持のため、貴族生徒は一定の高さを有する台座を持参すること』。つまり脚立っすね」
ジュリアンは一瞬、言葉を失った。
「“つまり”じゃない」
ジュリアンは震える指でこめかみを押さえる。
「どうして、あいつが悪ふざけで私に渡した書類が、正式な通達になっているんだ? 確か、私はあれを破り捨てたはずだぞ。」
「提出箱のラベル、剥がれてたんすよ。『ギャグ提出用』と『式典提案書』が並んでたのが運の尽きです」
ジュリアンはこめかみに指を当てたまま、遠くを見るように呟いた。
「これは運命のいたずらではない……ヤツの策謀だ。
まったく、あの男の茶目っ気にはいつも毒がある……。
……まずい、この件が黒狼寮長の耳に入れば、私は確実に処される……。」
フィリップは、どこ吹く風といった面持ちで肩をすくめる。
「ご安心を、副寮長。エドワール先輩はこう仰っていましたよ――
『案外、馬鹿げた中にも“貴族的演出”の可能性はあるものだ』と。」
ジュリアンはゆっくりと椅子にもたれ、天井を見上げる。
その瞳には、帝国に対する微かな哀悼が浮かんでいた。
もはや止めるには遅すぎた。
――そして迎えた、舞踏会当日。
学園の大広間には、美しく装飾された脚立がズラリと整列していた。
金箔仕上げ、マホガニー調、エンブレム入りの四段式――さながら脚立コレクション展。
「……まさか全員、律儀に持ってくるとは……」
ジュリアンは赤い絨毯の端で立ち尽くす。
アルフレッド・ヴァルディが背後で「これ、俺の手製っす!」と嬉々として叫ぶ。
「見てくださいよ! 一段目に立つと“準男爵”、二段目で“伯爵”! 最上段に立てば気分は公爵ですよ!」
「私は貴族の威厳を、五段脚立で表現した」
ヴィクトリア・リュシアが沈着に言い、黒塗りの漆脚立にスッと乗る。
高すぎて誰とも目が合わない。だが美しい。
「なんならこれ、踊る時に高低差つけると、視覚効果が倍になりますから!」
フィリップは自身の“ローリング式脚立”を引っ張り出し、踊りながら横移動する。
「こう、流れるように滑るのが“貴族”!」
その瞬間――ガターン!!
フィリップの脚立が横転し、ヴィクトリアの五段脚立に激突。
ヴィクトリア、バランスを崩しつつも優雅に一回転して着地。拍手。
背後ではアルフレッドがフィリップにチョークスリーパーをかけていた。
「貴族の……末裔の、誇りを……返せ……ッ!」
「待って! 俺の脚立は無実だァァ!!」
ジュリアンは額に手を当てたまま、しばし沈思ののち、やや遠い目をして呟いた。
「――こうなっては、帝国というものも、いよいよ末の世を迎えたようだね。」
紅茶を持つ手が震える。優雅とは、何か。威厳とは、どこへ。
――そのとき、世界がふっと暗転した。
「……!?」
気がつけば、彼は蒼鷲寮の自室、ベッドの上にいた。
深い夜。窓の外には、帝都の街灯が淡く瞬いている。
「……夢……だったのか」
静かに身を起こし、額に手を当てる。
確かにあの通達は、あの脚立地獄は、悪夢の中の出来事だったのだ。
この整った室内も、誰にも荒らされてはいない。書類も、いつも通り分類されている。
――当然だ。常識的に考えて、貴族が脚立を持参する舞踏会など、あるはずがない。
ジュリアンはふぅと息をついて立ち上がり、寝間着の襟を正す。
窓辺に歩み寄り、そっとカーテンを開けた。
視線の先に、校庭が見えた。
そしてその中央に、仄暗い月光の下――ズラリと並ぶ脚立の群れ。
「…………」
耳鳴りのような静寂の中、ジュリアンは震える声で呟いた。
「……いや、待て……まさか」
廊下の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「やっぱり脚立は木製が映えますよね~! 帝国の伝統、って感じで!」
「高さは威厳だと申し上げているだろう!? 脚立に礼を尽くせッ!」
フィリップとアルフレッドの声が交錯する。
「……またか……」
ジュリアン・マール・エグレアは、頭を抱えた。
脚立。月光に照らされた異様なシルエット。
校庭には、威厳と錯覚した高さが無数にそびえている。
そのすべてに、貴族生徒たちが誇らしげに腰掛けていた。
舞踏会は、既に始まっている。
照明が灯る。
ワルツが流れる。
脚立が……回り始める。
「……ああ、もうダメだ」
その瞬間、ジュリアンは視界の端に――
回転式二段脚立に乗ってターンを決めるヴィクトリアの姿を見た。
「ヴィクトリアッ! お前もかァ!!」
彼は叫んだ。
そして――
目覚めた。
「はぁっ、はぁっ……!」
今度こそ、息を切らしてベッドから飛び起きる。
外は朝の光。カーテンの隙間から、陽が優しく差し込んでいる。
部屋は静かだ。脚立も、貴族の威厳も、どこにもない。
「……今度こそ、本当に夢だったんだな」
ジュリアンは深く、安堵のため息を吐いた。
机の上には、何事もなかったかのように整えられた書類。
彼はそっと、一枚の紙を手に取る。
「ふん、くだらない夢だった。そもそも舞踏会は来週だ。加えて威厳が脚立とは、バカバカしい…俺は疲れたよ。」
そう呟きながら、ふと視線が紙の内容に滑った。
『舞踏会における威厳の保持のため、生徒は――』
そこで、ジュリアンの指が止まる。
だが、その文の続きには、こう記されていた。
『正装に準じた襟元の装飾、および礼装用の徽章を必携とすること』
「……ただの、正装の指示か」
ジュリアンは目を細め、ほっと息を吐いた。
頬に、かすかに笑みすら浮かぶ。
「当然だ。帝国が、そこまで狂気に囚われているわけがない――断じてな。」
少なくとも、まだは。
彼はそっと書類を元に戻し、窓の外を見やった。
――今日も、帝都は静かだった。
――あいつは、夢の中にまで干渉してくる。
目覚めた途端、胸の奥に残る不穏なざわめき。
可憐な仕草と無垢な目元。だがその裏に潜むのは、手段を選ばぬ悪意と、天性の観察力。
こちらの思考を先回りして、二手三手先に罠を張る――まるで棋士のような青年。




