始まりの予感
ざわめきの中、ふと空気が変わる瞬間があった。
誰かが声高に場を支配するわけでもない。ただ「在る」というだけで、人々の無意識がそちらへと引き寄せられる。
そんな存在が、廊下の向こうから静かに歩み寄ってくる。
「……やれやれ、朝から騒がしいね。舞踏会は確か来週だったはずだが」
低く落ち着いた声が、ざわめきを一瞬だけ沈めた。
青みがかった黒髪は朝の光を受けて墨のように艶やかに輝き、鋭く切れ上がった群青の瞳はまるで刃のようにこちらを射抜く。
だがその奥には、言葉にし難い静謐が宿っていた。
整った顔立ちのなかで、少しだけ高い鷲鼻が横顔に凛とした影を落とす。
そして、髪に隠れて目立たぬその耳は、わずかに尖っていた。
それは竜人の血を引く証。
帝国では珍しく、歓迎されぬ“異”の徴だが、彼はそれを隠すことも誇ることもなく、ただ静かに己の立ち位置を受け入れていた。
「ノア、ジル。こういう時に限って君たちはよく目立つね」
揶揄とも皮肉とも取れる言葉を真面目に言い放つその姿に、どこか滑稽さすら滲む――そんな男、レタル・レギウス。
蒼鷲の中でも異彩を放つ冷静沈着な青年。その目は常に、世界の片隅を静かに見つめているかのようだった。
ノアはすでに食事を終え、パンもスープも跡形もなく平らげていた。皿を片付けようと手を伸ばしたが、ふと動きを止めて静かに呟いた。
「やれやれ……僕よりジルの方が目立ってると思うけどな。」
ノアは微かに首を振りながら答えた。その声は静かに掠れ、浮ついた空気を冷ますかのようだった。
レタルはにんまりと笑みを浮かべ、ノアの正面に腰を下ろした。指先で紅茶のカップをそっと掲げ、軽やかに言葉を紡いだ。
「そういう態度だから、今日もジルに逃げられたんじゃないの?」
ノアは視線をレタルに向けたが、返答はなかった。ただ、レタルの問いをやんわりかわすように、静かにナイフとフォークをテーブルの端に寄せた。
それを見て、レタルは肩をすくめた。
「まあ、ジルは君に弱いんだよ。余計なことを言わなければ、きっとまた隣に座っていただろうに」
ノアは小さく微笑み、窓の外へ視線を流した。
「──そうかもしれないな」
と、その時――
「お前ら、なんだってそんな顔してるんだ?」
陽に焼けた土色の髪が額に貼りつき、シャツの襟元にはうっすら汗。アルフレッド・ヴァルディが、まるで風のように廊下から駆け込んできた。声はいつも通り大きく、陽気で、空気を切り替えるには十分すぎるほどだった。
ノアはパンの皿を片付けかけていた手を止め、レタルと一瞬だけ視線を交わす。先ほどまでの静かな空気が、あっけなく破られていく。
「……別に、大したことじゃないさ」
ノアがそう答えると、レタルは紅茶をすする手を止めぬまま、くすっと笑った。
「アルフレッド。君の登場はいつだって唐突だな」
「うるせぇ、呼ばれてなくても俺は来る。……で? なんかあったのか?」
そこへ、まるで音もなく滑るようにヴィクトリア・リュシアが現れた。すらりとしたその姿は隙がなく、涼やかな声が場を凛と切り裂いた。
「ただ話していただけよ。何も起きてはいないわ。」
フィリップ・ド・ベルモンドはゆっくりと腕を組み、淡い微笑みを浮かべながら言った。
「朝からこんなに騒がしいなんて…まだ紅茶も冷めきっていないのに。少し、静かにしてくれない?
アル。この学園、問題児が多すぎますね。」
アルフレッドはむっとした顔をしながらも、どこか楽しげに肩をすくめた。
「お前ら、真面目すぎるんだって。……ったく、何をそんなに張り詰めてんだか」
ヴィクトリアは微かに笑い、その笑みは雪解けのように儚く、けれど確かに周囲をやわらげた。
「張り詰めるのが、礼儀ってものよ」
一瞬、ノアの目が彼等に向いた。
(ありがとうな...)
だがすぐに、また窓の外へと視線を戻す。
朝の光は変わらず、校舎の隅々まで差し込んでいた。
けれどその光は、何かを明るく照らしているというより、隠そうとしているようにも思えた。
やがて、誰からともなく話題は流れ、日常が再び歩き出した。
だがその足元に、ほんのかすかな影が差していたことに、気づいた者がいたかどうか――




