私の始まり
レインバルドにて、霧の匂い。
帝都レインバルドの空は、まるで油を垂らした水面のように鈍く濁っていた。春とはいえ、朝の空気は冷たく、石畳に積もった煤と霧が、湿った紙のように靴の底に貼りついて離れない。
高架を渡る魔導汽車の震動が、五階建ての霊素煉瓦を積んだ五階建ての建築を鈍く軋ませた。赤褐色の壁面に刻まれた魔封符が、微かな光を宿しながら揺れに耐える。
一見するとただの煉瓦造り――だが、帝都レインバルドでは煉瓦さえも魔法に従う。
古い窓硝子が、魔導汽車の振動に応じて鈴のように鳴った。
音はどこか澄みすぎていて、生気のない鐘のようだった。人の手で磨かれたものではない、術式で鍛えられた硝子――硬質な静けさが、耳の奥で跳ねる。
思えば、この帝都の音は、響く鐘、鉄と煙、それに微かな魔素のきしみでできていた。
鐘の音でさえ、歯車と蒸気弁の作動音をまとって、機械仕掛けの祈りのように耳に届く。
レタル・レギウスは窓辺に立ち、薄い紅茶をすする。学園セラフィエルの寮舎である。朝の霧が煉瓦の街並みを包み、塔の先端を霞ませている。そこには祈りも感傷もなかった。ただ、静謐と、鈍色の世界。
「神の毒――彼の地ではそう呼ばれているらしいですね」
いつかの講義で、神政史の老教授がそう呟いたのを思い出す。
報告書には“サマエル”という名が記されていた。堕天の名。厳罰を執行する堕天使。神より堕ちた者の中でも、最も深く、最も静かなる者。
書類を折り畳み、手帖に仕舞った。手が微かに震えていた。冷えではない。
私は、と彼は思った。私は、なぜこの任務に赴くのか。名誉のためでも、信仰のためでもない。好奇か、それとも逃避か――。
「……わからない」
紅茶の残りを飲み干す。薄く渋い味が舌に残った。
足元では、銀の火打石が入った小箱が揺れていた。
これから帝国の僻地、名も知らぬ村へ向かう。竜人が住まう地。だが彼らは既に竜ではなく、蔑まれ、捨てられた“もの”として扱われている。
その地に、神の名を背いた存在が現れた。
任務を共にするのは、民間契約者たち――生き残り。
堕ちた旧貴族は没落の影に怯え、錆びついた剣を握る。老傭兵は失われた栄光の亡霊。信仰に疑念を抱く神官は祈りを忘れた使徒、禁断の呪術を操る魔術師は異端の末裔だ。
冷徹な狙撃手は標的に死神の視線を送る。
影に潜む情報屋は真実を売る影の商人。訳を抱えし盗賊は影と共に消える。
忘れられた聖職者は神の声を失った祈祷師である。
放浪の錬金術師は禁じられた知識を追い、謎めいた異端者は呪われた血を宿す。老練な斥候は静かなる死の先駆け、若き狩人は未来を燃やす炎。
いずれも学園の外にいる者たち。帝国が秘密裏に選び抜いた、狂気と才覚を併せ持つエリートたちだ。
思えば、私だけが“異質”であった。私は、まだ学生なのだから。
ルイ・アガペル先生は、一体何を思い、私を選んだのだろうか。
廊下に出る。靴音が高く、やけに寂しく響く。
下りの階段には、暖かい光が差していた。硝子越しに射し込む朝日が、壁の装飾を金箔のように照らし出している。まるで――最後の晩餐のように。
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