槍に奪われる者
帝都の空は、薄雲の帳に覆われ、光の矢は地に届かずとも、春の匂いを含んだ柔らかな風が石畳を静かに撫でていた。
その街路を、ノア・エヴァンスは黙って歩いていたが、不意に足を緩めて隣を振り返った。
「ねえ、エレナ。今日、このあと、暇かい?」
エレナ・セラフィムは、驚いたように目をしばたたいた。形の整った眉が、ほんのわずか、戸口の暖簾のように揺れた。
「……とくに、予定はないけど」
「じゃあ、決まりだ。面白いところがある。君を退屈にはさせないよ」
そう言って、何気ない風を装いながらも、どこかしら芝居がかった動きで向きを変えるノアの背を見て、エレナは一瞬だけその場に立ち止まった。
だが、何かに導かれるように、彼の隣に歩調を合わせる。
まるで、それが自然の摂理であるかのように。
石畳の上に響く足音がふたつ、春の空気に紛れて揺れる。
しばしの沈黙ののち、エレナはほんの少しだけ顔を横に向け、静かに問うた。
「……どこへ?」
その声は、追いかけるためでも、拒むためでもなく、
ただ、風に乗って届いた疑問符。
ノアは振り返らずに、唇の端だけをわずかに持ち上げて、言った。
「大栄帝国博物館。昔の魔具とか、古代の星辰結晶とか……お前、そういうの好きだろ?」
エレナは一拍おいてから、少しだけ口元を緩めた。
「そうね。……久しぶりだし。」
帝都の空は、いまだ雲の帳をまといながら、ふたりの歩みをゆるやかに見下ろしていた。
* * *
博物館の大きなアーチを潜り抜けると、空気の質がまるで変わったかのように感じられた。そこは静けさに満ち、どこか神聖な聖域のような気配を漂わせている。高くそびえる壁面には、かつて栄えし”とある帝国”の盛況を描いたフレスコ画が天井いっぱいに広がっていた。
エレナは一歩一歩進みながらも、展示されている品々に視線を止めずにはいられなかった。魔法文字が繊細に刻まれた護符、古より王族が手にしたと伝えられる魔導書、そして淡い光を宿した星辰の結晶片――それらのひとつひとつが、静かにしかし確かに時代の息吹を伝えているようであった。
「……ちゃんと見てんだな、お前。説明文まで全部読んでるじゃん。」
「当然でしょ。来たからには、知識を持ち帰らないと。」
エレナはわずかに眉を上げて、そっけなく言い放ったが、その声音にはどこか満ち足りた色が含まれていた。
ノアは肩をすくめ、苦笑を漏らす。
「俺なんか昔、姉さんと来た時に、ここの警備員に『走るな』って何回怒られたことか……」
どこか懐かしげに笑いながら、彼は足元の石畳を一度見やった。その視線には、あの頃の自分に対するわずかな後悔と、今こうして隣に立つ彼女への不思議な感謝が、言葉にならず宿っていた。
そんな他愛もない会話を交わしながら、二人は自然と足を揃え、博物館の奥へと歩を進めた。そこは普段の来訪者の喧騒も届かぬ静寂の区画であり、時間の流れさえどこか歪んでいるかのようだった。
壁にはひび割れた石板、くすんだ鉄器、そして年代も知れぬ手記が並び、照明の弱い光の下で、それらはまるで過去の亡霊のようにじっと沈黙を守っている。
空気には冷たさだけでなく、湿った土のにおいと、鉄錆のような金属臭が混ざっていた。呼吸するたび、何か忘れていた記憶が胸の奥で軋むような、そんな感覚があった。
「……なんか、すげぇ静かだな、ここ。」
そして、ふと。
ノアの足が止まる。
何かを見つけたというより、何かに呼ばれたように——視線の先にあったのは、一つの古びた展示ケース。
木製の枠は幾度もの季節を越えたかのように煤け、真鍮の留め金には緑青が浮いていた。ガラスは内側から曇り、まるで時の膜がかかっているようだ。
その向こうに、一本の長槍が静かに佇んでいた。
光の届かぬ場所に置かれながらも、その輪郭、色合い、はっきりと目に映った。
黒鉄のような色合いの中に、微かに白銀の光をたたえたその姿。
刃は鋭く、冷たく、柄には無数の手が握った痕跡がある。
「この槍……説明が少ないわ。『帝国創世以前の出土武具』……名前も、使い手も不明?」
エレナが声をひそめる。ノアも珍しく、真剣な顔で見つめていた。
「……不思議な感じがする。知らねえはずなのに、妙に……懐かしい。」
エレナがノアの横顔をちらりと見る。
「ノア……もしかして、見たことがあるの?」
「いや、そんなはずねぇよ。でも……夢に出てきそうな気がする。」
彼がそう呟いた時、曇天の空から差し込んだ一筋の光が、ガラス越しに槍を照らした。
刹那、刃先が微かに、ほんの微かにきらめいた。
ノアとエレナは一瞬、目を合わせる。だが次の瞬間には、光は陰り、すべては何事もなかったかのように静まり返った。
「……次、行こうぜ。なんか寒くなってきた。」
「ええ。あとは〈星辰戦役〉の展示ね。」
ふたりは再び歩き出す。
だがノアは、背中越しにもう一度だけ、ガラスケースの奥を振り返った。
──静かに眠る槍。その名を知る者は、まだ誰もいない。