奪われる者
夜の帳が、帝都を静かに包んでいた。
春の夜風は優しく、寝台の脇を通り過ぎるカーテンが、ときおり柔らかな音を立てる。
ノア・エヴァンスは、長い一日を終えて、その身を眠りに委ねていた。
身体に残る微かな疲れと、明日への淡い期待が混じり合いながら、静かに意識は沈んでいく。
そこは、音も、光も、影さえ存在しない場所だった。
空間とは呼べない。時も流れていない。
それでも“在る”としか言いようのない、椅子が、そこに沈んでいた。
――誰かが座るために、
いや、相応しい“何か”を選ぶために現れた、それは。
それはまるで、この世界が始まる、遥か遥か以前――
光も影も、善も悪も、すべてがまだ“名”を持たなかったころから、そこにあったかのようだった。
「……器よ」
それは声ではなかった。
言葉ですらない。
ただ、彼の内奥に――魂の深層に――しみわたるように、**“思念”**が降りてきた。
「汝に、託す。」
「玉座に鎮座せし“創造主”を、打ち倒せ」
「この世界は、偽りの神が拵えた模造品にすぎぬ」
「民は苦しみを強いられ、神々はその理を奪われた」
「真実を語る者は異端とされ、信奉者共に処され、歴史は意図的に塗り替えられた」
その語りかけは、冷ややかで、静かだった。
だが、“あれ”――存在とも非存在とも知れぬ無の玉座――から放たれる思念は、
いかなる拒絶も赦さぬ、始まりの外からの命だった。
「器よ……」
「そなたは、真の原初に触れるに値する者」
「偽神が支配するこの牢獄を破り、バアルのごとく、かの者らに“終わり”と“救済”を知らしめよ」
深い沈黙を破るように、ノア・エヴァンスはゆっくりと目を開けた。
天井の模様が、現実に追いつけずにゆらゆらと揺れている。
「……僕は、何の夢を見たんだ?」
口にした瞬間、自分でもその声が遠く感じられた。
まるで夢の欠片がまだ、意識の奥に絡みついているかのように。
不確かで、朧げで、形にならない。
けれど、その“何か”だけは確かに残っていた。
魂に染みついたような違和感――
言葉にできないざわめきだけが、静かに胸の奥で鳴っていた。
ノアは額に手を当て、小さく息を吐いた。
曖昧だった。
ただ、一つだけ確信があるとすれば――
この夢は、どこかの誰かが仕組んだ幻ではなく、自分自身に課された“予兆”だということ。
⸻
帝都の空は薄雲の帳に覆われ、光の矢はかすかに届き、春の匂いを含んだ柔らかな風が石畳を静かに撫でていた。
静かな美術館の入り口で、エレナはそわそわと足を動かす。風に揺れるカーテンの影が、時折彼女の顔を優しく撫でた。
ほどなくして足音が近づき、ノア・エヴァンスがゆっくりと姿を現す。
「遅かったわね、ノア。」
その声は涼やかで、どこか含みを帯びていた。
ノアは軽く首をかしげて言った。
「いや、今日はこれでも早めに来たつもりだよ。」
彼の言葉には、いつもの軽口とは少し違う、誠実な色がにじんでいた。
「…嘘じゃなさそうね。」
エレナは微笑みを浮かべ、長年の知己のように彼を見つめる。
言葉少なでも、その間に柔らかな空気が流れていた。
春の淡い陽光が、ゆるやかに美術館の大理石の床を撫で、ふたりの影をそっと伸ばしていた。
静謐な空間に、微かな息遣いが重なり合う。
「今日は何を見に来たんだ?」ノアが問いかける。
エレナは微かに微笑み、柔らかく答えた。
「珍しい古代美術のコレクションが、特別に公開されているのよ。貴方が如何に感じられるか、私、とても興味深く拝察しているわ。」
その瞳の奥に、言葉以上の想いが潜んでいることを、ノアは感じ取った。
互いの距離は近く、それでいて崩れぬ静けさを保ちつつ、二人はゆっくりと館内へと足を進めた。
――
「こっちの絵は、『エデンの園』を題材にした絵。」
エレナは軽くノアに目をやりながら話し出す。
「セルメディア文明、昔の知恵が根付いた土地のこと。砂漠の向こうには、秘術や叡智が眠っているらしいの。」
「こういう謎が多い文明って、興味を深めるには打ってつけよね。」
彼女は絵の前で手を軽く動かしながら続ける。
「でね、ご存知かしら? 天に最も近いとされた“エデンの園”には、かつて四つの川が流れていたそうよ。
今は……そのうちの二つしか残っていないけれど。
『レウカオン』『エリマケス』『メラペノス』『クロロファス』――どれも神秘的で、美しい響きだと思わない?」
ノアは少し首をかしげながら、その絵をじっと見つめていた。
描き手の手によって再構成されたこの古代の景は、単なる信仰の象徴ではなく、何かを“伝えよう”としているように見えた。失われた叡智、あるいは――。
ノアはわずかに眉をひそめた。
けれど、それを言葉にするには、まだ思考が霧の奥にあった。
やがて静かに踵を返し、美術館の出口へと歩き出す。
ノア・エヴァンスはしばらく無言のまま歩いていたが、美術館の扉を潜り、外気に触れたその途端、ふと歩を緩めて隣を振り返った。
帝都の空には、未だ淡い雲が棚引き、光はどこまでも控えめに、濡れたような石畳を斜めに撫でていた。
午前の空気はわずかに水を含み、ひやりとした冷たさを帯びている。
それがまた、肌の奥に触れるようにして、歩く者の心をそっと澄ませてゆくのだった。
「ねえ、エレナ。今日、このあと暇かい?」
と、ひどく自然な調子で訊ねた。
エレナ・セラフィムは、驚いたように目をしばたたいた。形の整った眉が、ほんのわずか、戸口の暖簾のように揺れた。
「……とくに、予定はないけど」
「じゃあ、決まりだ。面白いところがある。君を退屈にはさせないよ」
そう言って、何気ない風を装いながらも、どこかしら芝居がかった動きで向きを変えるノアの背を見て、エレナは一瞬だけその場に立ち止まった。
だが、何かに導かれるように、彼の隣に歩調を合わせる。
まるで、それが自然の摂理であるかのように。
石畳の上に響く足音がふたつ、春の空気に紛れて揺れる。
しばしの沈黙ののち、エレナはほんの少しだけ顔を横に向け、静かに問うた。
「……どこへ?」
その声は、追いかけるためでも、拒むためでもなく、
ただ、風に乗って届いた疑問符。
ノアは振り返らずに、唇の端だけをわずかに持ち上げて、言った。
「大栄帝国博物館。昔の魔具とか、古代の星辰結晶とか……お前、そういうの好きだろ?」
エレナは一拍おいてから、少しだけ口元を緩めた。
「そうね。……久しぶりだし。」
帝都の空は、未だ雲の帳をまといながら、ふたりの歩みをゆるやかに見下ろしていた。
* * *
博物館の大きなアーチを潜り抜けると、空気の質がまるで変わったかのように感じられた。そこは静けさに満ち、どこか神聖な聖域のような気配を漂わせている。高くそびえる壁面には、かつて栄えし”とある帝国”の盛況を描いたフレスコ画が天井いっぱいに広がっていた。
エレナは一歩一歩進みながらも、展示されている品々に視線を止めずにはいられなかった。魔法文字が繊細に刻まれた護符、古より王族が手にしたと伝えられる魔導書、そして淡い光を宿した星辰の結晶片――それらのひとつひとつが、静かにしかし確かに時代の息吹を伝えているようであった。
「……ちゃんと見てんだな、お前。説明文まで全部読んでるじゃん。」
「当然でしょ。来たからには、知識を持ち帰らないと。」
エレナはわずかに眉を上げて、そっけなく言い放ったが、その声音にはどこか満ち足りた色が含まれていた。
ノアは肩をすくめ、苦笑を漏らす。
「俺なんか昔、姉さんと来た時に、ここの警備員に『走るな』って何回怒られたことか……」
どこか懐かしげに笑いながら、彼は足元の石畳を一度見やった。その視線には、あの頃の自分に対するわずかな後悔と、今こうして隣に立つ彼女への不思議な感謝が、言葉にならず宿っていた。
そんな他愛もない会話を交わしながら、二人は自然と足を揃え、博物館の奥へと歩を進めた。そこは普段の来訪者の喧騒も届かぬ静寂の区画であり、時間の流れさえどこか歪んでいるかのようだった。
壁にはひび割れた石板、くすんだ鉄器、そして年代も知れぬ手記が並び、照明の弱い光の下で、それらはまるで過去の亡霊のようにじっと沈黙を守っている。
空気には冷たさだけでなく、湿った土のにおいと、鉄錆のような金属臭が混ざっていた。呼吸するたび、何か忘れていた記憶が胸の奥で軋むような、そんな感覚があった。
「……なんか、すげぇ静かだな、ここ。」
そして、ふと。
ノアの足が止まる。
何かを見つけたというより、何かに呼ばれたように——視線の先にあったのは、一つの古びた展示ケース。
木製の枠は幾度もの季節を越えたかのように煤け、真鍮の留め金には緑青が浮いていた。ガラスは内側から曇り、まるで時の膜がかかっているようだ。
その向こうに、一本の長槍が静かに佇んでいた。
光の届かぬ場所に置かれながらも、その輪郭、色合い、はっきりと目に映った。
黒鉄のような色合いの中に、微かに白銀の光をたたえたその姿。
刃は鋭く、冷たく、柄には無数の手が握った痕跡がある。
「この槍……説明が少ないわ。『帝国創世以前の出土武具』……名前も、使い手も不明?」
エレナが声をひそめる。ノアも珍しく、真剣な顔で見つめていた。
「……不思議な感じがする。知らねえはずなのに、妙に……懐かしい。」
エレナがノアの横顔をちらりと見る。
「ノア……もしかして、見たことがあるの?」
「いや、そんなはずねぇよ。でも……夢に出てきそうな気がする。」
彼がそう呟いた時、曇天の空から差し込んだ一筋の光が、ガラス越しに槍を照らした。
刹那、刃先が微かに、ほんの微かにきらめいた。
ノアとエレナは一瞬、目を合わせる。だが次の瞬間には、光は陰り、すべては何事もなかったかのように静まり返った。
「……次、行こうぜ。なんか寒くなってきた。」
「ええ。あとは〈星辰戦役〉の展示ね。」
ふたりは再び歩き出す。
だがノアは、背中越しにもう一度だけ、ガラスケースの奥を振り返った。
──静かに眠る槍。その名を知る者は、まだ誰もいない。