前菜
学園内の訓練場。エゼル・ノクスが座って腕を組み、冷静に二人の対決を見守っている。周囲の学生たちもその様子を息を呑んで見守っていた。ノア・エヴァンスとレタル・レギウスが対峙している。
「魔法、人技
命気、魂気
魔力――なにもかも、ナシ。」
レタル・レギウスは制服の上着を外しながら言った。
口調は淡々としていたが、その目は冴えきっていた。
「じゃあ何ならアリなんだよ、これ」
ノア・エヴァンスが片眉を上げる。
「拳のみ――」
レタルは最後に小さく笑った。
「……“自分”だけで闘う、ってことさ。」
エゼル・ノクスが頬杖をついてそれを見下ろしていた。
「またかよ、拳で語るのが流行ってんのか?」
エゼルはぼそりと呟いた。言葉の端々には軽さが漂うが、目だけは真剣そのもので、友人たちからその視線を逸らすことはなかった。彼もまた、戦いに心躍らせる者――バトルジャンキーなのだ。
ノアは軽く体を前後に揺すりながら、レタルと視線を交わした。レタルは静かな表情で、その視線の中に微かな興奮を宿している。
「いけるか?」と、ノアが自分自身に問いかけるように呟いた。
「緊張してるのかい。」レタルはゆっくりと答え、腰を落としながら身構える。
その瞬間、空気が一変した。二人の間に漂っていた緊張が、重い静寂に変わる。
先に動いたのはレタルだった。彼は瞬時に間合いを詰め、右ストレートを放った。その動きはまるで予測不可能な雷のようで、ノアは一瞬目を見開く。
「速っ!」
ノアは体をひねってそのストレートをかわす。すぐに返すべく、右ジャブをレタルの顔面に向けて放つが、レタルはそれを軽く左手で払い、素早く距離を取る。
ノアは次に、レタルのレバーを狙って左フックを放つ。これが当たればレタルの動きが鈍るはずだ。しかし、レタルはそのフックを瞬時に回避し、体を小さく横に移動させると、今度は右膝でノアの腹部を打つ。
「ぐっ!」
ノアはその膝を受けて、一歩後退する。しかしすぐに反応し、レタルに接近してさらに膝蹴りを放つ。だがレタルは冷静にそれを見切り、すぐにノアの膝を掴み、強引にひねってテイクダウンを狙う。
だが、ノアはただ倒されることなく、反転してレタルの腰を引き寄せ、自らも足を絡めてレタルを地面に引き倒す。ここで勝負を決めようとしたが、レタルはその動きに予想以上に素早く反応し、ノアの腕を掴んで回転させ、逆にその腕を地面に押さえつける。
「これで終わりだ。」
レタルは微かに笑い、ノアを抑え込もうとする。しかし、ノアはレタルの足元に視線を向け、瞬時にその足を狙って蹴りを放つ。レタルはそれをなんとか防ぎ、再び間合いを取って立ち上がる。
レタルは肩をわずかに上下させ、荒くもない息を整えていた。
ノアもまた、浅く蹲っていた体を起こす。拳を握る音が、静寂の中にわずかに響いた。汗が額から顎へと滑り落ちるのを感じながら、ノアは笑った。
「……オレ、思ってたより痛みに慣れてるな。」
「それは、君が誰かのために痛みを受けてきた証だろうさ。」
レタルは静かに言い、拳を再び構えた。
闘いの構え――それは単なる構図ではない。意志が凝縮され、肉体という器に宿る“形”だった。
ノアが踏み込む。
わずかに腰を落とし、レタルの懐へと入り込む。左のフェイント、そこから膝――だがレタルは読んでいた。肘で膝を受け止め、そのまま肘打ちをノアの肩口へと放つ。
衝撃音が、訓練場の壁に反響する。肉と骨が軋み、戦慄が観客に伝染した。
ノアは体をひねってその肘を受け流すと、地を蹴る。跳ねるようなステップで間合いを詰め直し、回し蹴りを放った。
その脚が空を裂く。
レタルは一瞬、迷ったように見えた。だが次の瞬間、彼は脚を掴んで引き寄せ、身体ごとノアを地面に打ちつける。
鈍い音。
空気が漏れるような呻きとともに、ノアの背が地を打つ。
周囲から息を呑む音が洩れた。
「終わり……か?」
レタルの目が揺れた。
ノアは倒れたまま、わずかに首を横に振った。
「まだだよ、レタル。」
拳が突き上がった。
地を這うように動いたノアの右拳が、レタルの脇腹に突き刺さる。肋骨の下、軟らかな臓腑へと届く一撃だった。
レタルが顔をしかめる。
「ほんと、おまえってさ――」
レタルは唇を噛み、吐息とともに笑った。
「しぶといんだな。」
レタルの身体がよろめく。
肋骨の奥――内側に仕込まれた臓腑が、確かに悲鳴を上げた。それでも彼は倒れない。足裏を地に吸い付かせるように立ち、踏みとどまる。
「しぶといんだな」と笑った口元が、痛みに微かに歪んだ。
その隙を、ノアは見逃さなかった。
「――ッ!」
ノアの目が変わる。感情を殺し、機械のように動く意志の光。
正面から行けば、また受けられる。ならば、と。
ノアはすかさず一歩引く。レタルの警戒心がその動きに引き寄せられた瞬間、ノアは地を蹴った。
――石ころが一つ、足元に転がっていた。
誰かが偶然、落とした石(勝利の鍵)か、訓練場の整備が甘かったか。
...戦場に偶然などない、そうノアは考えた。使えるものは、すべて使う。それが“勝つ”ってことだ。
ノアはその小石を足の甲で弾く。レタルの視線がわずかに揺れた。その一瞬――
「すまん」
心の中でだけ、ノアは呟いた。
一歩で間合いを詰め、左手でフェイント。レタルの腕が上がった瞬間、ノアの右ストレートが顎を打ち抜いた。
首がはねた。
刹那の無音。続く激突音。
レタルの身体が、遅れて地に落ちた。砂埃が舞う。ノアの肩で、汗が流れた。
立ったまま、拳を握り締めていた。動悸が止まらない。
「……はぁ……っ」
荒く息を吐き、ノアはその場に膝をついた。手を、膝の上に置いた。震えていた。
レタルは、倒れたまま口角を上げた。
「……やるじゃないか。しかし……卑怯だな。」
「勝つって、そういうことだろ……? でも、悪いな……ほんとに、ごめん」
ノアは顔を上げて言った。
本気で、そう思っていた。言い訳じゃない。謝罪でもない。そうするしかなかった――それだけの、誠意だった。
エゼル・ノクスが、ぽつりと呟いた。
「……ズルいなノアは。だけど、あいつは“勝つこと以外が眼中にない”やつなんだよ。度を越した負けず嫌い。」
風が吹いた。訓練場の砂を巻き上げながら、静かに過ぎていった。
ふたりの男の間には、拳を超えた何かが、たしかに残っていた。
立ち上がったレタルが、砂塵まみれの制服を軽くはたいた。
ノアはまだ座ったまま、鼻の頭を指でこすりながら言った。
「……ま、来週の特別訓練とやらは、これで行けそうだな」
「行けるかどうかは知らんが……調子は悪くないね」
レタルが呟いたその声には、試合前よりも少しだけ、熱が混じっていた。
エゼル・ノクスが石垣の上からひょいと跳び下り、両手をポケットに突っ込んだまま歩いてくる。
砂塵の向こうから歩いてきた彼の足取りは軽いが、瞳の奥には興奮が渦巻いていた。
その眼差しはまるで、今の闘いを食前酒にした獣のよう――まだ飢えている。
「二人とも、いいもん見せてくれたじゃないか。……おかげで、オレも退屈しなかった。本番でも、それくらいで頼む。」
エゼルの声が、訓練場の中心にすとんと落ちた。
ノアが、まだ膝をついたまま顔を上げる。
「見てただけのお前が一番楽しそうだったな」
「そうか?まぁ、見てる分でも最高の娯楽だからな。」
レタルが制服の裾を払って、肩を竦める。
「……今日はやけに口数が多いね、ノクス。」
「……そうだな。さすがに今日は黙ってられそうにない。」
その瞬間、エゼルの両目が細くなる。
まるで、獲物に手を伸ばす猫のような気配――冗談めいた軽さの中に、凶暴な熱が潜む。
「本番の特別訓練、“模擬戦”って建前……講師連中がどんな地獄を用意してるか、もう察してるんだろ?」
ノアとレタルが視線を交わした。その目は笑っていない。
「多分、ただの演習じゃ済まない。メンツ的に。」
その場にいた全ての生徒が、心のどこかで思っていた。
――これは、ただの訓練じゃない。
闘いの中でしか言葉を交わせない者たちの、誓いと証明。
痛みと勝利の、その先にある何かを掴むための、魂の共鳴。
風が、再び吹き抜ける。
その音が、次なる闘いの号砲のように響いていた――。




