甘味処(日常会)
レインバルドの午前、風はほんのり甘く、まだ誰かの笑い声が残っている気がした。
紙袋をぶら下げながら、ノア・エヴァンスは校舎裏の近道を抜けようとしていた。
抹茶プリン、新作ゼリー、そしていつものチョコタルト。エレナの分もある。彼女が甘いものを好きだと知ったのは、ほんの些細な偶然からだった。
「おっそいよ、ノア!」
木陰から飛び出してきた声に、彼は反射的に立ち止まった。
亜麻色の髪は陽に透かされてきらきらと光り、制服の裾が風に持ち上げられて、ふわりと舞った。
それは、まるで春の陽気が戯れるように、髪と布とを同時に撫でて過ぎていった。
そこにいたのは、セラフィエル学園《統律会》の規律監査官に就任した、エレナ・セラフィム――けれどその肩には、官位も威厳も乗っていない。
ただの、“ノアの友達”の顔。
「へえ、監査官ってのは、こんなところで張り込みもするんですね。まぁ、薄々勘付いていたけど。」
ノアは目を細めて言った。悪びれぬ口ぶりだったが、その裏には明らかな皮肉がこもっていた。
「違う違う、任務じゃないってば。ただちょっと、甘い匂いにつられて来ただけ。あと、選ぶのに時間かけすぎだよ。」
いたずらっぽく笑って、彼女は手を差し出す。
「あるでしょ? 私の分」
ノアは紙袋から小さなカップをひとつ取り出した。
「読まれたか。仕方ないね。代金は後で請求するよ。」
ノアは肩をすくめ、わざとらしくため息をついてからそう言った。
「じゃあ領収書もよろしく、あと読まれてるんじゃなくて、予測してるの。君、わかりやすいもん」
そうして彼女が腰を下ろした石段の上、二人は並んで座り、手の中の甘味を静かに味わった。
陽は傾きはじめ、木々の影がそっと二人の足元を撫でていた。
言葉少なに交わされる時間は、まるで春の終わりの風のように、ひそやかで優しかった
優等生と、神の力を受け継ぐ問題児。
立場で語れば相容れない二人――けれど、甘味を前にすれば、どちらもただの若者だった。
「ねぇノア、今度店に一緒に行こうよ。ちゃんとしたティールームのほう。ケーキが美味しいって噂の。」
スプーンをくるくる回しながら、エレナが何気なく言う。
ノアは手元のチョコタルトに視線を落としたまま、少し間をおいた。
「……もう、“僕の研究”はしないのか?」
その言葉に、エレナの手が止まる。スプーンの銀が日差しを受けて、きらりと光った。
「研究……ね。あれは――」
彼女は言葉を選ぶようにして、そっと笑った。
「今は、君と甘いもの食べてるほうが、有意義ってだけ」
「逃げてるように聞こえるな」
「うん、逃げてるのかも。……でもね、私は私の“答え”を探してる途中なの。君のことも、それ以外のことも」
「そういえば、この前先生に呼び出されたけど大丈夫だったの?」
ノアはそれ以上何も言わず、ただ静かに頷いた。
石段の上に風が吹いた。抹茶の香りが、ほんの少し強くなったような気がした。
⸻
風が流れる。
ほんのりと香る甘い匂いに混じって、笑い声が届いた。
中庭の片隅、木陰に立つエレノア・グレイの視線の先では、エレナ様とノア・エヴァンスが並んで腰掛け、スイーツを手に談笑していた。
エレナ様が、微笑んでいる。
その瞳に、ノアを映して。
(……また笑っていらっしゃる)
胸の奥が、きしむ。
あれは、自分のための笑顔だったはずだ。
誰よりも近くで支え、命を懸けて忠誠を誓ったのは、自分だ。
(なぜ、あんな男に……)
ノアの何が特別なのか。
王家の血か? 神の力か? それとも、あの飾らない物言いか?
くだらない。
エレナ様は、もっと高みに立つお方だ。
あんな王族崩れに、踏み込ませて良いはずがない。
資料を抱える指先に、無意識の力がこもる。
白いナックルが震え、紙の角がわずかにしなる。
(ノア・エヴァンス……貴様さえいなければ)
(エレナ様の隣は、私だけでよかった)
(許さない……その笑顔を、奪ったことを)
けれどエレノアは、一歩も動かなかった。
ただ静かに、木陰で立ち尽くす。
仮面の内側で、燃えるような憎悪を誰にも見せずに。
そして、ふとエレナ様がこちらに気づき、手を振った。
その無邪気な仕草に、胸が裂けそうになる。
ああ、気づかないで。
そんな風に、他人に向けるような無邪気さで、私を見るのは――
(……そんなの、耐えられない)
風にかき消されそうな声で、エレノアは呟いた。
「……ノア、絶対に……貴様だけは……」
思わず胸を押さえる。苦しいのは、怒りか、それとも――ただの嫉妬か。
(あの男……どうして、そんな自然に隣に座って……)
自分は、あれほど努力して、身を削って、命さえ捧げる覚悟で傍にいるというのに。
ノアがふと、こちらに気づいた。
そして、当たり前のように手を振る。
「キミ。そこにいないで、こっち来ればいいじゃん」
(……何様のつもり?)
反射的に睨みそうになって、けれど――
その瞬間、私のエレナ様が嬉しそうに振り返った。
「そうよ。来なさい、エレノア。スフレ、まだあるしね。」
……ああ、エレナ様が、笑ってる。
それだけで、何も言えなくなる。
「……仕方ありませんね。今回は、特別に許してあげます。」
エレノアは言葉を投げかけると、少し顔をしかめた後、内心でガッツポーズをした。
心の中では、「やった!」と小さく勝利を感じ、だがその表情にはそれを微塵も見せず、冷静を装っていた。
すました顔で木陰を出て、ノアの隣――ではなく、当然のようにエレナの隣に腰を下ろす。
目線も向けないまま、ノアに言い捨てた。
「勘違いしないでくださいね。あなたのために来たわけじゃありません」
ノアは笑った。軽く、何も気にしていない風に。
「うん、知ってる」
その無神経さに、また少しだけ胸が軋んだ。
けれど、エレナが笑ってるなら――それで、いい。




