ほら吹き王子の冒険
セラフィエル学園――王族と貴族、知識階級の子弟が集う帝国随一の学び舎。だが、その本質は、《レインバルド機構》の枠内に組み込まれ、国家の中枢における牙となるべく、日々静かに磨かれていた。
その日、学園の北翼にそびえる図書塔を中心に、ある噂が静かに、だが確実に広がり始めていた。
「聞いた? 例の学生たちが、“ベルゼブブの眷属”を倒して帰ってきたって」
「ほんとかよ……まだ一年のくせに?」
「いやマジだって。なんでも、“ 渓谷”ごと封印し直したらしい。」
囁き、憶測、尾ひれ。そしていつしか、物語は“神話”になる。
「大国一つ滅ぼすような災厄を討った。」
「ベルゼブブの眷属、その“心臓”を無惨にも引きずり出した。」
「その三人、もはや人とは呼べぬ、“選ばれし何者”なのだろう。」
公式記録は伏せられたまま。任務そのものが極秘指定扱いだった。
それでも――噂は止まらない。
⸻
静かな図書塔の一角。木の香りと古書の埃の中、青年はぽつりと呟いた。
「ちょっとベルゼブブの“眷属”と遊んでみたんだよね。まぁ、思ったよりは楽勝だったけど、それで渓谷の封印をちゃんと再構築して、魔導遺物も忘れずにゲットしてきたから、仕事としては完璧だな。」
ノア・エヴァンス。
生意気の極み、第一年生にして王家の血筋を引き継ぐ青年。まるで、天命に逆らっているかのような顔つきで、周囲の者をいささか呆れさせている。
その発言に、向かい合う少女の瞳が、ピクリと揺れた。
エレナ・セラフィム――
銀縁の眼鏡の奥に、氷のような理性と、燃え盛る探究心を隠し持つ、“知”の申し子。
「それって、機密じゃないの?」
冷ややかに問う声には、苛立ちと好奇心がない交ぜになっていた。
「え? これが機密?ま、まぁ確かにね。でも、そんなこと気にしてたら、毎日のように機密だらけで息が詰まるだろ?大丈夫さ。」
ノアは軽く肩をすくめてみせる。
エレナはノアの言葉に一切の驚きも見せず、まるで昼食の献立でも尋ねるかの如く、さらりと言葉を継いだ。
「魔導遺物って、何だったの?」
「……銀の核さ。強い魔力を持ってて、汚染の源もあれだった」
その言葉に、エレナはほんの一瞬、息を呑む。
「……銀の核」
それは、彼女の声にしては珍しく、熱を孕んだ呟きだった。
まるで何か深く封じられていた記憶の蓋が、ほんのわずかに軋んだかのように。
言葉にした瞬間、視線がほんの少し泳ぐ。
だがすぐに理性の仮面が戻り、彼女は何事もなかったように話を続けた。
「ノア、重大機密を洩らして、後になって咎められても、私の知ったことではないからね。」
エレナは氷と憂いをひと匙ずつ混ぜた声音でそう言った。
「さっきも言っただろ。大丈夫だって。」
⸻
翌朝、学園の食堂は、焼きたてのクロワッサンとベーコン、ソーセージ、加えてコーヒーの香りが入り混じった匂いと一緒に、噂で満ちていた。
「おいおい、“死の渓谷”でベルゼブブの眷属を討伐、だと!?」
「封印魔術で“汚染”を止めたらしいぞ……あの渓谷の? あの?」
焦げかけたクロワッサンをくわえたまま、上級生が目をむく。
となりの席に座る、ライ麦で作られた硬めのパンを片手に持った男子がつぶやいた。
「ベルゼブブの眷属、銀色の魔神の心臓を引っこ抜いた? ……心臓って、引っこ抜くもんだったのか?」
誰も「そんなバカな」とは言わなかった。
いや、本当は言いたかったのだが、問題はその“バカな話”が、よりにもよってあのノア・エヴァンスと、その仲間――エルゼ・ノクスとレタル・レギウス――の名前とセットで語られていることであった。
そして彼らの過去の数々の“やらかし”を思い出すにつれ、皆、こう思い始めるのだった。
「……あいつらなら、やりかねん」と、カフェ・オ・レを啜りながらつぶやいた三年生の言葉が、やけに現実味を帯びていた。
「むしろ、魔神の方が気の毒かもな……」
「はぁ?あっ...」
牛乳をこぼしたまま固まっていた2年生のフォークが、乾いた音を立てて床に落ちた。
⸻
そして当然のように、後日――
「ノア・エヴァンス」
監察・監督室。
重く閉ざされた扉の向こうで、冷えた声がその名を呼ぶ。
「機密保持規定、読んだ上での発言か?」
ノアは少しばかり大きな声を上げ、無理にでもその言葉を押し出すように言った。
「はい。すみません。」
その言葉はどこか空回りしているようで、ノア自身が必死にその責任を背負おうとしていることが伝わってきた。
両手を軽く広げるようにして、「反省してる!本当に!」と、まるで必死にその気持ちを証明しようとする。強調しすぎたせいで、逆に滑稽に見えるその姿が、かえってノアらしさを際立たせていた。しかし、その表情にはどこか切迫したものが滲んでいた。
彼なりの精一杯の謝罪だ。
「次、このようなことがあれば、懲罰審査委員会に報告する。」
その冷ややかな言葉に、ノアは一瞬、言葉を失った。そして、諦めのような色が浮かび、静かに頭を垂れた。その背後には、しっかりとした姿勢を崩さずに立つ者がいた。
エルゼ・ノクスが静かに溜息を吐いた。まるで深く息を吸って、言葉を押し殺すように。
「ほら見ろ、言っただろ。“口を慎め”って。」
その声音は冷たくも、どこか諦めに似た優しさを孕んでいた。
隣でレタル・レギウスは片眉をわずかに動かし、面倒くさそうに瞼を閉じる。
「キミには呆れたよ。」
まるで春の風が巻き起こす埃に対する反応のように、軽く、しかし確かに投げられたその言葉は、ノアの胸にじわりと沁みた。
⸻
その夜。
塔のバルコニーで、エレナ・セラフィムは風を受けながら、ひとり呟いた。
「心臓を引っこ抜く、ね……誇張にしても……」
唇を歪めて、笑みとも溜息ともつかぬ吐息をこぼす。
「まあ、帰ってきたんだから……今はそれでいいかしら。」
誰もいない空の下、風が灯火を揺らす。
そしてまた一つ、誇張話が、生徒たちの口からこぼれていく――。
人々はそれを神話と言うだろう――。




