終幕前
六つの翼 、それはセラフィムの最も顕著な特徴です。天使に通常見られる二つの翼ではなく、彼らは六つの翼を持っています。これらの翼の一部は顔を覆い、他の部分は足を覆い、そして残りの翼は飛ぶために使われるといわれますね。
霧が、何の前触れもなく揺らいだ。
その瞬間、世界そのものが音もなくひび割れるような、奇妙な違和感が胸を走り抜けた。
―― やがて、音が戻った。
それは、まるで世界が再び息を吹き返したかのようであった。
最初に感じたのは、足元の砂利が微かに踏みしめられる気配であった。
遠くより絶え間なく聞こえていた金属のぶつかり合う音は、ふと途絶えた。
その刹那、冷ややかな風が肌をかすめ、どこか実体を帯びた空気が、音もなく運ばれてくるのを覚えた。
レタル・レギウスは、びくりと肩を震わせた。
暗い霧の中、その眼は見開かれ、何かを確かに捉えようとしていた。
幻のごとき世界は、まるで布を裂くようにして一挙に破れ、
失われていた色と音とが奔流のごとく押し寄せてきた。
現実と思われるモノの眩しさが、彼の視界を容赦なく満たしてゆく。
――そこは、巻き添えとなった獣たちの亡骸と、崩れ落ちた瓦礫とが無惨に積もる、峠の渓谷であった。
断崖の縁では、空が重たげに灰色へと沈み込み、冷たい風が谷間を這うようにして吹き抜けていく。
己の足元には、確かに大地の手触りがあった。
指先に触れる石は冷たく、だが、それが紛れもない現実であることを告げていた。
そのとき、背後から、声がした。
「……やっと戻ってきたか。馬鹿やろう。」
ノア・エヴァンスが、杖を横に構えながら微笑んでいる。
笑顔には心配と安堵が混じり、レタルの胸にじんわりと暖かさを広げた。
レタルは、かぶっていたフードを払うように手を動かし、深く息を吐く。
震えていた震えがすっと消え、胸に確かな熱と覚悟が満ちていくのを感じる。
「……ただいま、ノア。」
その声に、ノアは軽く頷いた。
二人の影が地面に重なり、静かに揺れる。
――そのとき、更にもうひとつの影が、音もなく近づいてきた。
エゼル・ノクスは、渓谷を吹き抜ける冷たい風を、あたかも全身で受けとめるかのように、そこに立っていた。
遠雷の残響のように胸が微かに震え、灰色の空気がその全身を駆け巡る。
視線はレタルとノアを一度に捉え、確かな決意を滲ませた。
彼は、帽子のつばにそっと指を添え、静かにそれを深く被り直した。
その何気ない仕草は、言葉よりもなお雄弁に――不文の誓いを語っていた。
「行くぞ、レタル。」
――声は低く、迷いの影一つなかった。まるで、すべてを見通しているかのように。
ノアが頷き、エゼルが小さく微笑む。
三人の影が揃って大地に刻まれ、ひとつの固い絆を示すかのように揺れた。
その時、地の底より這い上がるかのごとき轟音が、あたりを揺るがした。
――轟音の後、渓谷の空気が再び凍りついた。
三人の影が並び立つ先に、
まるで世界そのものを呑み込むかのような巨大な気配が立ち現れた。
黒白の衣を纏い、六枚の異形の翼を闇に刻む。
裂けた地面から生えた蔦と岩屑が、無数の細い糸となってその身体を取り巻く。
“絶対災厄”――アスタロトとアブリミーナが融合した最終形態。
その存在は、もはや“人”の領域を超えている。
操り人形と化した渓谷のすべてを黒い魔糸で束ね、
ひとつの悪夢の塊としてそこに立ち尽くしていた。
やがて、静寂を切り裂くように、凶花(虚無花)が暗闇の中でひらひらと開く。
黒煙がかき集められ、無数の錐のごとき花弁となって、ゆっくりと飛び立つ。
「ようやく――集ったのね、器と神の出来損ないたち。
この渓谷は、私たちの舞台。
さあ、最後の躍動を――《マリオネット》をご覧じろ。」
その声は耳障りではなく、
深い洞窟の奥底から響く詩のようだった。
続けざまに、無数の黒糸が舞い降りる。
岩石、蔦、砂利、まるで血肉を帯びたように蠢き、
凶器の花弁が英雄たちを絡め取らんと、重く沈む。
ノアは杖を構え、エゼルはハットを深くかぶり直す。
レタルはまだ背後で立ちすくむが、胸の奥には新たな光が宿っている。
世界を縛る糸が、
今まさに三人を引き裂かんとしている。
――戦いの幕が、最高潮へと引き上げられた。
今後も、彼らの物語を続けることができればと思っていますが、まずはこの一話をお届けできたことに満足しています。
次に彼らが繰り広げる物語も、またお楽しみにしていただけたら嬉しいです。




