ふたりぼっち
冷たい霧が、世界をすべて覆っていた。
上も下も、前も後ろもわからない。足元すら霞んでいて、ただそこに立っているという感覚すら、どこか曖昧だった。
レタル・レギウスは、ひとりぼっちだった。
あたたかさも、手を差し伸べる声もない。あるのは、心の奥から湧き上がってくる、終わりのない静寂と――痛み。
母の姿がよぎる。
優しかった手、微笑み、あの歌。
「だいじょうぶ。あなたは――」
その声が霧の奥に消えると、代わりに重たい影が現れる。
父の声が耳の奥に甦る。
「お前は影だ。――要らぬ子だ」
それはひどく冷ややかで、どこか淡々としていた。
しかし、その淡白な響きが、むしろ剣のごとく鋭く、幼き日の我が胸を容赦なく突き刺したのである。
我知らず、あのときの小さき自分が心の隅でまた身を竦めているのを覚える。
今にして思えば、あの瞬間、我が心の何処かが確かに壊れたのだ。
目に見えぬ亀裂は、年月を重ねてなお癒えず、ただ静かに疼き続けている。
――それでも。
「……レタル。」
何処よりともなく、かすかな呼び声が耳を掠めた。
柔らかく、されど芯のある声音である。――その声を、私は知っている。
「レタル。……聞こえるか?」
静けさの中に響くその響きは、波紋のように胸の奥に広がっていった。
忘れようとして、けれど忘れられなかった、誰かの声。
その呼びかけは、風に混じって届いたモノのはずだがむしろ、己の内に沈みきっていた記憶の湖底から、そっと浮かび上がってきたもののようにも思えた。
霧の奥より射し込む一筋の光――
ノア・エヴァンスの声は、まさしくそのようなものであった。
それは何の前触れもなく、私の心のただ中を静かに、けれど確かに貫いた。
長らく凍てついていた胸の奥底に、かすかな音がした。
氷の内側に、ひとしずくの温もりが落ちるような、微かな響きである。
それは音というにはあまりにも静謐で、しかも確かに生きていた。
知らず、私はその瞬間、自分の中にまだ熱を覚える部分が残っていたことを知った。
それは忘れていた痛みであり、同時に希望と呼べるものでもあったのかもしれない。
「……ノア……?」
声にならない声が漏れた。
「もう、良いんだ。……君は、独りじゃないんだ。僕がいる。――ゆえに、ふたりぼっちだ。君が言ってくれたろ?」
そう言いながら、彼の声音には不思議な温みが宿っていた。
それは慰めの言葉というよりも、もっと静かで深い、ある種の決意にも似ていた。
「だから、帰ってきてくれ。……僕らのもとへ。」
その言葉は、決して声高ではなかった。
けれど、その柔らかさのうちに、どこか抗えぬ力があった。
まるで闇の中でひとつ灯る燈火のように、か細くとも確かに在る存在が、そこにはあった。
彼の言葉が胸に落ちるたびに、苦しかった記憶が少しずつほどけていく。
孤独、拒絶、痛み――そのすべてが、ただの“影”だったことを、ノアの声が教えてくれた。
そっと、目を閉じる。
それから、レタルは静かに、しかして深く息を吸い込んだ。
……遠くで、何かが揺らいだ。
空気の震え。霧がわずかにざわめいた。
心臓が高鳴る。全身に命が流れ込むような、熱い鼓動が蘇る。
ノアの声が導いてくれた――これは自分の歩くべき道。
否定され続けた過去を、今ここで終わらせる。
静かに、だが確かに、レタルは立ち上がった。
その背に、目覚めの風が吹く。
雷鳴が、どこか遠くで低くうなりを上げた。
――まだバトルは始まらない。だが、魂はもう、戦いの扉を開けていた。




