叫び
アブリミーナ――否、“絶対災厄”は、静かに指先を揺らした。
――魔王の業、操り人形。
谷底に転がる無数の小石、岩壁を這う蔦の絡まり、崩れ落ちた岩片、滴り落ちる泉の一滴に至るまで、すべてが彼女の意志に応じて糸のように貫かれる。
黒い細糸が渓谷を満たし、その糸はひとつ、またひとつと結び合わさり、宙に浮かぶ“仮面”を編むかのように編み上がっていく。
「これが、私たちの舞台装置――」
彼女が囁くと、糸はさらに濃密さを増し、やがて一瞬の閃きと共に変貌を遂げた。
虚無花。
操られた“命と破壊”の断片が、黒い花弁へと結晶化する。
その花弁はまるで刃のように鋭く、無数の凶器となって渓谷を埋め尽くした。
──降り注ぐ刃の雨。
ノア・エヴァンスの身体は既に限界を超えていた。
魔力も命気も枯れかけ、視界は揺らぎ、音は遠のいていく。
だが――その胸の奥、ただ一つだけ確かに残っているものがあった。
「……まだ、終われない……!」
ノア・エヴァンスは崩れた砂利を蹴り上げ、杖を水平に構えた。
虚無花の黒い花弁が、刃と化して迫る。
“絶対災厄”の魔王業の操り人形は、谷のすべてを殺意に変えた。
それでもノアは、杖を地面に突き立て、最後の命気を振り絞る。
「命よ、我が祈りに応えよ。
穢れしものを拒み、ただ“生きようとする意志”をこの場に刻め――
■《聖命障壁》!」
その瞬間、爆ぜるように光が広がった。
ノアの足元に淡く浮かぶ十字の紋。
舞い上がる粒子は天使の羽のように柔らかく、けれど確かに、迫る黒の刃を静かに受け止めていく。
――それはまことに、祈りの結晶にして、守りの化身であった。
これは単なる防禦の術などではない。
他を傷つけんとする意志を、静かに、けれど確かに包み込み、
己の中で熔かし、やがて“護らんとする願い”へと変貌せしめる、
一種、魂の精錬のごとき障壁である。
黒炎は、憎悪を携えながら舞い降りしも、
その焰、いつしか柔き陽光となりて地を撫で、
呪詛に濁りし霧は、祝福の風に化して渓谷を浄め、
深き呼吸が、しばしこの場を支配した。
そのさまを静かに見据えながら、
エゼル・ノクスはただ一言も発せず、
両の掌より緩やかに炎の盾を呼び起こし、
残りの迫りくる悪意を、一片ずつ丁寧に、しかして確実に、
燼として打ち払っていくのである。
かの背後に揺れ動くは、六枚の幻の翼。
熾天葬の名を戴くそれらは、聖火の雨を降らしつつ、
世界の理さえも、わずかに揺るがせるごとく、
淡き熱をもって、暗き断片を焼き尽くしていった。
“絶対災厄”の動きが、僅かに止まる。
「……面白い。まだ、その翅を燃やし尽くしていなかったのね、蛾」
ノアの背に光が差す。
だがその光は、勝利のものではない。
今この瞬間だけ、守るために燃え上がった命の煌めき。
彼の命気はもう底を突こうとしていた。
だが――
「まだ……“あいつ”が、いる……!」
視線の先。
遠く幻惑の中で眠る親友。
まだ目を覚まさぬその存在に向けて、ノアは叫ばぬ声で、ただ心を放ち続ける。
“お願いだ。もう一度、オレを支えてくれ。レタル。”
この結界が解けるとき、すべてが終わるかもしれない。
それでも、今だけは。
ただ“守る”と決めた、その意志だけを――灰になるその瞬間まで、手放すことはなかった。




